八木 功 (会員) 江戸時代、新潟も江口や橋本と同様、遊里で名を知られた港町であり、芭蕉の『おくのほそ道』の「市振(いちふり)」の章段には、伊勢に参宮する二人の遊女が登場する。「松島」や「象潟(きさかた)」などの章段を俳文の最高峰とする中で、遊女の登場する「市振」は極めて異色の章段である。遊女の語る身の上話を一部引用してみたい。 われわれに向かひて、「行方知らぬ旅路の憂さ<心細さ>、あまりおぼつかなう悲しくはべれば、見え隠れにも御跡を慕ひはべらん。衣の上の御情に大慈の恵みを垂れて、結縁せさせたまへ<法衣をお召しのお身の上のお情けに、なにとぞ私どもにも御仏の大慈大悲のお恵みをお分かち下され、仏縁を結ばせてくださいませ>と涙を落とす。不便(ふびん)のこと(かわいそうなこと)には思ひはべれども、「われわれは所々にてとどまるかた多し。ただ 人の行くにまかせて行くべし。神明の加護、必ず恙なかるべし」といひ捨てて出でつつ、あはれさしばらくやまざりけらし。とあるが、曾良の記した『随行日記』にも『書留』にもこの句は無く、本文執筆の際に創作された虚構であるというのが通説である。 この虚構構成の土台となったのは、謡曲『江口』や『選集抄』五ノ十一「江口遊女の事」であるが、西行と歌を詠みかわした遊女妙(たえ)は、特に「江口の君」と呼ばれ、二人の歌は、『新古今集』にも見られる。 天王寺に詣で侍りけるに、にはかに雨降りければ、江口に宿を借りけるに、貸し侍らざりければよみ侍りける。何故、『おくのほそ道』のこの場面に遊女の話が登場したかについては、遊女の心底に潜む信仰心が、芭蕉の感興を喚起し、艶やかな恋の座となったのではないかと思うが、さまざまある解釈の中で、私がもっとも納得・共感したのは、嵐山光三郎著『芭蕉紀行』(新潮文庫)の解釈である。それによると、風流・風雅に徹する風狂の旅とは、「月を眺め胸がざわめき、花を見て心が華やぎ、恋に身を焦がしてさすらう」旅である。芭蕉は、「出羽三山」の章段で「月山」を詠み、「象潟」の章段で「ねぶの花」を、「市振」の章段で遊女・恋の三句を詠んだというのである。 雲の峰いくつ崩れて月の山 最後の句は、二つの現代語訳を紹介したが、この場合、後者の方がより一層『芭蕉紀行』の解釈には沿うものと言える。さらに、私見を加えるとすれば、「一つ家に」の句自体にも、月・花(萩)・恋(遊女)という風狂の旅の三要素が凝縮・内包された名句と言い得るのではないかと思う。(2014.3.5) ※ 西施(せいし) 中国、春秋時代の越の美女。越が呉と会稽で戦って敗れると、 越王勾践(こうせん)は西施を呉王夫差に献上した。夫差は 西施の容色に溺れ、その隙をついて越は呉を滅ぼしたと伝え られる。(編集担当)
by y-rekitan
| 2014-03-28 09:00
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