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◆会報第57号より-02 八幡古寺巡礼2

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《歴探ウォーク》
八幡の古寺巡礼
― 第2回 男山山麓の寺を巡る ―  

2014年12月 八幡市内 にて
高田 昌史 (会員)
 

 石清水八幡宮(八幡大神)が鎮座する男山の山麓には、多くの寺院があります。
今年の「第2回八幡の古寺巡礼」は、それらの寺を訪問すること(男山山麓の寺を巡る)を計画しました。当初はよく知られている泰勝寺と善法律寺の2寺院を訪問する予定でしたが、現在は無住ですが、鎌倉時代に開山された由緒ある法園寺(ほうおんじ)を追加し、3寺院を巡る計画とし、コース図を作り参加募集のチラシを作成しました。◆会報第57号より-02 八幡古寺巡礼2_f0300125_18222845.jpg
 また、当日のガイドブックとして「しおり」を作成することとし、各寺院を訪問して、しおりに入れる写真を撮影したりご住職さんにお話を伺ったりしました。
 情報量の少ない法園寺については、善法律寺のご住職や地元の方から話をお聞きしました。また、昭和13年刊行の『八幡史跡』(京滋探遊會)に詳しく載っていることがわかり大変参考になりました。
 なお、以前の法園寺の境内は、道路際の観音堂と奥の収蔵庫のみで、草木が生い茂り荒れ放題の感じがしていましたが、最近は境内の整備が進んでおり大変気になっていました。
今回の事前調査でこのお寺は、奈良の律宗本山唐招提寺の末寺であり現在の住職は、京都壬生寺の「松浦俊海」貫主が兼務されている事を知りました。見学の約2週間前には収蔵庫に松浦住職が書かれた「釈迦如来」の額が掲げられました。

◆会報第57号より-02 八幡古寺巡礼2_f0300125_1827438.jpg 「しおり」は前回と同様にウォーキング中でも立ち止って気軽に見ることができるA5サイズの携帯版とし、各寺院の説明は見開き2ページとさせていただきました。
 古寺巡礼の当日は八幡市駅前で受付をしてから、さざなみ公園の安居橋前に集合して例会幹事の紹介や歩行時の注意事項をお話した後に、受付で配布の「しおり」によりコースの概要説明をしてから、最初の訪問寺の泰勝寺に向かいました。参加者28名。途中から29名。
 見学の概要については、参加者である岡本さんの感想記にゆずります。

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古寺巡礼 参加記
岡本 智子 (会員)

 
 京阪八幡市駅に午後1時に集合。まずは、八幡市平谷の松花堂泰勝寺へ。泰勝寺は、松花堂昭乗のお墓が男山山麓にひっそりと風雨にさらされて荒れているのを憂い、財界人の益田孝(ますだたかし)氏が墓地修築の賛同者を求めて奔走し、当時、円福寺の住職であった神月撤宗(こうづきてっしゅう)老師(後、妙心寺の管長)の発願で松花堂保存会を結成し建立されたとのことである。         
 松花堂昭乗は桃山時代に生まれ、石清水八幡宮の社僧として、瀧本坊(たきもとぼう)の住職を継いだ。和歌・書・画・茶道・作庭などの才に長じ、書では近衛信尹(このえのぶただ)・本阿弥光悦(ほんあみこうえつ)とともに「寛永の三筆」として名高い。昭乗が自ら作った瀧本坊の茶席が庭内に復元されていた。◆会報第57号より-02 八幡古寺巡礼2_f0300125_1859162.jpg
 住職さんが皆にお茶を煎れて下さり茶菓子をいただいた。そのお菓子は、茶席「閑雲軒(かんうんけん)」にちなんで「閑雲」と記されたお菓子であった。また、松花堂弁当とは、昭乗愛用の八寸四分のタバコ盆、または絵具箱を点心の器として使用され、当寺でも精進料理で使うとのことである。
 泰勝寺のお庭を住職さんが案内して下さった。南天(難転)招福の庭は、時の権力から逃れた昭乗が男山に入山し、難を転じて文化面で大成し悠々自適の生涯を送ったことにあやかり本堂の正面と南面には各種の南天が配されていた。石庭は、三途の川を渡って浄土へ船出する図が美しく、住職さんはお庭の説明をしながら、「そろそろ近い年令の方々で」と言ったので皆は笑ってしまった。◆会報第57号より-02 八幡古寺巡礼2_f0300125_194648.jpg
 松花堂昭乗ゆかりの寺と知ってはいたが、外から見るだけだったこの寺の中に入らせてもらい、お庭を拝見し、昭乗のお墓に手を合わせ、住職さんのお話を伺いながら、お茶とお菓子もいただき、写経もさせていただき、よい経験をしたと清々しい気持ちになった。

 泰勝寺から歩いて数分。善法律寺へ着いた。
 善法律寺は、通称「もみじ寺」といわれている。◆会報第57号より-02 八幡古寺巡礼2_f0300125_1994229.jpgこの寺は足利氏とゆかりがあり、特に石清水八幡宮の検校であった善法寺通清の娘、良子が足利義詮(あしかがよしあきら)に嫁ぎ三代将軍足利義満を産んだため義満は八幡宮を崇敬し、二十数回も八幡を訪れているという。義教(よしのり)・義政(よしまさ)もよく往来し、寺は将軍家の庇護を得て隆盛を極めた。良子は寺に多くの紅葉を寄進したとのことから別名「紅葉寺」と呼ばれたという。今年は雨がよく降り、紅葉はきれいにならないまま、すでに散ってしまったと住職さんはなげいておられました。
 ◆会報第57号より-02 八幡古寺巡礼2_f0300125_19152652.jpg本尊は八幡大菩薩。平安時代末の作。もとは、石清水八幡宮の本尊であったが、明治の神仏分離の際、この寺に安置された。八幡市指定の文化財である。その神々しさに感動した。ご本尊の八幡大菩薩のほかには、愛染明王像(あいぜんみょうおうぞう)、不動明王像があり、結髪、冠、胸飾りなど通常の阿弥陀如来とは異なる宝冠阿弥陀如来像、十一面千手観音像、地蔵菩薩像などが安置されている。

 続いて法園寺へ。
 以前、この前を通ると、木々が生い茂り荒れていたが、現在整備が進んでいる。現在は無住だが、鎌倉時代に建立された由緒ある寺院だそうだ。◆会報第57号より-02 八幡古寺巡礼2_f0300125_19171619.jpg八幡宮の28代別当、田中勝清(田中家初代)が坊舎をつくり多年居住して園殿と号したことに始まる。八幡の法園寺が歴史上再び脚光を浴びるのは、南北朝時代の頃である。正平(しょうへい)7年(1352)、後村上天皇を擁する南朝軍が八幡に立て籠もって幕府軍と対峙する。その時、法園寺周辺が戦場になり、南朝軍の北畠顕能(きたばたけあきよし)がこの地に陣を取り戦ったと『太平記』に記されている。
 昭和9年、室戸台風で堂宇が倒壊して、堂の下敷きとなった本尊、釈迦如来像(しゃかにょらいぞう)の胎内より多くの経文が発見され仏像とともに国の重要文化財に指定されている。経文などは京都国立博物館に寄託されているが、釈迦如来像は法園寺境内の収蔵庫に安置されている。拝観できる日を楽しみにしたい。

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by y-rekitan | 2014-12-28 11:00
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