継体大王の謎を追う ―6世紀前半の日本と朝鮮半島― 濱田博道、濱田英子 (会員) 11月18日(水)、松花堂美術館講習室で会員研究発表が行われました。講師は、濱田博道さん、英子さんご夫婦です。 博道さんは中学校の数学の先生、英子さんは小学校の先生でした。退職後ご夫婦で歴史、特に古代史、古墳に興味を持たれ、全国各地の古墳を訪ね歩かれ、今回の岐阜県本巣市根尾の「継体天皇お手植えの薄墨桜」を見て感激されたとのことです。当日上映したパワーポイントの映像にその写真を掲載して頂きました。 以下、報告の概要を記します。参加者42名。 “継体”は奈良時代の漢風諡号(しごう)で、生前は“オホド大王”と呼ばれていました。ここで、継体天皇と書かないのは、天皇の称号が成立したのが天武朝の頃とされ、継体の時代には天皇の称号が生まれていなかったからです。古代史の研究者は、継体大王(だいおう)と呼ぶことが多いのでそれに倣います。 小火床(オホド)=鍛冶集団に関わる豪族との説がありますが、『日本書紀』によると、応神天皇の五世孫で、近江の高島で生まれ、越前・三国で成長活躍したとのことです。第25代の武烈天皇に子がなく、大王家が断絶したため、大伴金村らが擁立・即位させました。507年のことで、新王朝との見方がされることがあります。皇統を継ぐ天皇との認識が継体の名となったのではないかというものです。なお、『古事記』では、近江より招いて即位させたことになっています。いずれにせよ、出自の謎といえるものです。また、応神の倭名である“ホムタワケ”と“ホムツワケ”の論点もあります。 『古事記』、『日本書紀』ともに、日本海に近い豪族から選ばれていることから、当時の朝廷が、東アジア情勢に詳しい人、外交知識を有している人を求めたのではないかとの説があります。 『日本書紀』によると、以下の記述が見られます。 継体は507年57歳で樟葉宮にて即位し、4年後の511年、筒城宮に遷都し、7年後の518年、弟国宮に遷り、大和に入ったのは即位20年目の526年でした。地方豪族出身の継体がヤマト王権を掌握することに対して強力な反対勢力がいたのでしょうか。また、継体の力の源である淀川水運の経営にあたるため、あえて、三川合流地の都に留まったのでしょうか。 樟葉は、継体に助言をした河内馬飼首の渡来系集団の地域でした。また、いずれの宮も巨椋池(いけ)の傍にあります。巨椋池(おぐらいけ)は大型船舶の碇泊が可能で、水運の中心でした。ここまで大型舟が来たのです。三川合流の地点・男山丘稜から淀川を見下ろす継体天皇の絵が『くずは物語』(楠葉地域学習教材制作委員会編)にあります。とても興味深い絵です。木津川は南山背(やましろ)・伊賀・三重・尾張と東国や太平洋に繋がり、宇治川は巨椋池(おぐらいけ)・琵琶湖(水運の要地)・若狭や北陸、日本海・朝鮮半島へ繋がります。桂川は丹波・丹後・山陰から日本海・朝鮮半島へ繋がり、下ると淀川から難波津・瀬戸内海・九州・朝鮮半島へと繋がっています。継体は、国際都市が大河の傍に有ることを知っていたのではないでしょうか。 継体大王が応神5世の孫かどうかはっきりしませんが、即位前は地方の豪族であったのに、ヤマト王権を掌握できたのは強力な支援勢力がいたからだと考えられます。 支援勢力として妃の出身地の豪族が考えられます。そのことで、同盟関係がわかるのです。日本書紀で9人、古事記で7人の妃がいたことになっています。9人説でみると、地方豪族出身6人、畿内から2人、皇統から1人。妃の出身地としての越前では、朝鮮との交流が考えられ、美濃、尾張(断夫山古墳・円筒埴輪)を押さえることで東国と結びつくことが考えられます。また、近江や若狭の息長・三尾・坂田の豪族との結びつきや、河内の茨田氏(淀川水系)との関係も指摘されます。 3つの宮のうち、樟葉宮は河内の馬飼集団の勢力下にあり、筒城宮は百済系・高麗系が多く住んだ地です。そして、弟国宮は渡来人の最大の豪族である秦氏の拠点の地です。その他、生誕の地の近江高島、成長・活躍の地である越前は渡来文化伝播の地です。このように、継体大王は多様で、強力な渡来集団のネットワークを持っていたと考えられます。 支援勢力としての大和の豪族には三氏が考えられます。蘇我氏と和邇(わに)氏と大伴氏です。 蘇我氏では、蘇我稲目の時、突然台頭して継体大王の大和入りに際し、継体の息子である安閑・宣化大王に宮地を提供しました。そして宣化大王により大臣に任じられています。また、二人の娘をやはり継体の子である欽明大王の妃としました。 和邇氏は大和の伝統的な豪族で8代の大王に妃を入れています。大和盆地の北東部(天理市)が拠点ですが、山背の南北から琵琶湖へ勢力を拡大し、継体一族と繋がりができたと考えられます。