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◆会報第66号より-05 松花堂昭乗④

シリーズ「松花堂昭乗が詠んだ八幡の町」・・・④

松花堂昭乗が詠んだ八幡の町(その4)

 土井 三郎 (会員) 


田中 冬もかる鎌か田中の三日の月

 松花堂昭乗が八幡の町を句に吟じたのは、元和元年(1615)の冬です。◆会報第66号より-05 松花堂昭乗④_f0300125_1313051.jpg 季節が冬なので、寒々とした光景が広がる八幡の町やその風情を描いたものが多いのですが、その中にも、筆者昭乗の機知やセンス、あふれ出る詩情が感じられ、書や画だけでなく、文芸における才能の高さを思い知ることができるというものです。
 上の句は、「田中」が地名の田中町であるとともに、「田の中」を掛け、水(氷)の張った冬の田面(たおも)に映る三日月を稲刈りの鎌としてとらえているというものです。鎌のごとき三日月はいかにもさえざえとしていて、これを実景としてとらえるならば、田中町は、今でこそ町屋の連なるところですが、昭乗の生きた時代は、周辺が田んぼであったことを示していることになります。 地名の「田中」は、石清水八幡宮の祠官である田中家の住居がその地にあったからで、田中殿(たなかでん)は、正平7年(1352)に勃発した八幡合戦の時に、賀名生(あのう)から京都を目指してやってきた後村上天皇一行が、そこを行宮(あんぐう、仮住まい)にしたことで知られています。

紺座 霜ふりのかうの座寒き夕(ゆうべ)かな

 紺座は、こんざとは読まず「こうのざ」と読むようです。平凡社版『京都府の地名』にある八幡市の地名にも「紺座町」は、「こうのざちょう」とルビが付されています。同書には、町の範囲として、「全昌寺橋より南の高橋筋までの南北五〇間の西片側街並」とありますから、現在の飛行神社の並びの町屋を指すとみられます。また、慶長5年(1600)の指出帳(さしだしちょう)によれば、当町には朱印地79石をもつ社士(しゃし)片岡宗与をはじめ本頭・脇頭神人が多く居住していたとのことです。同時に、職人・商人も多く、町名にある「紺屋」=染物業に関わる商人の存在も考えられます。「指出帳」とは、この場合、八幡に居住する者自らが土地の面積、収穫高、耕作者などの明細を、天下人である徳川家康に報告し、安堵された報告書を指します。
 ここで「霜降り」は「霜のふりかかったような、細かく白い斑点のある模様」ととらえ、「かうの座」を「高座」ととらえ、主賓や身分の高い人、または年輩者などがすわる席と解し、霜の降る高座ではさぞ寒かろうと洒落たもののようです。
 常盤木枯のもちかむせぬは常盤かなこの句も意味がとりにくいものの一つです。
「もちかむ」とは何か。「餅を噛む」? それでは意味をなしません。「も」が「もう」の意味をもつ副詞ととらえる用例が、室町時代の末期から近世初頭に見られるとのことです。そうすると、「木枯らしがもう近づいたとはいえない常磐かな」となり、この場合の常盤は「常葉」=常緑樹と解釈することが自然のようです。句の趣向としては、「木枯らしが吹く季節になっても、落葉したり枯葉が舞ったりしないよ。常葉なのだから」となります。或は、「木枯らし」を文字通り、木が枯れるととらえると、「木が枯れることがもう近いと言うことはない。ここは、常葉(ときわ、常緑樹)の地なのだから」と、単に言葉遊びを楽しむ句であると解せます。
 『京都府の地名』八幡市編は、弘安11年(1288)の史料に、常磐町口に「八幡惣門」があったと記すものがあることを紹介しています。神領である八幡の北の門が「八幡惣門」とすれば、その門=戸の際(きわ)にある町だから「戸際(ときわ)」町という解釈がなりたちます。ちなみに、「八幡惣門」の位置は、現在の木津川の向こう岸(京都市伏見区)に比定されます(『山上山下のまち、八幡』堀内明博著)。
明治初年の木津川の付替によって、八幡は木津川によって北の一部が分断されてしまったのです。
◆会報第66号より-05 松花堂昭乗④_f0300125_1343375.jpg なお、石清水八幡宮が支配する神領八幡は、江戸時代初期に「八幡八郷」と呼ばれました。 石清水八幡宮の鎮座する男山の、北と東に位置する科手(しなで)・常磐(ときわ)・山路(やまじ)・金振(かなぶり)の内四郷と、その東に広がる美豆(みず)・際目(さいめ)・生津(なまづ)・川口(かわぐち)の外四郷です。

高橋 そりぬるはあら高橋の狩場哉(かな)

 これまでの句はやや難解であったかもしれません。それに対して、この句は掛詞(かけことば)さえ理解しておけばそんなに難しいことはないでしょう。「あら」という間投詞と「荒鷹」の「荒」、「鷹」と「高」、「橋」と「觜(はし)」(くちばし)が掛詞になっているのです。
 「高橋」は、現在の太鼓橋=安居橋より50mほど下流にかかっていた橋で、「反橋(そりばし)」と呼ばれることがありました。そりぬる、つまり反っているのは高橋ならぬ「荒鷹(あらたか)」の嘴(はし、くちばし)で、同時に、高橋の上なので、見晴がよく、狩場としては申し分がないと洒落ているのです。
 今は定かではありませんが、当時は、男山(鳩が峰)に鳩ならぬ鷹が生息していたのかもしれません。
右の図は、左が高橋(そりはし)、右が全昌寺橋。ちなみに放生会の際、高橋のたもと放生亭より魚が放生川に放出されていました。


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by y-rekitan | 2015-09-28 08:00
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