◆会報第49号より-04 大谷川余話⑫

シリーズ「シリーズ「大谷川散策余話」」・・・⑫
第12章 大谷区・流れは河内の國へ

 野間口 秀国 (会員) 

 メモ帳とデジカメを手に、季節を問わずに大谷川の流れに沿って何回も繰り返し歩いて1年余りを過ぎ、今やっと住まいのある橋本の地に戻った感があります。過ぎれば短いと思える時間的経過の中ですが、出発点近くの京田辺市松井の「今池」付近と終着点近くの八幡市橋本の「橋本樋門」周辺の変わりようにはただ驚くばかりです。
 大谷川の最下流部の第5区、八幡大谷の地を流れることより「大谷区」と呼びたいと思います。起点は京阪電車の八幡市駅に近い鹿野(かの)橋です。石清水八幡宮の玄関口「一の鳥居」に向かう御幸道に架かり風格ある橋と言えます。平成5年(1993)9月に架設されたこの橋の親柱は石を使った太い四角柱状で、上部には灯籠が飾られ、欄干にも石が使われています。前章で公儀橋と町橋に触れましたが、鹿野橋がかつて町橋であったらしいことを知りました。その様子などを詳しく知りたくて地元の人にもお聞きしましたが、その思いは完全には果たせておりません。しかし以前の橋が石橋だったこと、近辺は桜の名所だったこと、河畔には料理屋があったことなどを教えていただきました。なお、現在の鹿野橋は無論町橋ではなく府道に架かる橋であり山城北土木事務所で管理されています。 
 男山の東の麓を北へ流れた大谷川(放生川)は、この鹿野橋から明治43年(1910)4月15日に開業(*1)の京阪電車の線路に沿うように西へと向きを変えて流れ下ります。現在の流れはほぼまっすぐですが『八幡市誌・第3巻』の表紙裏の絵図には「四十八曲りと云」との注釈が添えられており、かなり曲りくねった川であったことが分かります。
 『男山考古録・第11巻』にも「・・南北へ縄打はへし如く曲りて、土人は常に四十八廻りと云、・・」と書かれているように、傾斜が殆ど無くて平坦な土地ゆえに流れはくねくねとして緩く、澱み気味になるのもいたしかたなかったのかも知れません。f0300125_12354158.jpgまた「四十八曲り」や「四十八廻り」は流れの曲り数の多さの形容ではありますが「四十八坊」や「四十八願」(*2)にも何かしら通じるものとも言えそうです。
 地元に住む人達に「四十八廻り」と呼ばれた川の流れる科手の地は、放生川が淀川に流れ下っていた地で、古くは淀川の氾濫原であり現在の鹿野橋あたりには池もあったようです。排水の悪い低湿地帯であった様子は古い時代の絵図などにも見えます。男山の北側、御幸道の西側に位置する「科手」の地名は古く、久世郡科手上里(カミサト)と呼ばれ『八幡市誌・第1巻』の第2章と巻末の年表にも見えるように八幡神の男山遷座に先立つ八世紀後半、条里制の地割が成立する頃にまで遡ることができるようです。また地名の由来はこの地が「山の片下がり(=シナ)の所(=テ)である」こと及び「洪水によって流出し堆積した砂礫地、スナ(=砂)・テ(=所)が転じた」ことのようです(*3)。
 明治維新の直後、明治元年(1868)の年末に始まった当時の政府による木津川付替え工事によって、淀で宇治川と合流していた木津川の流れが八幡の科手近くへと大きく変わったことは既にご存じのことと思います。この付替え工事に伴って、かつて男山の山側から尾無瀬川を経て淀川に流れ込んでいた数多くの小さな流れが遮断されてしまいました。また科手地区の北側には明治2年(1869)11月に完成を見た新しい木津川の堤防が科手の北側に築かれた為に堤防の南側に降った雨水も行き場を失い、結果的には科手から橋本にかけて現在の京阪電車の線路に沿うように細長い湿地帯が生じることになりました。
 このように水はけの悪くなった状態を改善するために広い範囲に盛り土がなされると共に、淀川への排水を一手に引き受ける、内水排出河川としての大谷川が整備され現在に至っているようです。これによって流れは真っすぐになって四十八曲りも解消されましたが、傾斜が殆ど無い状態が大きく改善されることは望めず堆積する砂や茂った水草などで渇水期に流れが澱む状態は現在でも発生します。同時に、新しい流れの出現に因りそれまであった科手地区の墓地も他の地への移転を余儀なくされてしまったことも話していただけました(*4)。この春(2014.03.15)に八幡市・文化財保護課によって行われた「今里遺跡発掘調査現地説明会」の資料に見える「八幡八郷と墓地の分布」地図はまさにそのことを語っているかのようです。
