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◆会報第59号より-02 二宮忠八

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《講 演 会》
二宮忠八と八幡

2015年2月  飛行神社3階ホールにて
友田 享 (飛行神社 宮司)

 2015年2月12日、午後1時半より八幡市八幡土井の飛行神社にて、標題のタイトルで講演と交流の集いが開催されました。参加者47名。いつものように概要を紹介します。

生い立ち

 二宮忠八は、慶応2年(1866)6月9日、現在の愛媛県八幡浜市に生まれた。二宮家の先祖は伊予大洲藩の武士であったが、忠八の4代ほど前に禄を離れた。理由は、一家あげて鮎釣りをしている留守中に出火し、藩主から預かっていた藩旗を焼いてしまったからである。以来二宮家では鮎を食べないという。◆会報第59号より-02 二宮忠八_f0300125_14484526.jpg
二宮家は八幡浜に移住して海産物問屋をはじめた。しかし、忠八が12才の時に父は他界。忠八は働きに出た。最初に勤めたのが町の呉服屋、次は印刷所の文選工、写真師の下働きなどした。その後、薬業商を営む伯父に見込まれ、そこで手伝うようになった。その結果、物理や化学に興味を持つようになり、約2年半の修業は薬学の基礎となった。20才の夏、再び八幡浜に戻り、海産物の行商人になったが行商のかたわら私塾で国学、漢学、南画を学んだ。

忠八凧

 忠八少年は大空に舞う凧に異常ともいえるほど興味をもった。彼が考案する凧は人々を驚嘆させるほど奇抜なものであった。そして、そのどれもがよく揚がるので「忠八凧」と呼ばれ、よく売れた。だが、忠八の研究心はもっと高度なものに向けられた。

兵役

 明治20年(1887)、丸亀の歩兵第12連隊付の看護卒として入営。わずかに背丈が足りなかったために本科には不採用になったのである。明治22年、機動演習中に、カラスが滑空する姿に突然興味をもった。カラスは広げた翼に揚力を生じさせ、ふき上げる上昇気流など複雑な力をうまく利用して滑空していることを発見した。それは、彼の空を飛ぶ機械(飛行器)発明のヒントになった。忠八は、カラスのほか、トビウオや甲虫類の飛行のしかたにも興味をもって観察した。

第一号模型器の製作

◆会報第59号より-02 二宮忠八_f0300125_151037.jpg 鳥凧を原型とする飛行器の第一号の模型製作に取りかかった。忠八の第一号の模型飛行器には車輪がついていた。数年後の明治36年に初めて人を乗せて飛んだライト兄弟の飛行機でさえ車輪はなかった。プロペラも装置されたが難問は動力である。看護卒であることから使った聴診器のゴムを動力にした。白い紙を貼ったままの翼や胴体は墨を塗ってカラスらしく仕上げた。頭のところにつけた垂直面には目を描き入れた。この垂直面は、飛行にとって重要な安定翼(垂直翼)になった。
◆会報第59号より-02 二宮忠八_f0300125_156541.jpg 明治24年(1891)4月29日の夕方、丸亀練兵場の広場でテストすることになり、第一号のカラス型飛行器は約30m飛んだ。飛行神社では毎年この日を記念して例祭が行われている。その後、玉虫型飛行器を考案し、それを第2号器とした。



上申書の提出

 明治27年(1894)、日清戦争が布告された。忠八は、大島混成旅団の野戦病院付きの一等調剤手として、韓国に渡った。そして、京城郊外に夜営中、上官に偵察等の利点を説いて飛行器の考えを打ちあけた。その結果、直接の上司である軍医が、玉虫型飛行器の設計図に上申書をそえて、当地に滞在中の長岡外史参謀総長に提出した。だが、即日却下された。彼には先見の明がなかったのである。
 日清戦争中、忠八は赤痢にかかったが奇跡的に治癒に向かい、広島の予備病院に送られた。
 翌28年に日本は大勝し、大島旅団長も広島に凱旋。そこで再び軍医部長を通じて、再度大島閣下に面会し、上申書を提出した。しかし却下。さらに、広島師団長にも上申書を提出したがこれも不発に終わったので、翌年長い軍隊生活にピリオドをうって郷里に帰った。
 当時の忠八の脳裏にあったことは、飛行器を完成させるための資金を調達すること、大臣や大将と自由に面談できる身分を得ること、飛行器を飛ばす発動機の製造工場と試乗場所を獲得することであった。

