◆会報第49号より-05 墓石をたどる⑤

シリーズ「墓石をたどる」・・・⑤
足立寺史跡公園(豊蔵坊)の墓をたどる

谷村 勉 (会員) 

 八幡市西山和気の足立寺史跡公園の北側階段を登ると、和気神社を左に見て、正面奥のこんもりした丘に行けば「豊蔵坊信海墓」と彫られた三宅安兵衛碑が立ち、豊蔵坊の墓石群が見える。前回は豊蔵坊信海(孝雄)を中心に報告したが、今回は墓石群の全体像を報告したい。
 墓石群は東、南、西方向に位置し、北側は空いている。それぞれの位置は写真に示す通りで、ほぼ全体が豊蔵坊の関係者と思われ、豊蔵坊信海(孝雄)の師である「豊蔵坊孝仍」の墓石も残っていた。五輪塔の材質はいずれも砂岩だが、なかでも江戸時代中期の孝起、孝寛、孝暁の墓石では大型の一石五輪塔になっていて、豊蔵坊の財力が垣間見える気もする。一般的に西日本では室町時代後期から江戸時代初期にかけて小型の一石五輪塔が多く作られた。五輪塔は下から地輪、水輪、火輪、風輪、空輪となり、普通は空風輪を一石、他を3個に分けて作られる。地輪には年代・人名・梵字が刻まれることが多い。
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南側にある墓石5基の内、中央にある③が豊蔵坊信海(孝雄)の墓石で、向かって右隣に信海の師である④「豊蔵坊孝仍」の墓石も判明した。しかしながら、豊蔵坊孝仍の墓石は上半分に剥離を起こし、その部分の文字が不明である。
 ②の五輪塔は地輪の下半分が壊れてなくなっており、肝心のところの墓碑が判読できず不明である。地輪と水輪は接着しているが空輪は当然接着していない。
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豊蔵坊の住持と思われる墓石に彫られた墓碑を没年月日の年代順に示す。
 ④孝仍 法師孝仍大菩提  寛永二十年十一月廿四日(1643)
 ③孝雄(信海)  為大阿闍梨孝雄大菩提也  貞享五戌辰年
   九月十三日(1688)
 ⑥孝起 大阿闍梨孝起  宝永五戌子年十一月十三日(1708)
 ⑤孝寛 法印権大僧都孝寛  元文三戌午年十月十二日(1738)
 ①孝暁 権大僧都法印孝暁  明和六己年季夏廿四日(1769) 
   (季夏:陰暦6月)

 f0300125_9311070.jpg豊蔵坊孝仍(ほうぞうぼうこうじょう)の墓石も信海同様に一石五輪塔ではなかったか。歴代の豊蔵坊住持と思われる他の墓石はどれも一石五輪塔の形式を残している。孝仍の墓石はいわゆる玉ねぎ剥離が進み、幸いにもかろうじて残った部分に孝仍の名と没年月日が読み取れた。豊蔵坊孝仍について『男山栞』では「松花堂画門人」として、まず萩坊乗圓と豊蔵坊孝仍を挙げて「信海の先住と云、‥筆力あるもの也」と記されている。また『瀧本栞』にも「信海の先住孝仍の画萩坊に雁行するも知人まれなり」とある。松花堂昭乗は寛永16年に56歳で亡くなったが、豊蔵坊孝仍の没年は『古今非画人画史』によると寛永20年に40歳で亡くなったようだ(豊蔵坊信海の伝と文事/塩村耕)。
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◎西側2基の内、右側の1基に4人の墓碑がある。右から
   法師泰山寛専 元文六(1741)酉二月廿九日
   法師空善寛忠 寛保元(1741)酉九月廿三日
   法師長運寛德 延享三(1746)寅七月廿一日
   阿闍梨弁隆寛周
 いずれも「寛」の一字が記されていることから、南側、⑤孝寛の弟子たちの墓石かもしれない。阿闍梨弁隆寛周に没年月日は彫られていない。
◎西側2基の内、左側の墓碑。
   大法師権大僧都法印精信 享保五(1720)庚子年十月十四日
 墓石の頭頂部に水輪のはがれた痕跡があり、一石五輪塔と思われる。地輪、あるいは梵字の基本を示し、あらゆる諸仏諸尊を代行するといわれる梵字「ア」字がある。住持クラスの墓石形式だが「孝」の字はない。

 最後に、豊蔵坊は幕末まで続いていたので、江戸時代後期の豊蔵坊住持達の墓石はどうなったのか。今後も豊蔵坊の全体像を理解する為に、関係資料を調査したい。


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by y-rekitan | 2014-04-28 08:00 | Comments(0)
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