大田 友紀子 (会員) 長岡遷都にみえる桓武天皇の意図 郊祀(こうし)とは、毎年冬至の日に挙行され、都の南に天壇(てんだん)を設けて、天帝(てんてい)を祀る中国の皇帝の祭祀です。漢代には儒教によって典礼化されて帝王の特権となり、これを執行して帝王の威厳を示しましたが、わが国で初めて行ったのが桓武天皇です。平城京を造り君臨した天武系の皇統との決別を、天下に示す演出でもあったのではないでしょうか。 中国では国を治める帝王を天の支配者である天帝が承認するとされ、その天帝への儀式ですが、桓武天皇は中国的祖先祭祀とし、父である光仁天皇を「天神」に見立てて行っています。中国では皇帝の政治がよろしくない場合に、天がそれを裁く意味で災害などが起り、皇帝に対する民意が失われ、それゆえに王朝の交替がおこるとの思想があります。けれども、日本では世襲王朝による統治を可能にするために、「御霊(ごりょう)」のしわざとして天変地異が起こると改められました。その祟りをしずめるための祭祀を執り行うことで収まるとされ、御霊信仰が盛んになって行きます。よく早良親王の祟りが長岡京廃都の理由にされますが、渡来人たちを通じて中国の新思想などを吸収していたと思われる桓武天皇が、祟りそのものを恐れたとは思えません。もし、祟りそのものを恐れる思想が古代日本の社会にあったのであれば、長屋王の一族を無実の罪で落としいれた藤原不比等の息子たちが天然痘により次々と亡くなったその時に、長屋王の祟りがクローズアップされて、王位継承問題や遷都騒ぎなどが起こって大混乱に陥っていたのではないでしょうか。そんなところに私は、桓武天皇の側近であった者たちの実に巧妙な政治力をみるのです。 藤原諸家の人々と長岡遷都 古代日本では女系血統を重んじる思想が根強く残り、あの藤原不比等ですら、「貴種の血」として尊ばれた蘇我連子の娘娼子を正妻にして3人の息子を儲けています。3人の息子たちは、嫡男武智麻呂(むちまろ)は南家を、次男房前(ふささき)は北家を、3男宇合(うまかい)は式家をというようにつぎつぎと家を興しています。その中でも、房前には牟漏(むろ)女王(橘諸兄の姉妹)を正妻とし、称徳天皇と道鏡の政権下に左大臣となった温厚な政治家である永手(ながて)が生まれています。しかし、それぞれに蘇我氏の母を持つ不比等の息子3人ともが天然痘の流行により、天平9年(737)に相次いで亡くなります。そのことに起因して、藤原氏の3家による政権争いが繰り広げられることとなって、桓武天皇の登極を画策して実現させた式家が、まずは勝利を手にしました。 神護景雲2年(768)、称徳天皇の勅命により、大納言藤原永手が春日大社の社殿の造営を開始します。その時、鹿島神宮の武甕槌命(たけみかづちのみこと)、香取神宮の経津主命(ふつぬしのみこと)を、枚岡社から勧請した氏神2神より上位に祀りました。そのことについて、一説には、常陸守として蝦夷を平定した式家の祖宇合が鹿島・香取両神の霊威を感得し、新たな氏神として重んじたためともいわれています。枚岡神社の天児屋根命・比賣御神(ひめつみかみ)の分祀により、枚岡社が「元春日」と呼ばれたことは前に書きました。その頃は、3家の人々の思いが、それぞれ一族の長を失ったという危機意識の中にあり、混沌としていたのかもしれません。 百済王氏と藤原南家 桓武天皇は自身の生母である高野新笠を百済王氏の出自に擬し、同氏を「朕之外戚也」(『続日本紀』延暦9年(790)2月甲午条)と言って厚遇しました。そして、天武系から天智系への皇統の交代を易姓革命(えきせいかくめい)(※)と意識していた桓武は、彼らの根幹地である交野の地を郊祀挙行の舞台としたことは、前に書きました。桓武朝では他の渡来系氏族の登用も多くありましたが、百済王氏はたんに百済王族の末裔というにとどまらず、長期間にわたって高位の人物を輩出していて、敬福のような特殊な恩寵を被った人物を得たことなどから、平安初期には多くの后妃を入れるなど、王権との間に特殊な関係を持続することに成功しています。