薬業界へ

 明治31年(1898)、忠八は大阪製薬株式会社に入社した。当時の薬品は粗悪なものが多く、品質のよい薬品作りに没頭した。彼がつくった薬品はどれも好評で、倒産寸前の同社をみごとに立ち直らせた。その後、合併をへて常務取締役に推薦され、ついに大阪実業界の第一人者と肩をならべるようになった。一万円の貯金もできた。

動力試験

 明治33年(1900)、石清水八幡宮に参詣した。忠八は故郷の八幡浜と同じ八幡の名に限りないなつかしさを覚え、木津川の土手を歩き、橋本のあたりは川幅が広く開けて一面の砂原であることを知った。年頭の飛行器の実験場には最適であると判断。また、付近にあった二軒の精米場の石油発動機に着目し、これを動力にして飛行器を飛ばそうと考えて、一軒を買取った。そして、そこを二宮工作所とした。◆会報第59号より-02 二宮忠八_f0300125_16195889.jpg 明治35年(1902)現在の飛行神社がある八幡市八幡土井に本邸を引越し、忠八は毎日ここから京阪電車で大阪の会社へ出勤した。そして、夜、会社から家にもどると設計、製作に取り組んだ。
 丸亀練兵場の広場でカラス型模型器が飛んだ折の興奮がよみがえった。発動機のついた飛行器が、木津川の実験場で地面をはなれて浮きあがる光景を想像しながら忠八の胸は高鳴った。

ライト兄弟の成功

 明治34年(1901)12月17日、アメリカのライト兄弟が動力による人類最初の飛行に成功した。日本ではその情報はすぐには伝わらず2年後に載った新聞記事に忠八の目はくぎ付けになった。次の休日、忠八は奥之町の工作所にある、枠組のできあがった飛行器をハンマーでたたき壊してしまった。

航空殉難者の慰霊

 大正に入ると日本の航空界は飛躍的な発展を示した。忠八には、すでに自分が前半生をかけた飛行器研究を無視された腹立たしさも消え、一人の日本人として航空界の進歩を見守るような心境になっていた。しかし、飛行機熱が高まるにつれ、世界各地でしばしば墜落事故がおこった。飛行機事故による操縦者の死、志を空にたくした人たちの死に、耐えがたい苦痛を感じた忠八は、その御霊を慰める方策を思いめぐらすようになった。
 大正4年(1915)、八幡の邸内に祠を建てて殉難者を祭神とした飛行神社を創建した。

忠八の名誉の回復

 大正10年(1921)、たまたま郷里をともにする白川義則中将と対等に話をする機会に恵まれ、かねて却下された上申書のことに話題に及んだとき、中将はそれを陸軍航空本部に携行した。その上申書を目にした「帝国飛行」の記者、加藤正世が忠八の玉虫型飛行器の設計図に驚いた。日本では明治26年にすでにこうした立派な飛行機が発明されていたのである。加藤は、「二宮式飛行機について」と題する論文を「帝国飛行」第5巻4号に発表した。
 最初の上申書を受取りながら即座に却下した長岡中将は、その論文を読み、素直に非を認めた。そして、機関紙「帝国飛行」11月号に詫び文をのせて忠八の偉業を称賛し、自らの不明を公表して謝ったのである。
釈明を天下に示す高義心
   その潔白に消ゆる長恨
   (忠八翁立志百歌集より)
 こうして忠八が飛行機を考案してから30年の後、初めて彼の飛行機の真価が認められたのである。
 昭和2年(1927年)12月には、勲六等に叙せられ瑞宝章を贈られた。また、国語の国定教科書にのせられて、忠八の名は一躍日本全国に広まったのである。

