地名で学ぶ八幡の歴史 ― 2011年7月 志水公民館 にて ― 7月13日(水)、志水公民館にて7月例会を開きました。出口さんには「会員研究発表」として依頼したものですが、内容的に専門家の講演に等しい熱のこもったものでした。 出口さんは、地名の成り立ちには様々な説があって、決めつけにくい面がある。従って、これから披露するものも一つの説として聞いて頂きたい旨の発言がありました。1、はじめに―地名とは何か 地名は古代人がある地域を知らせる一つの手段として、実用的意義を持って発生した。従って、古代の自然環境の特徴を表明し、当時の人々の思考・意識・感情を反映したものである。 さらに、古くからの伝統や町が生まれたいきさつ、歴史、その土地に住んでいた人々の思いなど織り込まれている。 2、地名誕生の三つのポイント 地名が生まれるには三つのポイントがある。 (1)自然地名―その土地の場所、形、特徴からつけられたもの 野……大野・小野・高野・大原など 山……山本・大山・小山 (2)文化地名―人の手が入ることで文化的・社会的な名称がつけられた (3)地名の佳字化・嘉字化―元の地名を美化したり、めでたいものに変えたりした その例として、埋め田→梅田、葦野→吉野、二荒山(ふたらさんの音読か)→日光などがある。 3、古代の地名(略) 4、八幡の地名 (1)古代の地名 大宝律令(702年)に国・郡・里の制定がなされる。 山背の国(平安遷都以前の国名)は、宇治・久世・綴喜・相楽・紀伊・乙訓・葛野・愛宕の郡で構成された。久世郡の竹淵郷・那羅郷、綴喜郡の有智郷が現在の八幡にあたる。つまり、八幡は那羅郷を南限とする久世郡と有智郷を北限とする綴喜郡にまたがる形で存在したということである。 (2)条里制との関わり 条里制とは、古代の農村計画のもととなる区画法で、大化の改新での班田収授を円滑に実施するため全国的規模で実施されたと考えられる。その名残と考えられる小字(こあざ)として一ノ坪、五ノ坪、六ノ坪、十三、十そう、三十が現存している。 (3)内四郷と外四郷の成立 八幡(神領)は江戸時代以前より内四郷と外四郷によって構成される。各郷に属する町は以下の通り。 外四郷は次の通り (4)町場の地名 ① 八幡 「八幡」の地名は、貞観元年(859年)に八幡神が勧請されてからのものであり、応神天皇の称「広幡の八幡の大神」に由来との説がある(『続日本紀』天平勝宝元年)。 また『男山考古録』には「当地は古のままにヤワタと云へり、或説はハチマムと字音をもて称えつる始ハ、八幡太郎義家朝臣より云り。こは神号を憚らせて、字音のまま云り」とある。さらに、天慶5年(942)4月27日、平将門・藤原純友追討の報賽として始められた石清水臨時祭の歌に「イノリクル ヤワタノミヤノイワシミツ ユクスヘトヲク ツカエマツラン」(『臨放記』)とあり、早くから「ヤワタ」の地名が登場する。 ② 科手郷の町名 科手山にかって科手寺が存し、集落も8世紀に存在していた。「シナ」とは水辺についた地名の意で、滋賀の志那(シナ)と同じ。また、「シナ」=山の肩下がり、「ナ」=~ノ方向の意もある。山科・信濃がその例。 ③ 常盤郷の町名 邑入口に往昔大門あり、その境内を分け示した。その辺戸際という。(『男』) ④ 山路郷の町名 山路は、男山へ登る山路(やまみち)に由来。 ⑤ 金振郷の町名 金振は、式部谷遺跡出土の銅鐸からカナフリか? (5)カイト地名考 八幡には、カイト(垣外・垣内)の地名が現在16箇所ある。これは、中世から近世にかけて一般化したものであるそれらは、①垣などを廻らし、外と区別する小規模な開墾地を指す場合、②開墾地に人が住み、集落を示す場合(八幡に多い)、③社会集団の名として残る場合とがある。 八幡のカイトの成立を考えると次の5つの型に類別できる。 ①集落+集落形 もともと集落があり、それに拡大する形で別の集落が形成された例。 ②集落+開墾地型 古代の集落が、集落の外に「垣内」または「垣外」を開墾した例。 ③集落移転型 水害による内水排除が困難なために、居住性のよい地域へ集落が移転した例 ④集落再編成型 居住性と生産拠点としての価値の高さから古代、中世、近世にかけて集落が拡大、移転、再編成していった例。 ⑤集落最適地化 居住空間をよくするために移転をせず、集落の周囲を土居で固めたり、環濠集落化したりした例。 5、失われた地名 八幡の現在の小字数は369である。現在の市域と異なり単純に比較することはできないが、慶長5年(1600)の差出検地帳では1160を数えていた。例えば、正法寺分の差出帳(45石5斗8升分)に限っていえば、29か所の地名を有していたが、現存する地名はカスカヘ・アラホリ・ツカノ本・ナカタイ・コモイケ・柿木垣内・フタイ・ワタリセ・小松の9か所である。以下の地名が消滅したことになる。 参加者は45名でした。 「一口感想」より 「地名は世につれて変わってしまう。地名の由来は、その土地の歴史を物語っているのにさみしい限りと思っている。一方、歴史の生き字引である古老も少なくなっている。古いことを知り、民話的な内容で(学問的でなく)後世に伝える事は大事なことと思うので、本日の様な集まりに若い人の参加を求める事も必要と思います。 塩釜公園辺りは、塩の精製地で、それ用の釜があったと地元の古老より聞きました。」 (M) ※「塩釜」には「塩垢離(ごり)」(神社参詣の前に塩をふりかけ身を清める)が訛ったものとの説もあります。 「昔から伝わるものを残すために地名を残してきた、という言葉が印象に残りました。そう考えると自分の住む地域を大事にせねば、と思います。竹網、城垣内辺りのお話で、神社、垣内、中心となる集落、いろいろな条件がそろって発展してきたことや山崎橋のお話も面白かったです!」 (匿名希望、若い女性) 「金振郷=式部谷遺跡出土の銅鐸から?とありましたが、金振と式部谷とはかなり離れていますが、何故ですか?」 (T) ※金振は郷の名で、式部谷を含んだ広いエリアを指すと考えられます。 「質問」 ①住所のつけ方として、一般では◯◯市△△町-丁目とつけるのに、なぜ八幡では「男山長沢番地」などと付けるのか。 ②内里蜻蛉尻、下奈良蜻蛉尻、戸津蜻蛉尻とあるのは何故? ③飛び地が多い? あっちこっちに同じ地名が散在している。何故か。」(匿名希望) ※①八幡は、歴史的に小字によって細かく分割されたものが町名として残っているので丁目で分割する必要がないことと、橋本や男山などの新興の住宅地も旧地名をいかすということで今日の姿になった。②蜻蛉尻というのは今の防賀川のことで、それが内里・戸津・下奈良を流れている地点に地名がついたから。③木津川が明治初年に付け替えられて、神領(八幡庄)が分断されたから。また、内里と岩田の入会地として飛び地ができたから。上の①~③の質問については、出口さんとの相談の上で、編集担当の責任で回答させていただきました。
by y-rekitan
| 2011-07-28 12:00
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