![]() 弥生時代の八幡市とその周辺 ―住居・墓・水田― 2015年10月 八幡市文化センターにて 藤井 整 (京都府教育庁指導部) 10月18日(日)、午後1時30分より、八幡市文化センター第3会議室にて「講演と交流の集い」が行われました。表題のタイトルで、地元八幡市に詳しい藤井整さんにお話しいただき、分かり易くとても有意義な内容となりました。概要を以下に紹介いたします。参加者は36名。 私達が教科書で学んだ弥生時代は、最新の学説によって、かつて理解していた内容のところどころで微調整が必要なことがあります。その一例をあげると、稲作が縄文時代から行われていたとの説や、年代の問題などです。 弥生時代の八幡は、かつての巨椋池や周辺の低湿地帯が大山崎あたりまで広がっていた湖畔のムラだったようです。巨椋池は昭和になって干拓されましたが、その結果、多くの弥生遺跡が地中に埋まってしまいました。現在八幡市には弥生時代の遺物が出土する遺跡が22カ所ありますが、弥生前期の人が住むのに適した低湿地帯のものは見つかっていません。 弥生中期以降の遺跡は弥生人が好んだとされる丘陵地で比較的多く見つかっていますが、生活の場を移した諸事情(居住域、墓域、生産域、祭祀など)を考えてみましょう。 八幡市の弥生遺跡で最も古いものは、内里八丁遺跡です。そこには弥生時代前期の終わりから殆ど中期の時期の竪穴建物が見つかっています。竪穴式の建物が必ずしも住居では無いと判って、最近では“竪穴住居(たてあなじゅうきょ)”とは呼ばず“竪穴建物(たてあなたてもの)”と呼ばれています。発掘された建物の一例ですが、その直径は6mほどの円形で、中央に直径1m、深さ50cmほどの穴があり、中から多量の炭化物と灰が検出され、炉であったと考えられています。炉の存在から、建物は住居として使われ、そこで石器類【石鏃(せきぞく)、石錘(せきすい)、砥石、石包丁など】の修理が行われていたようです。遺物の発掘位置から、作業は住居の北西の位置で行われ、そこは男性の占める空間であった可能性があるといった、他では見られない素晴らしい調査結果が明らかになったのです。 ![]() 弥生時代中期末から後期にかけて、八幡市を初めとする山城や乙訓地域では居住域が高い所にある傾向があります。このことは、洪水が要因の可能性もありますがそれだけではないようです。 次に、弥生時代の人々はどのような形で埋葬されたのか、誰と埋葬されるのか、墓参りをしたのか、などについて話を進めたいと思います。とは言え、この問題は八幡市では幸水遺跡の事例しかなく、ここでは18基の方形周溝墓が検出されています。 調査されたそれらの墓の一部から、墳丘の上に置かれていた土器が溝の中から見つかっています。最近の研究では、これは墳丘が崩壊して転落したものではなくて、墓地外で行われた葬式に使用された土器が捨てられたものであることが判ってきました。八幡市にほど近い下植野南遺跡や大阪市の長原遺跡でも同様にお葬式に伴う儀礼行為の後、割られた土器が持ち込まれたことがわかっています。弥生時代のお墓として有名なのは甕棺ですが、この甕による埋葬は北部九州の限られた範囲だけのようです。 では、近畿ではどうだったのでしょうか。一例ですが、現在の棺と同じく木製の四角い棺が複数の個所で見つかっています。使用された材木は高野槇(コウヤマキ)ですが、このような棺は低湿地帯で長い歳月に亘って地下水位が変化しない場合に見つかるようです。しかし、みんなが木棺に埋葬されたわけではなく、土壙墓と言われる、墓穴を掘ってそのままそこに土葬されていたようです。 近畿地方の弥生時代のもうひとつの埋葬施設に土器棺墓があります。これは1歳児以下の乳児や胎児に限らえて使われており、成人にも使われる北部九州の甕棺とはその大きさも異なります。 八幡市域では幸水遺跡以外のお墓の状況は分りませんが、近隣の発掘例からは、集落と同時に墓も丘陵地へと移動していることも分かります。しかしその理由はまだ判っていないのです。また、墓参りについての最新の研究では、現代と違い家長になるのは男女の性別を問われない、いわゆる双系社会だったと考えられ、自分の系譜を追う必要がなかった可能性が高く、今のような墓参りもなされていないようです。 八幡市域で水田が検出されているのは、弥生時代の終わりの頃の内里八丁遺跡です。これは登呂遺跡と同じ時期のものです。稲作が始まった早い時期には低湿地にモミを直播してコメ作りをおこなっていました。専門家にとっても水田の畦畔(あぜみち)をきっちりと検出するのはかなり難しいものであり、最近では高槻市の安満(あま)遺跡での検出結果が高く評価されているようです。 内里八丁遺跡からは、全国でも数例しかないと言われる、貴重な稲株の痕跡が見つかりましたが、これは夏から秋にかけての収穫前に洪水に見舞われたことが判るものでした。このように、何度も起こる洪水との弥生時代のひとたちの戦いの歴史が刻まれているのですね。 京都府の南部では3カ所で銅鐸が見つかっています。そのうち最も新しい時代のものが八幡市の式部谷遺跡で見つかったものです。男山第3中学校の近くで出土した銅鐸は、その高さが66cm、幅が35cmの大きさのものです。出土位置の最近の眺望分析ではかつての巨椋池や現在の京都市伏見区あたりを見渡す場所に埋められていたことが判っています。銅鐸埋設地近くの山頂からは、京都市内も一望できるような場所であったことは需要な視点でもあります。 最近の研究では、銅鐸が出土することは、社会の発展があまり進んでいないと考えられるようになっているようです。それは、集落のみんなのための銅鐸を手放す、といったことが社会の階層化の進度が高い、すなわち、古墳時代の成立に近づいていると考えられているからのようです。このような研究結果も最初に述べた微調整が必要なことの1つと言えるのではないでしょうか。 ここまで話しましたように、八幡市の遺跡では実に様々なことが明らかにされてきました。それらは、内里八丁遺跡の建物跡で確認された石器製作の実際であるとか、宮ノ背遺跡での住居の焼却に際しての儀礼行為、幸水遺跡での溝の中に埋葬された人、洪水に苦しみながら何度も水田を造営した弥生人の努力、いずれも非常に重要な成果です。 しかしながら、人々が高地に移動した理由のこと、集落と共に墓も高地に移動したこと、また水田も高い所に上がっていると考えられることなど、今後の発掘でこれら多くの謎の解明の可能性が残されているのです。楽しみに待ちたいですね。 (取りまとめ 野間口秀國)
by y-rekitan
| 2015-10-28 11:00
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