 大幅に改善され今ではほぼ真っすぐになった大谷川は京阪電車の線路に沿って横町橋、奥谷橋をくぐり西へと流れ下ります。奥谷橋の山手側に踏切があり、踏切近くに常昌禅院があります。この寺は曹洞宗の寺院で300年ほど前に創建されたと言われており、門をくぐると左側に幹回りが約1.5mもある大きな椿「日光(じっこう)」があり、八幡の歴史カルタにも「めじろ呼ぶ常昌院の紅椿」と詠われて花の時期には咲き誇る紅椿がめじろのみならず訪れる多くの人々の目を楽しませてくれます。
 流れは木津川の堤防を右に見て科手から橋本へと下ります。この堤防は府道13号線として大阪府枚方市へと繋がります。堤防を科手から橋本に向かって車で走ると、道の左側を覆うような楠の大木が出迎えてくれます。明治23年(1891)生まれで既に他界された祖父を持つ、そう話していただいた楠の近くに住まれる男性から「堤防ができた時には楠は敷地内にあった。家だけが敷地の南方向に移って楠だけが今の場所に残ったんだ。その時は木はまだひょろひょろだったと、祖父がそうゆうてたから樹齢は100年を超していることは間違いなかろう。」と話していただきました。お話の内容からも樹齢が確かに100年を超すことは間違いないと言えますし、目通りは461cm(直径は約146cm)でまさに大木です(*5)。f0300125_13221453.jpg
 この楠の近くに、現在は街中の飛行神社に祀られている二宮忠八翁が飛行器(機)の試作を行った工場(工作所)があったことは案外と知られていないことかも知れません。当時の建物などは残されていませんが、この地に史実を記した表示板の設置も検討がなされているとも聞き及んだことがあります。楠を過ぎて程なくの信号を左に折れると、かつては宿場町・門前町であった橋本の地に入ります。橋本住区への玄関口には「はしもとばし」があり、橋を境に流れは木津川左岸堤防(府道13号)の法面(のりめん)直下を流れ、かつての宿場の建物群を裏側から見上げるように流れ下ります。橋本の歴史について書くべきことはかなり多いですから、本章ではできる限り川や橋や水に関係する事柄に留めたいと思います。
 その第一が「渡し場跡」の道標です。京街道の町並みの風情がまだ残された橋本に足を踏み入れて間もなく、道の左側には共に小さいながら、先ず稲荷神社(豊影稲荷・石橋稲荷)があり、歩を進めると金刀比羅大権現の末社(?)があります。これを過ぎると少し大きめの道標があり、そこを右折し直進した場所に橋本で二本目の「栄橋」があります。橋の袂に「渡し場の案内石標」があり「大坂下り舟の里場(舟乗り場)」「山ざき・あたごわたし場」「柳谷わたし場」「津の国そうじ寺(総持寺)」などと読めます。京・大坂への上り下り、離宮八幡宮から石清水八幡宮へ油輸送、愛宕参詣や柳谷観音参り等、多くの客で賑わったであろう様子が想像できます。
 f0300125_1323494.jpg渡し舟は時代が下って昭和37年(1962)まで運行されていたようです。京阪電車の橋本駅京都方面行き改札口前にある洋食の店「やをりき」さんで珈琲を飲みながら、お店のファンを自認される近所のご婦人から「私も父に連れてもらって何回も山崎へ渡ったこともあるよ…」と当時を懐かしむように話していただきました。また「かつて京阪電車のストライキで大阪への勤務ができないため、渡し舟で山崎へ渡り、当時の国鉄山崎駅から列車を乗り継いで会社へ行ったことも…」との話も知り合いの会員から聞き、駅近くにお住まいのご婦人から「山崎に渡り西京極に野球の試合を見に連れて行ってもらったよ」と教えていただきました。そんなことを物語るかのように、栄橋を渡り堤防の法面の階段を上って府道を横切ると、堤防の反対側を斜め左に降りる人一人が通れるほどの小路が残されております。この冬、催し物の一つとして「渡し舟復活」が計画され、舟乗り場も造られましたが生憎の荒天で行事は中止となり楽しみにしていた渡し舟には乗れずじまいでした。渡し舟にロマンを感じるのは私だけでしょうか。
