◆会報第54号より-07 物語の生まれ④

シリーズ「物語はどのように生まれたか」・・・④
女 郎 花 と 頼 風④

 土井 三郎 (会員) 


4、中世に出現した註釈書

 10世紀初頭に成立した「古今和歌集」の仮名序に関して、それを註釈する書物が鎌倉時代に現れました。奥書に弘安9年(1286)と記す「古今和歌集序(こきんわかしゅうじょ)聞書書(ききがきしょ)」と総称されるものです。「古今に三の流あり。一に定家、二に家隆、三に行家」という書き出しで始まるので「三流抄」とも呼ばれています。伝本が多く、必ずしも「聞書書(ききがきしょ)」と題したものばかりではありません。「古今和歌集序講義問答秘書」と題するものもあって、古今和歌集の序文をいかに解釈するか、序文の一つ一つの内容にどんな背景があるのかを問答形式に説いていく構成になっています。
 定家の流れをくむ藤原能基の手になるといわれますが、はっきりしないとのことです。古今和歌集の序文に関して、言葉や和歌の由来となったことがらを詳細に説くものですが、現代の感覚からすればおよそ荒唐無稽と思われるものがあります。しかし、謡曲をはじめ「曾我物語」や「太平記」などにもその説話が引用されるなど、中世以降の文学に大いに影響力を持っていると指摘されます。
 「男山の昔を思ひて」云々に関連する文章の冒頭の部分を抜き書きしてみましょう。
 男山ノ昔ヲ思出テ、女郎花ノ一時ヲクネルトハ、日本紀ニ云、又源氏注ニモ云、平城天皇ノ御時、小野頼風ト云人アリ。八幡ニ住ケルガ、京ナル女を思テ互ニカチコチ行通フ。或時、女ノ許ニ行テ何時ノ日ハ必ズ来ント契テ帰リヌ。女待ケレドモ来ザリケレバ、男ノ八幡ノ宿所ニ行テ、・・・
 後は、謡曲「女郎花」とほぼ同じストーリーが語られます。
 要するに、室町時代にできた謡曲「女郎花」はこの註釈書「古今和歌集序聞書書」から生まれたのです。出典はまさにここにあるのです。
 但し、上の文章には巧妙なしかけがあり、いかにも真実そうに語られているのです。
先ず、「男山の昔を思い出して・・・」は、男が若いころを懐かしく思い出すと解釈するのではなく、「男山(八幡)の昔」の時代のことだと思わせ、それはいつの時代のことかと読み手の思考を時代考証に向かわせます。そして、「古今集」が出来た時代、つまり貫之が生きていた時代よりも昔の時代だと揺さぶりをかけ、「日本紀に云う、又源氏注にも云う」として、「平城(へいぜい)天皇ノ御時(おんとき)」とあれば、そうか、そんな時代のことかと納得させる趣向です。
 平城天皇は、桓武天皇の第一皇子でしたが、病弱のため嵯峨天皇に譲位します。在位は806~809年の僅か4年で、古今和歌集ができる百年も昔です。このように、「男山の昔」の時代が特定され、しかも「男山」とあるから八幡に起こった話なのだなあと思わせています。しかも、小野頼風という人物まで登場するのですから、実在の人だなと誰もが思ってしまう仕掛けになっているのです。
 これが、「むかしむかし、あるところに・・・」で始まれば昔話であり、「昔おとこありけり」で始まれば歌物語なのだなと、フィクションとして割り切って読むことができます。
 ところで、「日本紀」とは何でしょうか。広辞苑によれば、「六国史(りっこくし)」(奈良・平安時代の朝廷で編集された六つの国史)もしくは「日本書紀」のことです。「平城天皇の御時」ですから「日本書紀」ではあり得ず、平城天皇在位の時の国史は「日本後紀(にほんこうき)」に当たります。
 ちなみに、「日本後紀」延暦15年(796)9月1日条に、「牡山(おとこやま)烽火(のろし)」の記述があります。八幡の歴史カルタに「国境 烽火の煙 男山」という句がありますが、そのことを思い出したものです。(ルビは筆者による)
 いずれにせよ、編年体で書かれる国史に、頼風やその女など庶民の恋愛譚(れんあいたん)が記される筈もありません。「又源氏注にも云う」とありますが、おそらく「源氏物語」の註釈書のことを指すものだと思われますが、源氏物語が書かれた時代にそんな註釈書を求めても無駄なことでしょう。
 要するに、「女郎花と頼風」は実話ではなく、説話文学に属する物語(フィクション)なのです。
『日本国語辞典』で「説話文学」は次のように説明されます。「神話、伝説、昔話などの説話を素材としたもの。(略)叙事的、伝奇的、教訓的、寓話的、宗教的、庶民的な要素をもつ。個性に乏しく芸術的な価値も高いとはいえないが、庶民の日常生活、社会生活の実態などが示されていて、史的な資料として興味深い。」
 確かに、謡曲そして聞書書(ききがきしょ)にある頼風と女郎花の物語は説話文学としてとらえれば、中世の人々の宗教観やものの見方、考え方がわかり、文化史的な資料としても味わい深いものです。
 しかし、「男山の昔を思ひて女郎花の一時をくねる」に関わる註釈書=「聞書書」が出来てからは、頼風という男と女郎花という女の物語が史実のごとく語り継がれてゆき、独り歩きを始めてゆくのです。

