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◆会報第64号より-05 松花堂昭乗②

シリーズ「松花堂昭乗が詠んだ八幡の町」・・・②

松花堂昭乗が詠んだ八幡の町(その2)

 土井 三郎 


  馬場 木々の葉や脱けて現す馬場の町
 八幡馬場は、男山の東麓に建つ善法律寺を中心として、その北側に広がる馬場グランドまで含む地域です。江戸時代までは、石清水八幡宮の祠官家の一つである善法寺家の屋敷を中心とする閑静なたたずまいを見せる門前町であったと思われます。現在、住宅開発が進められ、様相がかなり変わりつつあります。 ◆会報第64号より-05 松花堂昭乗②_f0300125_20301770.jpg   
 さて、上記の作品ですが、ユーモアをたたえた俳諧といえるでしょう。
 和歌や連歌では、葉は落ちるものか散るものです。抜けるとあれば物を噛む歯しか考えられません。しかも、馬場と婆(ばば)が掛詞(かけことば)となっているのは一目亮然です。私は更に、「木々」が「木樹」=「喜寿」を掛けているのではないかと考えます。(女優、樹木希林さんは、きききりんと読む)
つまり、次のように解せるのです。
  喜寿の歯や抜けて現す婆の町
 喜寿すなわち77歳のお婆さんが登場するのです。但し、昭乗のことです。婆は「ばばあ」などと乱暴に読まず、「ばば」と愛らしく読みたいものです。
 ちなみに、昨年の夏、当時ふるさと学習館におられた小森俊寛氏から、現在、宅地開発が進められている発掘現場(馬場遺跡)を案内されました。旧善法寺家の邸宅の荘厳さが思い浮かぶような区画です。印象深かったのは、男山を借景のごとく取り入れた庭の景観です。樹木がうっそうと繁る中に南方系のソテツの木を見つけました。男山に自生する樹木には見えません。善法寺家の当主が植えさせたものではないでしょうか。
 いずれにせよ、八幡馬場は、晩秋ともなれば木樹(きぎ)の枯葉の舞う土地柄であったということです。

  今田 日のうちは未だ氷らぬ汀かな
 現在の今田は、善法律寺と馬場グランドの道路をはさんで東側の地区で、和菓子商「じばんそう」から南の一角です。昭乗の生きた時代とほとんど変わらない区域と考えてよいのでしょう。
 この句は、今田という地名と「未だ」という副詞を掛けたものであるというのはすぐにわかります。問題は、ここに汀(みぎわ)の文字が使われていることです。汀とは水際に他なりません。池もしくは河川の存在が考えられます。弥生時代、男山の東裾は湿地が広がっていたという指摘があります。近年、大雨によりこの辺りは水に浸かったことも記憶に新しいところです。

  菖蒲池 名ばかりは枯れず残るや菖蒲池
 名前だけが枯れずに残っている菖蒲池の地名を詠んだ句です。その昔は菖蒲が自生する池があったのかもしれません。
 菖蒲池は、現在の市民図書館のある辺りですが、一昨年9月の大水の時、この辺り一帯が水につかりました。菖蒲池の句もその前の句の今田も、そこが低地ないしは湿地帯であったということを表しています。

  城内 神無月ほそくにかくや状の中(うち)
 私は、この句の解釈で半年間悩みました。神無月の期間、なぜ手紙を細く書かないといけないのか。あるいは、「神無月」になにか特別な意味が隠されているのか。◆会報第64号より-05 松花堂昭乗②_f0300125_2039112.jpg 「神無月」は、俗説では、全国の神々が出雲大社に集まって、諸国が「神無しになる月」といわれます。陰暦の10月のことですが、今の11月ごろを指すのでしょうか。しかし、その神無月に、なぜ手紙を書くのに、字を細く書かないといけないのか不明です。ただし、句にある「状」は書状の状で、城ノ内の「城」を掛けていることはわかります。
 謎は解明されないまま悶々とした日々を過ごしました。
 半年間悩んだ末に、「新撰犬筑波集」に行きつきました。
 「新選犬筑波集」とは、天文元年(1532)頃に、山崎宗鑑が編集した俳諧集で、卑俗でこっけいな表現を打ち出し、俳諧が連歌から独立する機運を作ったといわれます。なぜ、この俳諧集に注目したかといえば、昭乗が八幡の町を俳諧に詠んだ元和元年(1615)頃は、京都を中心に一世を風靡した貞門俳諧の隆盛には未だ時期が早く、昭乗が興じた俳諧は、山崎宗鑑の犬筑波集からの影響が強いと思ったからです。
新潮日本古典集成『竹馬狂吟集 新撰犬筑波集』から次の句をみつけて思わす膝を叩きました。
  西城(せいじょう)へ行かんとすればかみな月
 「西城」とは便所のこと。便所に行こうとしたら紙がなかった。つまり神(かみ)はペーパーのことです。従って、「神無月ほそくに書くや状の中(うち)」は、紙があまり無いので、筆で太く書くと紙が足らなくなり、だから細く書いたとの解釈に落ち着きます。しかも、「かんなつき」は「紙が無いに付き」となり、無理なく読み取ることができます。
 「新撰犬筑波集」にある「西城へ」の次の句は、
  連歌はてて
  御座敷を見れば大略神な月

