シリーズ「八幡の歴史の謎とは何か?」・・・①
原始・古代~中世篇
八幡の歴史を探究する会 事務局
先日ある人から、昨年の探究する会発足の時に、「八幡の歴史の謎」を提起したとあるがそれは、どのようなものかと尋ねられたことがあります。
一年以上経過したもので今となっては補充しなければいけないものもありますが、「初心忘れるべからず!」の譬えもあり、ここに再度掲載することにしました。これをベースの一つとしてまた追加する項目も附け加えながら、更なる探究を進めてゆきましょう。
原始・古代- 八幡にはどんな遺跡があるのか? それらからどんなことがわかるのか?
- 八幡に人が住みつくようになったのは、いつごろ、何処で?
- 八幡の何処にどんな古墳があって、被葬者はだれか? 大和王権とどんな関わりがあるか?
- 八幡にある神社の祭神は? 記紀神話との関わりはどうか?
- 奈良から長岡・平安に遷都する過程で、八幡・樟葉はどんな関わりをもつのか。味(御)園神社と「那羅庄」を足がかりにしたとする説を検証する。
- 行基が対岸にある山崎と橋本界隈に橋を架けたといわれるが、そもそも行基はどんな人物なのか? 「行基年譜」からどんなことが見えてくるか。
- 美濃山、志水、西山にそれぞれある廃寺はいかなるものか? 何が出土され、どんなことがわかっているのか? 古代仏教史の中にどう位置づけられるのか?
- 八幡神はどんな神なのか? 誰がどんな意図のもとに石清水(男山)に勧請したのか?
- 八幡神が源氏の祖神とされるようになったのは何故か?
- 和気神社や足立寺にまつわる伝承および、宇佐八幡の託宣による道鏡皇位継承阻止事件の真相を探る。
中世- 「八幡大菩薩」を祭神とする石清水の神仏習合の実態はどのようなものか? 山上にどんな寺があって、どのような構成であったのか? 僧と神官をめぐる構成はいかなるものか?
- 石清水八幡宮の祭祀には、どのようなものがあるか。特に、放生会と安吾祭は誰が担ったのか。安吾頭役とは何か?
- 石清水神宮の門前町は何時、どのように形成されていったのか。柴座などの座はどのようなものであったのか? 油座をめぐる離宮八幡と石清水八幡との関係は? 麹の販売をめぐる森(八幡)と樟葉の住人との争いの顛末は?
- 石清水に限らず神人による強訴が方々の神社で展開されるが、それはどのようなものなのか?―嘉禎元年(1235)における薪荘と大住荘との用水・堺相論、応永31年(1424)における神人強訴[護国寺薬師堂閉籠(へいろう)事件]からどんなことがわかるのか?
- 源頼朝は石清水に何回参詣したか? 頼朝上洛の目的と足跡を辿る。―正法寺創建との関わりは?
- 蒙古襲来にあたって、石清水八幡宮でいかなる祈祷がなされたのか。叡尊や律宗教団と八幡宮との関わりは?―「航海記念塔」はいつ、どのようにして建造されたのか?
- 『太平記』に八幡はどのように登場するのか―戦場は何処か? 南北朝の争乱の中で、八幡における戦い(「八幡炎上事」、「八幡合戦事付官軍夜討事」)はどのように位置づけられるか。
- 室町幕府は、八幡宮をどのように保護したのか?―善法律寺と室町将軍家との関わりを探る。
- 和歌や謡曲など古典の世界で八幡はどのように描かれたのか。
以下、近世・近現代の八幡の謎は次回に掲載いたします。(事務局)
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