 八幡市を写す航空写真を見ると、町は地形的にも水と向きあうことが避けられない場所であることが一目瞭然です。淀川水系の上流部で降った雪や雨は、向かいの天王山と男山に挟まれたこの地で一本の流れになり海へ下ります。同じ水系の大谷川もまた美濃山と男山の山裾を巻くように流れて橋本の地で淀川へと注がれます。八幡町誌や八幡市誌、また関連する資料・書籍などに目を通す時、水害、浸水、洪水、内水などの言葉が頻繁に目に止まります。大谷川に沿って現存する複数の大字・小字の地名が水や水害などに由来するものであることは綱本逸雄氏著・勉誠出版刊の『京都盆地の災害地名』からも良く分かりますし『八幡市誌・第二巻』『同・第三巻』の年表には水との闘いが繰り返された史実が数多く見られ、今日に至る様子が良く理解できます。
 このように長い年月にわたる水との戦いに対し、人々が「神仏にもすがりたい」と思うのは自然なことでしょう。そのような思いが橋本小金川の一角にあって地元の皆様に大切に祀られている「水嫌(みずきらい)地蔵」と呼ばれるお地蔵様に表れているようです。祠の右手前にある棚には寄進された人々のお名前があり、地元のみならず木津町、姫路市、遠くは神奈川県の地名も見られます。棚の前にはご利益の「地蔵十益」が飾られ、その六番目には「火と水の難にあわない」とあります。近所にお住まいの年配のご婦人からは「お地蔵様は私が生まれた頃からあるよ」と教えて頂き、また昭和40年代から近くで「理髪店・犬飼(いぬかい)」を営まれる同店のご主人は「ここに来てから水難には遭っていないよ」とも話していただきました。お地蔵様が鎮座されている祠は平成5年8月に建て替えられたようです。祠の左側にはお地蔵様の由来を伝える説明板があります。ここではその内容は割愛しますが、先の理髪店のご主人からお祀りは地蔵盆の時期とお聞きしました。
 大谷川の流れがまさに淀川の河川域内に入る直前に「橋本樋門」があります。増水時に本流の水位が高くなると水が逆流する可能性があり、それを防いでくれるのがこの樋門なのです。かつては木製観音開きの構造であった樋門も、本流からの水圧に抗して構造的により強い垂直に昇降する構造(鉄製の電動スルーゲート)に改善されています。前述の『八幡市誌・第三巻』の年表にも昭和41年(1966)5月に「橋本樋門改築完成」との記述があります。昨年、平成25年(2013)秋の豪雨の際にも閉じられた樋門が水の逆流を止めている様子を実際に目にし、その重要性を再認識できました。隣には少し小ぶりですが「小金川樋門」もその存在を誇示しています。
 f0300125_13275321.jpg現在、平成26年(2014)4月10日時点、これら両樋門の近辺では京阪電車の線路と大谷川を一跨ぎする新しい道路橋工事の真っ只中です。既に土に隠れて見ることは出来ませんが、橋脚部には古くからの浸水や洪水の歴史を語るかのように堆積した砂の地層が静かに眠っていることも記しておきたいと思います。樋門を過ぎると本シリーズで最後の橋となる「小金井橋」です。橋の所在地は大阪府枚方市ですから、大谷川の流れはここで山城の國に別れを告げて河内の國へと入ります。
 昨年の春から書き続けてきました「大谷川散策余話」のシリーズも次号の「第13章、終わりに」を残すのみです。最後までのお付き合いをお願いいたします。

(*1)京阪電車お客さまセンターのご協力をいただきました。感謝申し上げます。
(*2)平成25年(2013)10月10日の歴探10月例会の講演にて、本庄良文氏が話された「八幡における浄土信仰」より。
(*3)綱本逸雄氏著・勉誠出版刊の『京都盆地の災害地名』より。
(*4)平成26年(2014)1月24日、科手にお住まいの井上隆夫氏宅にて氏より、科手の歴史やかつての様子などをお聞かせいただきました。紙面にてお礼申し上げます。
(*5)目通りは3回測定した結果の平均値です。直径は461を3.14で除して算出。


<<< 連載を抜けてTOPへ        この連載記事の続きは⇒⇒

by y-rekitan | 2014-04-28 09:00 | Comments(0)
<< ◆会報第49号より-03 伊佐... ◆会報第49号より-05 墓石... >>