![]() 地 誌 に 見 る 八 幡 9月14日(日)午後1時半より松花堂美術館講習室にて標題の講演と交流の集いが開かれました。 参加者は63名。講演の概要を紹介します。 地誌とは、ある特定の地域の状況を、地勢、人口、人情風俗、沿革など項目に分けて叙述したものです。その典型として、明治12年の郡区町村編制法以前の状況をあらわした京都府地誌(京都府立総合資料館蔵)があります。江戸時代の小規模な村が合併させられる前の状況を記しているので、江戸時代の地域史研究にとても役立ちます。 このように、厳密な意味の地誌は行政の補助資料として作られたもので、統一された「情報」を得るのには便利ですが、土地の特徴を見てとることは不得手です。きょうの話でいう「地誌」は、もっとゆるやかなもので、観光用ガイドブックも含みます。とりわけ出版されたものに限定します。 出版された地誌の作り手はたいてい都市の住人です。京都の地誌の場合は江戸時代の京都という大都市の住人です。都市に住む人、都市に住む知識人の視点が入ってくるということを踏まえなければいけないということです。 江戸時代はじめに出版された、かな文字をふんだんに使った軽い読み物を「仮名草子(かなそうし)」といいます。その中に京都の名所案内が三種あります。 「こゝは名におふ源氏の宗廟として石清水のながれ清くすみ給ふ神の宮居にておはします」と総論から入り、祭神と歴史を簡単に記し、放生会について述べています。末尾に「八幡の町のかたはらに」ある男塚女塚の伝えと挿絵をはさんでいます。 貞享3年(1686)ごろ、黒川道祐著雍州府志(ようしゅうふし)10巻10冊が刊行されました。山城国の地誌ですが、江戸時代初期の京都に関する百科全書だと紹介されることが多いようです。 雍州というのは古代中国の行政区画のひとつですが、この書では京都(を含む山城国)の代名詞にしています。 全篇漢文、すなわち古典中国語で書かれています。日本の風俗や事物を日本人のために書くのに、外国語を使うのが何の不思議でもありませんでした。これは高い文明へのあこがれといったほうがよいようです。そして、江戸時代初期にはまだ日本の事物風俗を精細に描く日本語が発達していなかったという事情があります。 雍州府志の構成は下のとおりです。 巻二 神社門上(愛宕郡) 巻三 神社門下(葛野郡から乙訓郡まで) 巻四 寺院門上(愛宕郡) 巻五 寺院門下(葛野郡から乙訓郡まで) 巻六 土産門上 巻七 土産門下 巻八 古跡門上(愛宕郡) 巻九 古跡門下(葛野郡から乙訓郡まで) 巻十 陵墓門 ガイドブック的な地誌には、まず地域を分け、その地域を一巡するようなかたちでお寺や神社や名所を解説するものが多いのですが、道祐がめざしたのはまず対象を門に分類することです。これは観光ガイドではない、地誌であるという表明です。 巻一の建置門から山川門は、平安京と京都の歴史総論、および山城国の地理概説です。 八幡はどう載せられているのか。まず巻一の山川門の綴喜郡の部に八幡山と放生川が出てきます。 「八幡山、或謂男山、又称雄徳山、八幡宮在斯山、石清水在山腹」。 石清水八幡宮は巻三神社門の綴喜郡の部に出ます。名所の列記だけではなく、神仏混淆の当時の現況など、詳しく述べているのはさすがです。 さらに寺院門の綴喜郡の部には善法寺を初めとする社僧の寺、古跡門の綴喜郡の部には放生川、八幡の五井など社寺以外の古跡が、陵墓門綴喜郡の部には影清塚、男女塚などが納められています。 地域を解説しながら神社や寺や名所を解説するという「地誌」が出てきます。上の二種はほぼ同時期に出版された大がかりな山城国地誌で、比較されることが多いようです。 享保三年(1718)、実際に手にもって観光を楽しむというガイドブックが出ました。貝原益軒著京城勝覧(けいじょうしょうらん)四巻二冊です。貝原益軒は筑前福岡藩の儒学者ですが、京都にもたびたび往来しました。 学者の著書なのですが、とても実用的にできています。一日で京都中心部から行ける名所旧跡をまとめて、初日はこのコース、二日目はこのコースと、十七日分のコースを並べます。 八幡は十日目のコース。まず京都中心部から「東寺の前より上鳥羽下鳥羽を通り、納所を過ぎ淀にゆき小橋大橋をわたり、美豆の町を通り、八幡の町に入り」云々と、各コースともまず道のりを記します。 あんまり石清水の祭神や歴史には深入りせず、順路を主に示し、最後は「是より(橋本より)渡し舟に乗て山崎こえ、山崎に宿して西の岡をみるもよし、先宇治にゆき八幡を見て橋本に宿し、翌日山崎にこして西の岡をめぐるもよし」つまり二日かけてもよし、とまるで親切なおじさんが教えてくれるようです。 