です。この場合の神は髪(ヘアー)、つまり坊主頭ばかりであったという句です。
 ところで、この句の前書きが示唆的です。「連歌果てて」とあります。つまり、正統な連歌の会が終わって、砕けた俳諧で寛(くつろ)ごうという趣旨です。能に狂言がある如く、連歌に俳諧があるということでしょう。ついでに、犬筑波集に八幡を詠んだ句としてどんなものがあるのか紹介しておきましょう。
 八幡にて千句果てて (千句は連歌のこと)
  撫子(なでしこ)もかしらかたかれ岩の坊
 岩の坊は、石清水八幡宮周辺にあった四十八坊のひとつ。岩だから堅い。新潮社版の解説文の中に、「石清水八幡には坊が多く連歌の盛んな土地柄」と記しています。連歌が盛んであれば俳諧も盛んであったことが想像されます。昭乗が特に俳諧をよくしていたということではなく、誰もがやっていたということでしょう。
  鳴けや鹿鳴かずば皮をはぎの坊
 萩の坊の萩が皮をはぐということになったものですが、この句の注釈によれば、「八幡では鹿の皮を藍で染め、草花の紋を置いた菖蒲皮と言われる皮を特産した。菖蒲を「尚武」ととって縁起を担ぎ、武器に多く用いた。この句は八幡で皮を扱っていることを知っていてはじめて意味のわかる句である。」とあります。将軍家にも献上した八幡の菖蒲皮は有名な特産品でした。

ところで、「城ノ内」の名の謂れとして『男山考古録』は、「楽家(がくけ)に山井(やまのい)・城内(じょうのうち)両家在(あり)し由(よし)」と記しています。「楽家」とは、御神楽を演奏する奏者のことでしょうか。城内という名の御神楽奏者が住んでいたからその地が城ノ内と呼ばれたというのはありうる説のようです。ちなみに、馬場も、安居当役を担う頭人の名から来ているとのことです。(ルビは筆者による。以下のルビも)

  平谷 平谷の寒さとおすな丈ふせぎ
 「丈ふせぎ」がよくわかりません。竹林を「たけふ」というらしいので、その堰だから丈(たけ)ふせきと解釈できることも可能です。男山から吹き降ろす風を平谷(びょうだに)の竹林で防いでほしいという句でしょうか。
 なお、平谷の地名を『考古録』は、「御山より山路といふ辺(あたり)迄の間に、いささか打ひらけた谷ふところ成(なり)し故(ゆえ)此名ありけむ」と述べています。「ありけむ」はあるのだろうかと推量しているのであって断定ではありません。いずれにせよ、◆会報第64号より-05 松花堂昭乗②_f0300125_20562137.jpg平谷は、男山から山路方面(念仏寺や正福寺を経て薬園寺に至る道)に向かう地点 (今の八幡橋周辺)で、山すそがいくぶん開けたように見える地なので平谷と呼ばれたということでしょう。なお、現在は放生川に架かる安居橋周辺に人家がありませんが、その昔は、安居橋の近くまで家が建てこみ、応永12年(1405)9月12日に焼亡しました。以来、そこに在家(人家)を建てることが室町幕府により禁じられたとのことです。現在の「さざなみ公園」はその名残かもしれません。    (つづく)

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by y-rekitan | 2015-07-28 08:00
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