人気ブログランキング | 話題のタグを見る

◆会報第69号より-07 八幡の道③

シリーズ「八幡の道」・・・③

八幡の道を「東高野街道」となぜ呼ぶのか?
―その3―
 谷村 勉 (会員) 


「官」による地図の作製

 『京都府地誌』によりますと、明治八年(1875)六月五日太政官達により「皇国地誌編集例則並ニ着手方法」が各府県にだされ、明治14年から17年に京都府の担当者が調査した、とあります。

 同地誌の「山城国綴喜郡史」「道路」の項に、大阪街道「久世郡淀より本郡に入り、・・・木津川を渡り、八幡荘に至る、此の間を「御幸道」(みゆきみち)と云う、・・・」とここでも「御幸道」と言い表しています。
 文久元年(1861)四月二十四日 皇女和宮が第14代将軍徳川家茂に嫁ぐ直前に石清水八幡宮に参詣された折の記録を見ると淀御小休、堤道南へ、鳥居通御順路、山上、とあります。正徳三年(1713)に建立された「石清水八幡宮鳥居通御幸道」の標碑から「鳥居通」(とりいどおり)の名称を使用しています。
 同地誌の「荘誌 山城国綴喜郡八幡荘」「道路」の項に、高野街道「三等道路に属す、本荘の北界木津新川頭に起り本荘の中央を貫キ委、蛇南行し、河内国招堤村界尽く」とあります。
 『京都府地誌』の中の「山城国綴喜郡史道路」の項に「御幸道」と「高野街道」が出てきます。ここに云う「御幸道」が御幸橋(ごこうばし)から一の鳥居に向かう道路を指していると考えられます。「高野街道」も同じく八幡北辺の「御幸橋」(この時まだ架橋されていません)辺りからの旧道を高野街道と名付けたようです。「御幸橋」南詰から真っすぐ南下する通りは「御幸道」の記載がありますから、高野街道は御幸橋から東へ折れ、京阪電車のガード下を通り、真っすぐ飛行神社へ通じる道、あるいは御幸道から途中東方面に折れて、いわゆる八幡を縦断する常盤道(ときわみち)を高野街道と指しているものと考えられますが。

 次に明治18年頃の陸軍仮製図(参謀本部陸軍部測量局)では淀城下から美豆村、木津川に至る道を京街道とし、八幡に入れば「自京都至和歌山道」と図示(部分図①参照)また、洞ヶ峠からは「高野街道」と図示されています。(部分図②参照)
◆会報第69号より-07 八幡の道③_f0300125_14918100.jpg
 明治41年発行の「山城綴喜郡史」(京都府教育会綴喜郡部会発行)には、和歌山街道は八幡町より洞ヶ峠を経て、北河内郡菅原村字長尾に達す。と記載されています。さらに明治42年の陸地測量部(参謀本部測量局から独立)作成の地図に初めて「東高野街道」と図示されました。

 明治に入り作成された地図はいずれも「官」の担当者によって作られたものであり、機能性や利便性による一方的な官の命名であり、そこに住む住民の呼称などは反映されていないものでありました。一例を挙げれば現在のJR米原駅は官の担当者によって「MAIBARA・まいばら」と命名されましたが、実際は「MAIHARA・まいはら」と呼ぶ地元の呼称を理解していませんでした。
 また、特に陸軍が作成した地図とは当時は軍事機密に当たりますから、一般には流布せず、八幡の一般住民は「東高野街道」の呼称を知らないのは当然のことであったと思います。八幡宮の参詣道は相変わらず八幡宮道であり、志水道であり、山路道であり、常盤大道であったのです。少なくとも「高野街道」とは洞ヶ峠から河内方面の街道を指す呼称であり、戦後も永く八幡地区の「東高野街道」の名称は一般に流布していませんでしたが、いわゆる学者か誰かが明治時代に陸軍の「東高野街道」と書かれた地図を発見し、これを根拠に言い出したものではないでしょうか。八幡の道を「東高野街道」とする根拠は是非教えてほしいものです。

