![]() 墓地で探る八幡の歴史(1) 近世後期八幡神領の病・死・墓 ― 社士史料と墓地 ―2011年9月 松花堂美術館本館にて 京都府立大学 東 昇 はじめに 京都府立大学は、ここ数年、地域貢献型の事業として府下の文化遺産をとりあげ情報化する取り組みを進めてきた。その一環として、昨年度3月に、文化遺産叢書の第4集「八幡地域の古文書・石造物・景観」を発行した。 八幡を取り上げるのは第3集に続いてのものであるが、八幡の歴史を探究する会から増刷してほしいという要望が出され、それに応える形で100冊増刷した。この種のものは、図書館や研究機関などには配布できるのだが、市民の方々に頒布することがなかなかできず、今回、探究する会に印刷費の一部負担をしてもらい実現できた。こういう形で市民の皆さん方に広く読んで頂けるということは喜ばしいことである。(写真) ただし、今日の私の話は、文化遺産叢書の第1集「南山城・宇治地域を中心とする歴史遺産・文化的景観」に収録されているものである。 1、息子の疱瘡 社士の日記だが、プライベートな内容に関わるので名前等は伏せて紹介する。 その日記には、天保3年(1832)に誕生した徳太郎の疱瘡発病までのことが書かれている。 「午中刻男子出安産、母子共剛強可喜候、予去文政甲申春三月女子出産不幸ニ而夭、今年迄九年今日男子誕生可喜」とあるので、娘が夭折して9年ぶりに授かった子供で、その上男子であり、また母子ともに健康であることを喜んでいることがわかる。 約1ヶ月後の4月26日には宮参り、翌日にかけて発節句のため粽を作っている。また、4月29日には京に出向いて端午の節供の具足錺物を購入し、5月5日から3日連続で親類縁者を招いて豪勢に発節句を祝っている。 翌天保4年3月25日には誕生日の祝いをしており、同年9月には橋本の久修恩院へ箕加持の祈祷に連れて行っている。箕加持とは、多分、箕が穀物の殻などを選別することから、疱瘡の生死を選り分けるもの、また疱瘡神の依り代と見ているのではないか。徳太郎の場合も、この時期に流行していた可能性の高い疱瘡を予防するため、箕加持を行ったと思われる。だが、その疱瘡(痘瘡)にかかってしまう。 罹患して以来のことは以下の史料1の通り。(…以下は講師東氏によるコメント。一部、編集担当の注釈も入る) 《天保4年》
《天保5年》
徳太郎の場合、薬、医者、疱瘡神送り、箕加持を行っている。疱瘡神送りというのは、当時、疱瘡の神が人についたために疱瘡を発病すると考えられており、この神を送る神事のこと。弘化2年(1845)4月、同じ社士の息子の三次郎の疱瘡の際、「痘瘡神ヲ九反田四辻ヘ送ル」とある。隣の久御山町では近代でも、同種の神事が行われていた。 また、近世のものと思われる疱瘡御守が旧社士家に現存し、「石清水八幡宮疱瘡御守」と彫られた版木も残っている。八幡宮において疱瘡御守を発行し、配札していたということであろう。 2、娘の死 次に話すのは、徳太郎の妹田鶴の死についてである。田鶴は天保4年(1833)に生まれ、兄と同様に節句や誕生日の祝いがなされ、7歳で手習いに通わせ、大坂の四天王寺や住吉大社へのお参り、伏見の花火見物などにも連れて行っていることがわかる。だが、弘化2年(1845)に病気に罹った。病名がわからず、医者に診てもらったが、翌年4月3日から食を受け付けず、13日尿が出ない状態になった。以後は、次に記す史料2の通り。 《弘化3年》
《弘化4年》
3、八幡の墓地 八幡の墓地は、橋本の焼野墓地、番賀墓地、中ノ山墓地(女郎花墓)などの外、田中家・善法寺家など社務の家の墓がある。その中で、古いものでは中ノ山墓地が関西で最も規模が大きいのではないか。 4、社士の墓 社士の墓の特徴としては、百姓の墓がかまぼこ型のものが多いのに対し、角柱型のものが多く、戒名ではなく人名や生前の官職が刻まれていることが多い。そしてその人物の来歴を記した墓誌を記したものが多い。ちなみに番賀墓地には、「男山考古録」を書いた長濱尚次の墓があり、墓誌として彼の事績がかなり詳しく書かれている。 おわりに 墓誌が多く記されている墓はそれ自体貴重な資料になる。同時に、それが信仰の対象であることをふまえて、管理者やお寺、各家の理解、同意が必要であることはいうまでもない。今後は、現地調査を続け、墓地・墓碑についての情報をデータ化し、文献史料とリンクさせ、近世の地域情報データーベースの構築をめざしたい。
by y-rekitan
| 2011-09-28 12:00
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