豊蔵坊信海の墓石をたどる 谷村 勉 (会員) 江戸時代初期に活躍した松花堂昭乗の書の門人として豊蔵坊信海の名を知る人は多い。江戸時代中期に細合半斎が著した松花堂流書法の啓蒙書「男山栞」の中には豊蔵坊孝雄と紹介され「信海と称す玉雲翁と号し覚華洞とも云狂歌に名あり由縁斎貞柳の師なり」と記されている。 さて、豊蔵坊信海の墓石は現在八幡市西山和気の足立寺史跡公園内にあり、史跡奥のこんもりした丘には三宅安兵衛碑が立っているので場所は判りやすい。しかし、実はこれまで何回足を運んでも豊蔵坊信海の墓石は特定できなかった。ちなみに現在三宅安兵衛碑の隣にある五輪塔の墓石は豊蔵坊信海のものではない。 以前、八幡市文化財保護課で確認すると、過去に墓石を調査した記録があり、そこに存在していたことは確かなようだった。またインターネットでも、墓石を特定できないと嘆いている報告もあるが、その報告されている写真等を参考に時系列に調べて行くうち、墓石は結構動いている事が分った。それでも最近、墓石が戻ってきたのか!やっと発見することができた。時々味わう感動の一瞬だった。 【墓碑】 為大阿闍梨孝雄大菩提也 貞享五戊辰年 九月十三日 墓碑には豊蔵坊の本尊である阿弥陀三尊(阿弥陀如来・観音菩薩・勢至菩薩)を顕す梵字と孝雄の名、貞享五年(元禄元年)の没年月日が彫られており、豊蔵坊信海の墓石と確認した。豊蔵坊信海の墓石は本来三宅安兵衛碑の隣にあったと考えられるが、動いていると推察される。また、墓石の形態は阿弥陀如来の梵字である「キリーク」の上に五輪塔の地輪を示す「ア」の梵字があるので五輪塔ではなかったか? しかし、笠付(石の屋根型笠を竿石の上に置く)の墓石であったとする説もある。 いずれにしても墓石群では五輪塔の笠石や塔身が殆どなくなり、なんとか原型を保つものとしては、一つの石から彫り出した2基の一石五輪塔と1基の櫛形墓石のみが残っている。 豊蔵坊信海の生年は寛永3年(1626)、没年は貞享5年(1688)で63歳であった。
by y-rekitan
| 2014-02-28 08:00
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