こうした例は、藤原氏以外では極めて少なく、ましてや渡来後の活躍が著しいことで著名な秦氏一族などと比べてみても、その処遇は異例中の異例といえると思われます。 桓武天皇のたびたびの行幸地となった枚方の南楠葉には、「ケイジョウ屋敷跡」と語り継がれた一角があり、継縄の自邸(または別荘)があったのではといわれています。そして、淀川沿いには「大瀬戸」の船溜(だ)まりがあり河港が形成され、その近辺には天皇家の馬を飼育する広大な牧があり、そしてその傍近くの継縄邸から、淀川越しに長岡の地を見た桓武天皇は遷都を決意したのでは、という逸話があるくらいです。 また、その邸宅から朝夕仰ぎ見る男山に鎮座する狩尾社(とがのおしゃ)に、祭神の天照大神(あまてらすおおかみ)・大己貴命(おおあなむちのみこと)に加えて、氏神である天児屋根命(あめのこやねのみこと)を迎えたのは継縄ではないかと思います。その時、初めて天児屋根命を直接枚岡社より勧請したのではないでしょうか。そして、淀川水運を見守るために狩尾社を、那羅郷の地には御園神社を創建して木津川水運の守護を担う社にし、新都の南東を守護する2社を配置し、それと同時に南家をも守護する2社を構築することに継縄の目的があった、と私は考えました。 その後の式家は、造長岡宮使藤原種継(たねつぐ)(2男清成の子)暗殺事件の後、桓武皇后乙牟漏(おとむろ)の死や、桓武の妃となった、百川の娘旅子(淳和天皇母)の死などがあり、平城(へいぜい)上皇と嵯峨天皇の争い(薬子(くすこ)の変)で種継の息子仲成が失脚するなどして振るわなくなりました。 南家の方も、百済明信の生んだ乙叡(たかとし)が姪である吉子(麻呂の4男乙麻呂の孫娘)が生んだ伊予親王の変で失脚します。乙叡の孫の保則(825-895)は、国司の中でも「良史の鏡」として名をはせ、院政期の信西まで学問の家として残って行くのです。 最後に、歴史に「もし」はありませんが、せめて後10数年、長岡京が続いていたとしたら、向こう岸の八幡はどんな役目を担うところになっていたでしょうか。木津川水運の重要な河港になっている那羅郷が発展して、「南春日」とでも呼ばれる御園神社(むろん神宮寺が近くに創建されている)があり、美豆が門前町として賑わって、ひょっとしたら、後からやって来た石清水八幡宮との2大宮寺が存在する宗教都市となっていたかもしれません。少なくとも現在とは違う顔をした地域になっていたことでしょう。 今年の1月16日の京都新聞の朝刊に、木津川の向こう岸の久御山町佐山の雙栗(さぐり)神社の神事である粥占(かゆうら)神事についての記事が載っていて、興味を惹かれたのでそのまま引用します。 「15日未明、農作物の豊凶を占う伝統の粥占神事が営まれた。今年は豊作の傾向だが、10月に台風が多いという結果が出た。神事は、地元の米5合、小豆3合を、作物の名前を書いた札をつけた竹筒(内径1センチ、長さ約10センチ)8本とともに大釜で炊き、竹筒には入った粥の量で作物の出来や気候を占う。天気予報がなく、天災になすすべの無かった時代の農民には、一年の指針を決める大切な神事だったという。(略)奥村宮司は「天候はほぼ安定しているが、10月の短期間に台風が集中的に来る」と判定した。結果はすぐに表に手書きされ、氏子に配られた。」 今、私の心の中には、上奈良の集落の木津川を挟んだ向こう岸の集落の雙栗神社に「粥占神事」が伝わっていることに不思議な思いと、なんとなく嬉しい思いが交差しています。 【完】 平成27年1月18日 (京都産業大学日本文化研究所上席特別客員研究員) ※易姓革命(えきせいかくめい)=統治者の姓がかわる(易)のは、天命があらたまった(革)ものだの意。中国古来の政治思想。徳のある者が徳のない君主を倒し、新しい王朝を立てること。(編集担当より)
by y-rekitan
| 2015-01-28 10:00
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