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◆会報第60号より-02 橋本ウォークⅡ

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《歴探ウォーク》
橋本の歴史(Ⅱ)
「平野山・西山を歩く」

― 2015年3月  八幡市橋本地区にて ―


 3月16日(月)、少し歩けば汗ばむほどの陽気にめぐまれ、標題の歴史探訪ウオークが開催されました。
 昨年も、この時期に、橋本の京街道をふくむ北側をめぐる見学会を実施しましたが、その時の参加者70名とほぼ匹敵する64名の参加者がありました。
 当初、グループ分けせずに実施する予定にしていましたが、参加希望者が増えていくので、二つにグループ分けすることにしました。
午後1時に、京阪橋本駅前のバスターミナルに集合。かんたんなオリエンテーションを済ませて出発。

  塩釜
 先ずは、「塩釜(しおがま)」碑に向かいます。
『男山考古録』では、江戸時代、安居(あんご)の祭に赴く社士(しゃし)が、この地で塩垢離(しおごり)をした場所であるとか。その「塩ごり」が訛って「塩釜」になったとのことです。安居の祭とは、江戸時代までに行われていた祭りで、放生会が公家の祭りであれば、「安居会」は、天下泰平を祈願する武家の祭であったとされます。

 猿田彦神社
 次に訪れたのが、「猿田彦神社」。猿田彦は、日本神話で、ニニギノミコトが日向国にくだったときに、その道案内をしたといわれる神です。そのことから、宇佐からやってきた八幡神が山崎の地に留まってから男山に遷座する際に、その道案内をしたとの伝承が生まれました。しかし、石清水八幡宮の歴史にそのような記述はありません。猿田彦は、道祖神(=村境、峠などの路傍にあって外来の疫病や悪霊を防ぐ神)と同一視されることもあることから、平野山村に災厄が入るのを防ぐ鎮守社であったと考えた方
がわかりやすいかもしれません。

 講田寺
 次に、講田寺(こうでんじ)に入り、住職の話を聞きました。
 住職さんは、講田寺の来歴と「長柄人柱伝説」に関わるお話をしてくださいました。◆会報第60号より-02 橋本ウォークⅡ_f0300125_16564865.jpgその人柱伝説と関わりのふかい「笑(えみ)地蔵」を拝んで講田寺を後にしました。
 講田寺の境内には、油掛け地蔵尊が祀られています。住職さんは対岸の大山崎の油との関わりを指摘されましたが、法華経の経文には、「油を以て身を塗る」云々があって、油で仏体を供養すると絶大な功徳があるとのことです。
 講田寺の前は、柿の畑が広がっています。平野山地域は、古くから講田寺周辺に農家が点在する農業地帯でしたが、太平洋戦争後の食糧難の時代、平野山をふくむ西山地域の山林を開拓する計画が立てられ、用地が確保されたそうです。昭和23年(1948)、戦地からの引揚者や地元農家20世帯が入植しました。土地は水田に適さなかったので、畑作が行われ、麦・芋・筍や柿などの果物が生産されたとのことです。今でも、その名残をとどめるかのように、柿などの果実の木が多く植えられており、「生産緑地地区」に指定されているそうです。

 楠葉平野山瓦窯跡
 楠葉平野山瓦窯跡(がようあと)は、飛鳥時代の7世紀前半から営まれた日本最古級、最大の瓦窯跡で、四天王寺に使用された瓦を焼成したことで知られます。
 今回、跡地周辺に建てられた民家の庭が、持ち主の好意から公開されました。瓦窯跡は今、埋め直されていますが、かつては登窯(のぼりがま)があったと想像されるような傾斜が広がり、楠葉・枚方方面の住宅街が遠望できました。
 ここで、四天王寺の屋根も葺いた瓦が焼けたということは、良質な土がとれたということと、淀川の水運が利用できたということなのでしょう。

 継体天皇樟葉宮跡伝承地
 続いて、枚方市楠葉丘にある樟葉宮伝承地を訪れました。◆会報第60号より-02 橋本ウォークⅡ_f0300125_1754021.jpg鬱蒼とした灌木の鎮守は、おもむきのある雰囲気を残しています。石段を登ると、貴船神社の小さな社が建っています。貴船神社は穂積神社とも称し、当地の氏神でした。
 この地が、継体天皇の樟葉宮とされる物的証拠はなく、多分に地元民の要望を受けたものと思われます。

 交野天神社
 続いて、同じく自然林に覆われた一角にある交野天神社を訪れました。◆会報第60号より-02 橋本ウォークⅡ_f0300125_17111411.jpg祭神は、桓武天皇の父帝にあたる第49代光仁天皇です。桓武天皇は、それまでの天武系の皇統と一線を画し、遷都しただけでなく、郊祀壇(こうしだん 都の郊外で行う祭天のための土壇)を設け先帝を称えたといわれます。
先帝を称えることで、自らの皇統の繁栄を祈願したのかもしれません。
 一行は、西山地区の住宅街を抜け、足立寺史跡公園に向かいました。

 西山廃寺(足立寺)史跡公園
 西山廃寺は、和気氏との関わりが指摘される古代寺院です。ただし、もともとこの地にあったのではなく、ここより南西約100mの地点にありましたが、住宅開発により、廃寺の礎石や瓦窯跡の移築がなされたものです。
 ここには、豊蔵坊信海の墓があります。豊蔵坊信海は、松花堂昭乗の門人で、能筆であるとともに狂歌の名手としても知られます。
近年、墓石が転倒されていましたが、会員であるT氏がふるさと学習館に文化財保護の手だてを講ずるよう要請し、掲示板が立つようになりました。    
                               


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by y-rekitan | 2015-03-28 11:00
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