神社建立

 同年、大正4年に邸内に建てた祠を、本格的に神社として建立することを思い立ち、祭神を定めるために飛行に関係のある神々を調べた。その結果、交野市の磐船神社のご祭神で饒速日命(にぎはやひのみこと)が、天照大神のみことのりをうけて河内国に天下ったと伝えられることを知り、この分霊が贈られることなった。そこで、中央の社殿には饒速日命を祭り、右の社殿には世界航空殉難者先覚者の御霊を合祠し、左の社殿を薬光神社とし、日本薬学の父長井博士をはじめ同僚であった武田長兵衛、田辺五郎、塩野義三郎らをお祀りした。

晩年の忠八

 晩年の忠八は、神職として神社に仕え、幡山と号し、飛行千歌を詠み、幡詞を作り、幡画を描くのが日課であった。そして、昭和11年(1936)4月8日、胃がんのため71歳の生涯を閉じた。墓は、神応寺の墓所に遥か東の空を立っている。ひたすら空の平安を祈っている如くである。

  友田氏の講演の概略を記す際、飛行神社が発行する「二宮忠八小伝」を参考にしました。

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「二宮忠八と八幡」に参加して
鳥居 勝久 (世界凧博物館東近江大凧会館)

 2月4日付けの京都新聞に八幡市にある飛行神社で「二宮忠八と八幡」の講演会を知りました。私は現在、凧を展示する博物館「世界凧博物館東近江大凧会館」に勤務しており、「忠八凧」と呼ばれる独創的な凧のこと、そしてカラス型飛行器、玉虫型飛行器と飛行原理を発見したことも知っておりました。しかしながら、詳しいことは知らず、講演者が飛行神社の友田宮司様であることから参加することを決めました。◆会報第59号より-02 二宮忠八_f0300125_1550683.jpg話の中から、生活の中から生まれるヒントとアイデアによる探究心、これは日本の技術力の基のような気がします。また、飛行神社への二宮忠八の思い、そして現在もその思いは受け継がれていることも知ることが出来ました。
 さて、同じ大空を飛ぶということで、東近江市八日市には、江戸時代中期に男子出生を祝って5月の節句に鯉のぼりと同じように揚げられたのがはじまりと言われる伝統文化「東近江大凧」があります。最初は小さかった凧も、村落ごとに競い合って凧揚げをしていたので、凧の大きさもだんだん大きくなり、明治15年には、240畳敷きの大凧が揚げられたという記録が残っています。現在では、100畳サイズの大凧を揚げる「東近江大凧まつり」を毎年5月最終日曜日に開催しています。また、八日市には飛行場があったことはご存知でしょうか。荻田常三郎が大正3年に沖野ケ原上空を翦風号で飛んだことから始まり、沖野ケ原に大正4年、日本初の民間飛行場が出来ています。大正11年には陸軍第三連隊の基地となり、航空機搭乗者の安全を願った沖原神社もありました。その後、飛行場は終戦とともに廃止となっています。むかし大凧を揚げていた場所は沖野ケ原で、飛行場が出来た場所も沖野ケ原でした。八日市の空は、大空へのステーションであった町と言えます。

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「二宮忠八と八幡」 の講演を聞いて
谷村 勉 (会員)

 40年ほど前に仕事の関係で何度も愛媛県八幡浜市を訪問する機会があり、はじめて二宮忠八を詳しく知って、書物を読んだ記憶があります。講演を聞いてぼんやりと覚えていたことが鮮やかによみがえりました。充実した内容とともに結びに、二宮忠八の人生は「何度も何度も挫折を味わった人生であったが、それを乗り越えたところに意味があった」の一節には大きくうなずいて、晩年の忠八翁の写真を拝見するとやっぱり“いい顔”されていました。
 ◆会報第59号より-02 二宮忠八_f0300125_1611743.jpg神応寺にある二宮忠八の墓石を改めて紹介したいと思います。神応寺の小高い丘陵の墓地から八幡市内や木津川、京都市内が一望でき、あたかも飛行機から眺めるようなロケーションでした。忠八ご夫妻と次男顕次郎ご夫妻の墓石と航空殉難者を祀る三界万霊塔、元航空幕僚長の白川元春氏の顕彰碑が立つ比較的広い塋域です。資料にありました「写真② 本邸より」の、当時本邸から撮った男山神応寺の写真も印象に残りました。

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by y-rekitan | 2015-02-28 11:00
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