◆会報第30号より-03 五百の悲劇

シリーズ「八幡に残る昔話と伝承」・・・⑤
五百(以保)の悲劇と淀屋宗家のその後

丹波 紀美子 (会員) 


 江戸時代の中頃、八幡に可愛い女の子が一人残されてしまいました。父は地主で名前を下村个庵、以前の名前は淀屋辰五郎。母の名は吾妻といい、女の子の名前を五百(いお、以保)といいました。
 五百が7、8歳の頃、両親が亡くなり、八幡宮の社士たちの助けによって暮らしていました。五百は遊里にいた母吾妻の美人の血をひき、また父の美男の血をひいているため、容姿端麗で非の打ちどころのない女の子となっていました。
 ある時、社士の一人が五百に婿養子をとるように勧め、養子と定めたのが京都の四方田重丞(よもたじゅうじょう)の末息子の彦三郎でありました。ところが兄の孫七が五百と関係を結んでしまい、父の重丞は外聞を憚って孫七と添わせました。
 孫七は養子に来た後、下村佐仲と名を改め下村家の相続をしました。佐仲は元来、身持ちが悪く淫乱博打(いんらんばくち)が大好きな男でした。社士や近所の人たちの忠告にも耳を貸さず、佐仲は「妻が未だ不熟でつまらん」と、うそぶいては京都に出て放蕩博打に入り浸っていました。下村家を相続して間もないのに田畑などを売り払い、博打や遊興費に金を湯水のように使っているので、これでは下村家がダメになると社士たちが相談して佐仲に離縁を申し渡しました。佐仲も今まで散々養子先を荒らしまわったので、もはや居残ることは難しいと思って大体のことを承諾して離縁状のないまま別れました。
 時は移り、ある時、八幡郷に他所から剣術の指南に来た大野左門という浪人がおりました。社士たちの大半は左門の弟子となり稽古に励んでいました。左門には妻子もなく独身ということが分かり、社士は大野左門に下村家を継ぐよう勧め、結婚の仲立ちを引き受けました。左門も成り行きに任せ、五百の家を稽古場にして、ここに泊まるようになりました。しかし、五百は、はっきりと佐仲と離縁したと言う証文がないので表向きは客分として暮らしておりました。
 ところが、京都にいる佐仲は、風の噂でこの話を聞き嫉妬に狂いました。元文巳2年(1737)正月のある夜、佐仲は二人を殺そうと加勢を連れて忍び込み、大野左門が寝込んでいる隙に討ち果たしてしまいました。左門は、剣術師範であるので普通に立ちあえば討たれはしなかったですが、深夜熟睡をしていたため起きることもできなかったのです。一方、五百は起きて座わり「首を討ってください」と佐仲に向けて首を出し殺されたということです。調べに対して、佐仲は「はっきりと離縁したわけでもないのに他の男と寝ていた」と申し開き、「妻の不義の敵討(かたきう)ちだ」と弁明し落着しました。しかし、敵討ちだというものの評判は良くありませんでした。
この話が、大坂の芝居で「淀鯉金(こがね)の鶏(にわとり)」という演題で大いにもてはやされたといいます。
 その後、5、6年経った後、京都で博打の取り調べがあり、佐仲はその首謀者であったため流刑にされました。10年余り過ぎて恩赦になって京都へ帰って来ましたが、父重丞は亡くなり、親類縁者も冷たく、不遇のまま70余歳まで生きたということです。

 この話は、元京都奉行所与力をしていた神沢杜口(かんざわとこう)の「翁草」寛政3年(1 7 9 1)の中の「城州八幡女(じょうしゅうやわため)敵討ち」の文章を再話したものですが、神應寺の過去帳にも五百の死のことが書かれており、五百の命日は元文2年(1737)丁巳10月9日となっています。
 なお、その他にも淀屋の分家の大豆葉町家(まめのはちょうけ)の7代当主岡本撫山が著わした「浪華人物誌」にも同じようなことが書かれています。この本では事件のあったのは元文元年〈1736〉辰の4月となっています。明治時代に書かれたものですが、岡本撫山は銅座の官吏をしておりました。(死亡年月日は3つとも違っているが、内容は大筋で合致している)

 ところで、下村佐仲の名が記された別の資料(講田寺文書)が見つかっています。その資料によると、橋本平野山にある講田寺は、f0300125_21182685.jpg最初、生津村にあったが水害を避けて平野山へ移転しました。その平野山の土地の所有者は下村佐仲で、享保15年(1730)、自ら土を運び建築に尽力し、東厳和尚を中興の開山として招き、淀下津町の小林中兵衛門尉信政を工匠として翌享保1 6年(1731)4 月に本堂を造立しました。〈棟札有〉
 この下村佐中と先に述べた「五百」の夫であった佐仲が、余りにもギャップがありすぎて信じ難いのですが、佐仲もこの様に真面目な頃もあったのかもしれません。
 下村家は、延亨元年(1744)に不調法により闕所(神澤杜口・著による翁草より)となってしまいました。
 5代目淀屋辰五郎自身も宝永2年(1705)に驕奢(きょうしゃ)と謀書、謀判の罪で闕所(けっしょ)になり、彼の娘婿、佐中も女敵(めがたき)討ちの事件及び流刑の罪でしょうか?不調法という名で闕所の憂き目にあいました。そのことで、まだ多分にあった下村家の財産は没収されました。しかし、間もなく佐中と五百の間の息子豊五郎は、家の再興を許されたと言われています。ただし、その後の豊五郎の消息は今のところ不明です。
 講田寺の檀那であった下村家は、衰退の一途を辿ったのか?講田寺も寺運が年月とともに傾いて行きました。講田寺が寺運を盛り返すのは、寛政6年(1794 )、難波の鴻池善五郎の室が夫の没後、尼となり夫の菩提を移し、痴極大謙和尚(ちごくだいけんおしょう)を開山として田畑五十石を寄進したのが始まりです。
 淀屋辰五郎が闕所の後、八幡に移り住んだ場所は、山柴公民館の前の路地(ドンドの辻)を入って行った所で、「淀屋辰五郎舊邸」と記された三宅碑が建っています。      ※ 闕所(けっしょ)・・・全財産没収されることで,死罪などの重罪の付加刑。
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この連載記事はここで終りです。       TOPへ戻る>>>

by y-rekitan | 2012-09-28 10:00 | Comments(0)
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