◆会報第50号より-03 伊佐家暮らし③

シリーズ「伊佐家の暮らしとしきたり」・・・③
伊佐家の暮らしとしきたり その3

伊佐 錠治 (会員) 

(3) 食事―国立科学博物館企画展示展「あしたのごはんのために」から

f0300125_1439266.jpg 平成22年9月~23年1月に、「将来の食と農を考える企画展」(図18)が開催され、前項で記載した格式日記から11月24日の貞武誕生日の夕食が紹介された。誕生祝の食事が「一汁三菜」と質素なもので、現在の食事との差は歴然としている。このように食事の習慣はその時代の暮らしを反映するものとして興味のあると思われる。
 また、日記には料理のレシピが色々な場面で記載されているが、接客時の料理が豪華であることに比べて暮らし向きは質素であったことを知ることができる。
 図19に記載されているように、米と魚を中心とした食生活がメタボにならない日本人の長寿に結びついているのかもしれない。
 江戸時代の農村は自給自足に近い暮らしで、輸入食糧に頼って食糧供給問題が話題になっている現在、当時の農村の食生活を見直す必要があるのかもしれない。
f0300125_14132223.jpg

(4)暮らしを豊かにする調度品

 古い家には昔の調度品が残っている。伊佐家には多くのものが残っているわけではないが、現在から見れば珍しいもの、あるいは生活を豊かにすると思われるものが残っているので、それらについて紹介する。
f0300125_14485061.jpg 現在でも携帯用の品々が旅行では便利に使われている。江戸時代の長旅で使われた携帯枕と携帯燭台を照会する(図 20、21)。折りたたみ式で携帯にはかさばらなくて便利に使われたいたものと思われる。 線香は燃焼速度がかなり正確なため、古代から時計代わりに用いられてきた。暮らしに潤いを与える調度品として香時計が残っている(図22)。
 上段の箱には灰が詰められていて、この表面に香を筋状に敷き、その先端に着火する。筋の長さで燃える時間が決まるので、燃えた香の距離によって時間を知ることができる。香りを楽しみながら過ごした時間が判ると言う優雅な道具で、現在と違って、時間に余裕のあった江戸時代にはふさわしいものである。
 暮らしの中で遊戯を楽しむことは生活に潤いを与えくれる。我が国で古代から知られてきた遊戯に双六がある。双六には、盤双六と絵双六の2種類があるが、絵双六は近世になって広がったもので現在、子供の遊びとして使われている。
f0300125_14451742.jpg
 盤双六(図23)はサイコロを振って出た目に従って桝目に置いてある駒を進めて上がりに近づける盤上の遊戯であって歴史は古い。インドからシルクロ-ドを経由して中国にわたり、奈良時代に我が国へ伝来したと言われている。実際に、正倉院には聖武天皇が遊んだ盤双六がのこっている。
かつては上流階級婦女子の嫁入り道具の一つで、婦女子のたしなみでもあったが、江戸時代には賭博に使われたため、禁止令が出たことと将棋、囲碁が台頭してきたことによって衰微したようである。
 第2次大戦後は、盤双六と遊び方が酷似しているバックギャモンがボードゲ-ムの一つとして外国から取り入れられ、昭和40年代には全国で遊ばれていたが、ゲーム機器の普及によって衰退したようである。
 通常の暮らしではほとんど使われなかったと思われるが、珍しい道具として蘭引き(図24)を紹介する。
蘭引きはオランダから取り入れたものであるから「蘭引き」と命名し、カタカナ表記でランビキとも書くが、家庭の蒸留器で、焼酎や化粧用の精油とかを製造するのに使うものである。
 どぶろく、味噌やお茶から生糸、綿など自給していた江戸時代に、どぶろくを蒸留したり、いも、麦を麴で処理して蘭引きで蒸留して焼酎を作ったりして、生活に潤いをもたらしていたのかもしれない。

(5)暮らしと信仰

 旧家には地蔵堂や屋敷神が祀られている屋敷がある。当地では、格式日記に記載されているように、伊勢講とか日待ちのしきたりが重んじられていたようで、農耕と信仰は密接な関係がある。f0300125_152418.jpg
 庄屋を勤めていた伊佐家は農業が大切であり、農耕神である屋敷神があっても不思議ではないと思うが、史実には記録されていない。
しかし、藪の中に「ほこら」と呼んできた小さなお社がある。ただし、石仏が祀られているので屋敷神とはいえない。このほこらを地蔵堂(図25)とも呼んでいるので昔から仏像が祀られていたと思われる。f0300125_15112269.jpg 代々の家内安全と繁栄を願って、不吉とされる屋敷の西北に建立したと思われるが、建立の理由とか時代は判っていない。このほこらは、小さな古墳のような築山の上に祀られていることから村人を埋葬していた場所ではないかとも言われている。
 埋葬については、古くは屋敷内に埋葬していたと言われている。伊佐家の前庭に築山があるが、築山には庭木がなくて墓石様の小さな灯篭(図26)がある。灯篭の形から推測すると菩提寺に埋葬する以前は庭に埋葬していたのではないかと思われるが定かではない。 庭にお墓があれば毎日、お参りできるので大変合理的である。

(6)和算と算額

 和算は日本独自の数学であり、江戸時代に大いに発展した。
 村の統括や村の運営に支障のないようにするのが庄屋の役目である。その為に年貢、田畑の測量、使役計算に役立つ和算を取り入れたと思われる。
 十代政徽(まさよし)(1748~1819)は和算を学ぶため京都に出向き、邨井中漸(むらいちゅうぜん)門下に入って和算の勉学に励んだ。1765年(明和2)に18歳で免許皆伝となって邨井先生に「弟子自書盟文」を提出し、算額(図27)を氏神である石田神社に奉納した。f0300125_14542113.jpg 算額とは額や絵馬に数学の問題を記載して神社に奉納するもので、算額を奉納する習慣は我が国独自の文化である。現存する算額は全国に975個(1997年時点)残っているが、政徽の奉納した算額は10番目に古いもので、村の貴重な文化財となっている。
 額には政徽の考え出した5問が記載されているが、何れも難問で現代数学でも簡単には正解が得られない程に高度なものである。
和算を教えるには幅広い知識が要求されるようで、茶道、漢詩なども学んだ記録が残っている。政徽は和算が暮らしに役立つと考えたのか、家族を始め村人にも和算を教えた記録が残っている。
 伊佐家の歴史の中で、和算は貴重な特徴の一つであり、和算に関連する多数の古文書は大切に保存されている。
                       (次号へ続く)

<<< 連載を抜けてTOPへ        この連載記事の続きは⇒⇒

by y-rekitan | 2014-05-28 10:00 | Comments(0)
<< ◆会報第50号より-02 八幡門前町 ◆会報第50号より-04 大谷... >>