―その2― 谷村 勉 (会員)
歴史的呼称がある 神亀二年(725)楠葉の久修園院が建立されると同時に、山崎と橋本の間に山崎橋が架けられました(行基年譜) 山崎橋は古代の山陽道やその後の南海道を結ぶ重要な橋になります。平安時代に入り山崎橋から橋本を抜けて楠葉中ノ芝から交野山(枚方市交野)を結ぶ線上に高野道があったようです『神 英雄(文化燦々第一号)石清水崇敬会』楠葉野田の大師堂や僅かに残る畦道にその面影が残っています。 貞観元年(859)に石清水八幡宮が勧請されて以来、八幡の道は八幡宮参詣道として徐々に周辺道路が整備されたと思われますが、その道は近世に建立された道標によって「八幡宮道」と呼称され、参詣者の目印とされてきたことが解ります。現在も「八幡宮道」の道標は以下の六基が現存します。(その内1基は三宅安兵衛碑です)
京都市内に「是より洛中碑」とよばれる石碑が10本余り現存し、「是より洛中荷馬口付のもの乗へからず」と彫られています。馬に乗って洛中に入ってはならない、という意味ですが、八幡の「是より八幡宮碑」とでも言いましょうか、洛中碑とよく似た道標です。 八幡の町には近世の「八幡宮道」の道標は残っていますが、「高野道」の道標は殆どないと言っても過言ではありません。八幡菖蒲池にある「市立八幡図書館」1階ロビーに江戸時代中期の大型絵図「八幡山上山下惣絵図」が掲示されています。大変面白いので一度ご一瞥下さい。惣絵図の左、洞ヶ峠付近に「高野道」と記され、河内名所図会(享和元年・1801刊)や「男山考古録」(嘉永元年・1848)に記された通り、洞ヶ峠が八幡の高野道の起点であることが解ります。 八幡宮三の鳥居の神馬舎近くに「かうやみち」の石碑があります。これは志水道を抜けて洞ヶ峠の高野道に誘導する唯一の道標と考えられますが、建立年月が彫られていません。 石清水八幡宮は神仏混淆の神社として歴史を重ねてきました。男山四十八坊と云われる坊舎があって僧侶が住み、祈祷の取次や宿坊を兼ね、八幡宮の運営組織として、明治維新まで重要な役割を果たしました。明治初年(慶応四年・1868)から矢継ぎばやに出された「神仏分離令」(神仏判然例)によって、神社と寺院の分離が行われ、八幡宮山上から寺院関係のものが出されてしまいました。 それ以前の江戸時代までは神仏混淆の宗教都市として大いに繁栄した経緯があります。慶長五年五月(1600)、関ヶ原合戦の4か月前、徳川家康によって八幡に361通の朱印状が発せられ、その後慶長十五年(1610)徳川家康から「右、八幡八郷の事、検地令免許、守護不入之上者・・・」の御条目の発給によって、大名は置かれず、石清水八幡宮を中心とした自治組織となった。検地免許の神領とは税金を取らない事を言ったものです。 要するにこの様な重要な宗教都市の参詣道には八幡宮の名称が付くのが常識で、八幡宮の参詣が終わり、次の目的地を目指す分岐点で初めて、八幡以外の宗教拠点の名称を付けるもので、八幡以外から八幡宮へ参詣に来る場合も同様、その分岐点が洞ヶ峠であり、河内国(枚方市)の高野道でありました。 初出は『京都府地誌』。明治八年(1875)六月五日太政官により「皇国地誌編集例則並ニ着手方法」が各府県にだされ、明治14年から17年に京都府の担当者が調査した、とあります。 「山城国綴喜郡史」「道路」の項に、大阪街道「久世郡淀より本郡に入り、・・・木津川を渡り、八幡荘に至る、此の間を「御幸道」と云う、・・・「荘誌 山城国綴喜郡八幡荘」「道路」の項に、高野街道「三等道路に属す、本荘の北界木津新川頭に起り本荘の中央を貫キ委、蛇南行し、河内国招堤村界尽く」とあります。 なお、紙面の都合上明治からは次回、―その3―にて本格的に「東高野街道」を検証します。 参考文献
by y-rekitan
| 2015-11-28 10:00
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