5、連歌の手引書にも登場

 「古今和歌集」の成立以来、「後選和歌集」、「拾遺和歌集」、「後拾遺和歌集」と次々に勅撰和歌集が編纂され、平安時代初期から室町時代までおよそ5世紀に及ぶ間に、21代にわたる天皇および上皇が宣下する和歌集ができます。和歌の生命力には驚くばかりです。
 しかし、室町時代から戦国期にかけて、和歌は連歌として詠むことが流行るようになります。一人の歌人が五七五七七と詠むものから3、4人の詠み手が五七五の長句と七七の短句を詠み継いでいく連歌の形態が流行するようになるのです。句数により「歌仙」(36句)、「五十韻」(50句)、「百韻」(100句)、千句、万句の形式がありますが、月や花、雪などの季節や恋・旅の思い、雲や雨等の天象、山や海などの景色が散りばめられ、さながら交響曲を聴くような味わいとなります。
 連歌はまた座の文学ともいわれます。数人が集まって、連続する2句の間の付合(つけあい)や全体の変化などを愉しむのですから、そこには約束ごともでき、古典や故事の共通認識も要求されるようになります。前の句をいかに受けるのか、そこにどんな趣向があるのかを味わうわけですから共通の感性や認識が座の文学の基調をなすことになるのです。そういう意味では、結構面倒くさい約束事を知り、歌語に関わる知識も豊富にしておかないと恥をかくことにもなりかねません。
 そこで、連歌用語辞書なるものが作られるようになります。「藻鹽草(もしおぐさ)」がその一つです。連歌師宗硯(そうけん)が著したもので、永正10年(1513)頃に成立しました。連歌をよむための手引として、天象・時節・地儀・山類・水辺・居所・国世界・草部・鳥類・獣類など20項目に分類して歌語等を集めました。寛永期(1624~1643)の木版による活字版などがありますが、崩し字版はあってもその翻刻されたものは見あたりません。
 その草部に「女郎花」の項があり、会員であるT氏の協力のもと翻刻を試みました。以下に紹介します。
男山によめりをみなへしの一時をくねる
古(いにしへ)その序にいへり 平城天皇の御時(おんとき)小野頼風かと云(いふ)人あり 八幡に住(すむ)人なりける 京に女を持ちたかひにかなたこなた行(ゆき)かよひけるにある時京の女のもとに行(ゆき)ていついつの比(ころ)はかならす
ちきりてかへりぬ そののち女待(まち)けれともこさりけれは おとこの八幡の宿所にたつね行てと
ふに・・・(※ルビは、読みやすさを考えて土井が付す)
 「平城天皇の御時」以下は、先に紹介した「古今和歌集聞書書(ききがきしょ)」とほとんど同じであることがわかるでしょう。このように、「女郎花」とあれば「平城天皇の御時、小野頼風と云う人がいて、八幡に住んでいたが、京の女とねんごろになり、行き通ううちに、必ず一緒になろうと約束して、その後男の足は遠のき、来なくなったので、女は八幡の宿所(住まい)に訪ね行く・・・」という物語が連歌をする人たちの常識として定着するのです。
 「徒然草」にも連歌の章段があり、明智光秀も本能寺の乱を起こす前夜に連歌に興じていたといわれます。このように、ひとかどの人物であれば誰も連歌をしていたようです。ですから、そんな人々にとって「女郎花」という歌語からは、頼風と女郎花との悲恋を連想するのは至極当然であったのです。独り歩きとはそういうことです。それがやがて、江戸時代になると八幡を紹介する地誌にも現れ、男塚・女塚の名所が記されるようになるのです。
 地誌に現れる頼風塚や女郎花塚については次号に述べることにします。(次号に続く)


<<< 連載を抜けてTOPへ        この連載記事の続きは⇒⇒

by y-rekitan | 2014-09-28 06:00 | Comments(0)
<< ◆会報第54号より-06 弥生時代 ◆会報第54号より-08 八幡... >>