歴史街道運動

 中村直勝氏が昭和十一年に発行した「八幡史蹟」の文中に、山の西麓は河内の楠葉牧等を経て摂河泉の豊穣なる平野を背後に展開し、又洞峠から四条畷、河内東条に通ずる東高野街道を出している。と記載しています。ここでもやはり洞ヶ峠から「東高野街道」と呼称されていたことが示唆されています。
 先日友人からの質問で、南北朝の戦いの時、南朝の後村上天皇の「八幡御退失」の折、「東高野街道」を落ち延びたのではないかとの話になりました。早速「太平記」を読み直せば、「大和路へ向けて落ちさせたまえば、・・・木津川の端を西にそうて、東条(大阪府富田林市)へ落ちさせたまい、・・・賀名生(あのう)の御所へぞ参りける」とあり、「東高野街道」の名詞は何処にも出ませんでした。
 さて平成の世になってその4・5年頃、大阪から発信された「歴史街道運動」にいつの頃か八幡市も参加し、八幡市を南北に縦貫する道を「東高野街道」だとして、いきなり発信するようになったものでしょうか。当時はTVで歴史街道の宣伝番組をよく見ましたが、八幡の「東高野街道」等は全く知りませんでした。今から思えば「東高野街道」とする前にどれだけ八幡の歴史を検証し、実地の調査をし、かつての石清水八幡宮の神領の道に、他の宗教施設を連想するような名称を付けても良いのか等々、熟慮したのでしょうか。

 なぜ地元固有の歴史的名称を大事にして、次の世代に送ろうとしないのでしょうか。さらに、八幡を南北に縦貫する道を「東高野街道」と称して誰が往還したのでしょうか、日記や資料があれば示してほしいものです。実際に高野山に行くには殆どが淀川水系を利用して舟で大阪に出たのが、事実ではないでしょうか。

一の鳥居前の道標に「東高野街道」の名称はいらない

 一の鳥居前の「東高野街道」の道標は地元資料等、歴史的に考えてもあり得ないものと思っています。「御幸橋」(ごこうばし)から一の鳥居に向かう一連の道は歴史的に見て何度も「御幸道」(みゆきみち)と呼称されてきた事実を挙げました。何度も例証を挙げていますので、ご確認頂ければ幸いです。
◆会報第69号より-07 八幡の道③_f0300125_17254856.jpg
どちらかの展示会で「重要文化財 石清水八幡宮境内全図」(石清水八幡宮蔵)をご覧になったことがあるかも知れませんが、ここにも放生川に沿って描かれた松並木の道が「御幸道」であるとはっきり図示されています。放生川から西は清浄の地である八幡宮境内の一部として「御幸道」は描かれているものです。
 以前、八幡の観光案内に京阪八幡市駅から東に進み、◆会報第69号より-07 八幡の道③_f0300125_13314686.jpg京阪電車のガード下近くの交差点を南に、飛行神社前の常盤道(ときわみち)を「東高野街道」とするパンフレットを発行していました。また飛行神社前の常盤道を北行して京阪電車のガードをくぐり、御幸橋を渡って背割堤までのルートを「東高野街道」とする表示もありました。それがいつの間にか一の鳥居前の「御幸道」に「東高野街道」と記された道標が建ちました。これには古くから地元に残った史料や住民意識を無視して、やりたい放題の感があり、唖然とする住民は少なくありません。歴史は言ったもの勝、やったもの勝などと聞くことがありますが、そのような勝手な言い分を安易に認める風土や何でも無批判に引用するような風潮は戒めなくてはならないと思います。

「東高野街道」の道標をよく見ると

 「東高野街道」の道標は平成20年頃から建立されたものでしょうか、数か月前には「御幸道」辺りにも建立されました。しかし、これらの道標には普通は考えられないような欠陥があります。史実に興味のある住民や観光客にはすぐ判ることですが、これらは次回検討して説明いたします。

参考文献
  :京都府立大学文化遺産叢書 第3集 
   京都府立大学文学部歴史学科
    「八幡地域の古文書と石清水八幡宮の絵図」
  :石清水八幡宮史料叢書一「男山考古録」 
  :新潮日本古典集成 「太平記 四」 新潮社
  :その他


<<< 連載を抜けてTOPへ        この連載記事の続きは⇒⇒

by y-rekitan | 2015-12-28 06:00
<< ◆会報第69号より-06 国宝 ◆会報第69号より-08 茶くれん寺 >>