筒城宮がある南山城は和邇氏の勢力下の地です。 大伴氏の場合はどうでしょうか。大王の群臣には臣(おみ)グループと連(むらじ)グループがあり、大伴氏は、連グループのトップであり、5世紀後半から大きな権力を持ってきました。即位の地である樟葉宮は馬飼集団の勢力下の地ですが、大伴氏は河内に勢力の基盤があり、大伴氏の勢力の地であるともいえます。 反対勢力を見てみましょう。継体には強力な支援勢力がいたと考えられますが、それでも大和入りに20年もかかったのは、さらに強力な反対勢力がいたからだと考えられます。但し、この研究についてはまだ定説がないようで、あえて大和に入らなかったと考える研究者も多くいます。 反対勢力を以下に列挙します。 〇 25代武烈大王はまだ亡くなっておらず反対した。 〇 大連(おおむらじ)の物部氏が反対した(途中から支持にまわる) 〇 葛城氏や中臣氏が反対した。 〇 葛城・中臣氏だけでなく中央豪族が連合して反対した。 継体は、九州で起きた磐井の乱(527年)平定後に亡くなったといわれますが、527年、531年、534年死亡説があります。「王・太子・皇子」3人が同時に殺されたのではともいわれています。 王陵は最近まで太田茶臼山(おおたちゃうすやま)古墳(茨木市)と今城塚(いましろづか)古墳(高槻市)があり、謎とされてきました。太田茶臼山古墳は、宮内庁が継体大王の陵墓と指定していました。しかし、学者間では、古墳周辺の埴輪の編年分析から、5世紀半ばの築造と判断されました。また、摂津国嶋下郡にあたり、延喜式の記述とも一致していません。 今城塚古墳は、かつて少数の研究者が真の陵墓と指摘していましたが、江戸・明治期は古墳が荒れていたこともあって、王陵候補から外されていました。そのため却って徹底した発掘調査・研究が進み、その結果、6世紀前半の築造であることが判明されました。摂津国三島藍野・島上郡にあり、6世紀前半最大の古墳(全長190m)です。三段築成、二重周濠、葺石(ふきいし)の存在、多数の埴輪を持っているなど王陵の資格をすべて持っています。また、3つの家型石棺の破片がみつかりました。それは、阿蘇のピンク石、兵庫・竜山の黒石、奈良二条山の白石です。そして、大王墓としてはじめての渡来系の石室である横穴式石室であり、外堤に壮大な形象埴輪列を持ち、円筒埴輪にランドマークのように船の文様が刻み込まれています。 以上のことから、今城塚古墳が真の御陵とほぼ確定しました。日本で唯一の王陵研究ができた古墳といえます。しかし、宮内庁は指定を変えていません。その太田茶臼山古墳は、埴輪の分析などから継体一族の墓と考えられています。つまり、継体一族は、今城塚古墳築造以前から三島地方に勢力を持っていたと考えられるのです。 継体大王は、在位25年の内、2つの山背の宮(筒城宮・弟国宮)で15年間を過ごしました。その意味では山背の大王といえます。山背は三川合流の地で、後には千年の都、平安京が置かれました。継体の先見性といえるかもしれません。山背の支援勢力が残した古墳や遺跡に、八幡市の荒坂五号墳、新田遺跡、内里八丁遺跡があります。 また、淀川の大王という見方もできます。即位の宮が樟葉宮で、大王陵が今城塚古墳です。その今城塚古墳の後円部の円筒埴輪に2本のマストの舟のマークが刻まれています。これも淀川水運との関係なしには考えられません。 継体王朝を考える上で、一番重要なテーマかもしれません。継体王朝がそれまでの王権と違う政策があるのかを検討していくことが重要でしょう。 新王朝といえるという説には、①地方豪族を基盤としていること、②古墳築造の動向が新しくなった、③今までの王陵の地ではなく、淀川流域で即位し、王陵もそこに築いた、というものがあります。反対に、新王朝でない説には、①大伴金村など前王の重臣を採用している、②最後は大和で治世を行った、③外交相手が百済中心でそれまでのヤマト王権と変わらない、という説があります。 『日本書紀』をひも解いてみると、継体紀の半分以上は国内でなく、朝鮮半島の記述で占められています。なぜか。そこには、東アジアや朝鮮半島と切っても切れない日本(倭)の存在があったし、緊張した情勢があったからです。特に、百済は475年、高句麗の侵攻を受け、王は殺され、都の漢城は陥落し、存亡の危機に陥りました。日本(倭)は、百済と同盟関係を結んでおり、支援に向かいます。 しかし、その過程で、弥生時代からの通交のあった朝鮮半島南部の加那諸国は百済・新羅双方から侵攻され、衰退してゆくのです。そのさなか、新羅とよしみを通じていた筑紫の国造、磐井の乱がおこります。日本(倭)の受けた打撃は大きいものがありましたが、百済との通交で先進的な文物・文化の摂取に努め、倭は体制を固め、古代律令国家形成へと向かいます。