このガイドブックはけっこう人気が出たようで、現在でも古書価は比較的低いし、よく見かけます。ただし使いに使い、すり切れたようになったものが多い。 この手の京都案内は江戸時代を通じそんなに多く出版されていません。むしろ小判中判の工夫をこらした地図がたくさん出されました。 京都の地誌の世界に変革をもたらしたのが都名所図会(みやこめいしょずえ)6巻6冊の出版です。出版されたのは安永9年(1780)。著者は秋里籬島、さし絵は竹原春朝斎の手になり、吉野屋為八という書林(出版者)から刊行されました。 ![]() 大本(おおほん)というA4版ぐらいのゆったりとした判形で、鳥瞰図という新鮮なさし絵が人気をよびました。売れ行きのよいことを馬琴は、随筆異聞雑稿にあらわしています。 ベストセラーといわれるわりには、一ヶ年の製本4000部は少ないと思われるかもしれません。しかし、江戸時代の読者は貸本屋で借りる者が多かったこと、人から借りて筆写する者が多かったことを考えなければなりません。最近の研究で都名所図会は原版を4回以上作り替えていることが確認されています。ですから長期間売り続け万の位を越えたのではと思われています。 この都名所図会をかわきりに、名所図会または名勝図会という書名をつけた書物がぞくぞくと出版されます。著者秋里籬島の名では11種を数えます。また秋里籬島以外の著者も含む名所図会の書名を冠した書物は60種をかぞえます。まさに出版の一ジャンルの創始です。 都名所図会には、巻五の冒頭に八幡が収められています。文章の部分は「石清水八幡宮は王城の南にして行程四里、綴喜郡男山鳩嶺に御鎮座あり」からはじまり、周辺寺院史跡を列挙します。たくみな排列だと思うのは、石清水八幡宮という大きな項目を最初に出し、そのあと二鳥居や若宮、高良社など摂社末社の類を大項目のなかの小項目として掲げているところです。とても読みやすく頭が混乱しない。 都名所図会は必要な解説を簡潔に網羅しているという感じです。寺社の所在地、神社は祭神、寺は本尊、創建年代、霊験、逸話を書き、神社の場合祭礼の時期を記す。これは項目によらず全巻を通して共通していて、一種のカタログ化がなされています。 そして本文と竹原春潮斎の絵が一体化しています。絵は鳥瞰図で寺社の伽藍や殿舎の配置がよくわかります。それとおそらく人の目をひいたのは、ゆったりとした大本の見開きいっぱいにひろがった鳥瞰図だろうと思います。都名所図会では絵は半丁単位で、重要な部分は見開きにしています。 さらに時によっては数丁にわたるパノラマ画面を使っています。見開きで見ているとわかりにくいのですが、石清水八幡宮の場合は30分(6頁分)が一連の絵になっています。 要するに都名所図会の絵は文章のそえもの(さし絵)ではなく、文章と対等なんですね。現在のグラフィックデザインの先祖です。八幡を収める巻五は全部で約160頁(八十丁)のうち85頁と半分以上を絵が占めています。 八幡を歩いて目につくのは三宅安兵衛碑です。実際にはその遺志をついで息子清治郎が建立したので三宅安兵衛遺志碑といういいかたもされます。 こういった史跡碑というものは、一般的によく知られた、ということは地誌で既に紹介ずみのところに建てることが多いようです。しかし、三宅安兵衛碑についてはこの原則があてはまらない。八幡でいえば神応寺となりの航海紀念塔など。これは三宅碑が地域の研究家の助言にもとづいて建てられたということから来たことで、他の地域の三宅碑でも同じです。 地誌に出てこない名所史跡というのはやっかいなもので、なぜこんなところに碑を立てたのかと思いわずらうことが多いのですが、いっぽうでは京都から見た地域しか出てこない出版された地誌を補うという、たいせつな役割が三宅碑にはあることが、地誌をながめているとよくわかります。 ※ 上記の記事は、伊東宗裕氏が親切にも今回の講演のために書き下ろしてくださった原稿のデーターをそのまま送ってくださり、記者がそれを取捨選択してつなぎ合わせたものです。もちろん、その取捨選択は記者の「我意」に基づくものであることはいうまでもありません。また、伊東氏は書名に「 」『 』をつけず、そのかわりにゴチックにしておられます。今回、その意思を尊重し踏襲いたしました。
by y-rekitan
| 2014-09-28 10:00
|
|
ファン申請 |
||