継体期はその激動の渦中であったといえます。 朝鮮半島は、北に高句麗、西に百済、東に新羅、南に加耶諸国がありました。百済は475年高句麗の侵攻を受け、王は殺され、都・漢城は陥落し、熊津に都を遷します。百済は領土拡大を目指し南下。馬韓や加耶諸国に圧力をかけます。「日本書紀」には、任那4県を百済に割譲との記載がありますが、そのことを指しているものでしょう。また、新羅も領土拡大のため百済・加耶諸国に圧力を掛けました。加耶滅亡の危機に際し、日本は加耶諸国の支援を始めましたが、その渦中に、新羅とよしみのあった磐井の乱が起こったのです。北九州とヤマトとの戦いになりましたが、北九州は大きな勢力で出雲・伯耆にも繋がりがありました。九州の独立とヤマトによる統一への戦いでしたが、1年半でヤマトの勝利に終わりました。 南下した百済では2、3代続いた王も殺され、新しい王である25代の武寧(ぶねい)王が内乱を鎮め平定しました。武寧王は継体大王と同時期の百済王で、王陵は1971年、公州、宋山里古墳群で発見され、墓誌が出土し確定しました。棺は日本産の高野槇で作られていて、金箔の枕・足座・宝冠・銅鏡など出土品が多数出ました。環頭大刀・鏡など日本との繋がりを見ることができます。 武寧王は、日本の筑紫・加唐島で生まれシマ(嶋君・斯麻)王と呼ばれました。北九州との関連性はこの事実でもわかります。 1983年、朝鮮半島に前方後円墳があるとの主張が起こりました。韓国・嶺南大学の教授が主張したものです。韓国・栄山江流域に前方後円墳が14基あり、いずれも6世紀前半の築造で、継体大王の時代のものです。百済の武寧王時期と重なるもので、突如として現れ、突然消えていきました。被葬者を巡って論争がありますが、これまでのところ、①馬韓在地首長説、②派遣・移住倭人説、③百済官僚説と諸説があるようです。 隅田八幡(すだはちまん)人物画像鏡は、青銅鏡で国宝に指定されています。江戸時代に現在の橋本市妻で発見されました。503年の銘文があります。以下に紹介します。 「癸未(きび)年(503年)八月、日十(おし)大王の年、孚弟(ふと)王(継体)意紫沙加(おしさか 押坂)の宮に在(いま)す時、斯麻(しま)(武寧王)、長く奉(つか)えんと念(おも)い、開中費(かわちの)直(あたい)・穢人(わいじん)の今州(こんつ)利(り)、二人の尊(たかきひと)(重臣)を遣わして白(もう)す所なり。同(銅)二百旱(かん)を上(すす)め此の竟(かがみ 鏡)を作る所なり」(福永伸哉、山尾幸久氏らの解読から) 「斯麻(武寧王)が孚弟王(継体)に長く奉えんと念い」とあり、継体と武寧王の繋がりが見えます。また、出土された場所は和歌山県橋本市で紀の川沿いにあり、多くの倉庫群や近くの古墳から阿蘇凝灰石の石棺や馬の兜(かぶと)(韓国加耶地方からのものと同種)が出土している。そこは、紀氏の領域であり、紀氏関連氏族を通じての朝鮮半島との繋がりも見えてきます。 韓国、栄山江流域の前方後円墳は、5世紀末~6世紀半ばにかけて築造されたもので、そのほとんどが継体天皇の時代(百済王でいえば武寧の時代)のものであることがわかってきました。古墳の大きさは全長70mを超えるものがあり、円墳の百済王武寧王の墓(径20m)よりもはるかに大きいものです。また、そのような前方後円墳は朝鮮の歴史を通じて、この時期に突如として現われ、突然消えてゆくということもわかってきました。なぜでしょうか。そして、「日本独特のもの」といわれた前方後円墳はなぜ朝鮮半島において築造されたのでしょうか。そもそも誰の墓なのでしょうか。継体大王の時期の遺跡を山城地域で考えてみると、近年の発掘で、精華町の森垣外遺跡から朝鮮半島独特の大壁建物跡や馬の骨、鉄さいなどがみつかり、当時、渡来人の集落があったことがわかりました。一方、韓国の古墳発掘は現在も続いています。一昨年は、「14基目の前方後円墳か?」のニュースが報道されたし、昨年の暮れには咸平(ハンピョン)郡、長鼓山(チャンコサン)古墳東方の方台形古墳から「馬や鶏形の形象埴輪が見つかった」という新聞記事が各社から発表されました。今まで、円筒埴輪は発掘されていましたが、形象埴輪がみつかったことは初めてのことです。被葬者論にまた新たな一石が投じられました。このように、栄山江流域では、毎年のように新しい発見が報告され、ホットな論争が続いています。 博道さん、英子さんは、先生をなさっておられ、明瞭な言葉使いと優しくわかりやすい講演でした。受講した人を代表して御礼を申し上げます。 〈文責=村山勉〉
by y-rekitan
| 2015-11-28 11:00
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