八幡の歴史創出 その1 ―松花堂・東高野街道・天皇聖蹟・綴喜郡― 中村 武生 (京都女子大学非常勤講師) 1月17日(日)午後1時半より、表題のタイトルで八幡市文化センターを会場に1月例会が開催されました。これまで通り、担当した者が概要をまとめ中村先生にお送りしましたところ、加筆訂正されたものが返送されてきました。但し、物理的な条件もあって一回だけで掲載することが叶わなかったようです。中村先生の三宅碑に対する思いの強さの表れでもあると同時に、ドキュメンタリータッチの文章はこれまでの概要報告とは違うもので読み応えがあると思います。そこで、今回と次回とに分けて掲載することにしました。ご承知おきください。 参加者77名。 三宅安兵衛(1842~1920)は若狭(福井県)小浜の出身で、洛中六角通東洞院に居住し、筑前博多織を営んで財をなしました。当時、京都市内で博多織を営むのは安兵衛だけでした。安兵衛は亡くなる前年の1919年(大正8)元旦に、長男清治郎(1872~1940)に1万円(当時)を託して遺言しました。 これは父母(母ゆかも同年に死去)の十三回忌(1932年)に刊行した回想録『木の下蔭』によって知れます。 原文のまま記載すると、「此の金を予が死後、京都の為め公利公益の事に使用せよ。是れ予が幼より故国を出て京都に来り今日迄恩沢を蒙りし御礼の意也。 但し其用途の方法時期等は汝に一任す。要は克く予が意を体せよ。疎かに用ふるなかれ、云々」です。 清治郎は凡そ1年間遺言をいかに実現するかに悩みますが、ついに以下の想いに至ります。「つらつら意ふに、旅行観光は考一代の楽みなりき、別して都名所には強き憧憬を有したり。されば嘗て、石清水八幡宮平野神社等に参詣者の栞として、同志と協に標石を建てたる事もあり。惟うに都名所社寺旧跡に標石を建て、名所の栞に道碑を立てなば、必ず、在天の霊、笑って之れ臠し給はん。(中略)大正10年12月27日に起して、昭和5年迄に建碑。無慮四百余基所期以上を了し建設費約金弐万円を之れに要したり。」(『木の下蔭』) 亡父らが建てたものは「旧官幣大社石清水八幡宮」という巨大標石として現在も一の鳥居前に残っています。三宅安兵衛の名前も刻まれています。亡父の遺言は、その一周忌に当たる大正10年から昭和5年(1930)まで、10年をかけて履行されました。実に400余基を建碑されました。託された1万円だけでなく、清治郎自身も1万円を出して合計2万円、凡そ現在の1億円をこの事業に費やしました。清治郎は昭和15年(1940)に熊本で客死しました。急性肺炎でした。当時の新聞に写真入りで報じられています。清治郎は父安兵衛の博多織を継がず(実弟安次郎が継ぎました)、西陣織の帯屋を営んでいました。晩年、物資不足の時期に蓑虫の加工品を開発しました。帽子、財布、靴、ネクタイなどを売り出し、「蓑虫翁」として有名でした。 清治郎の死後は、その事業も存在も忘れられたようです。八幡の石碑のなかには開発等によって廃棄されたものがありました。のち発見され、現在はふるさと学習館の庭に横たえて、「路上展示」してあります。 忘れられていた「三宅安兵衛遺志」碑を改めて紹介したのが、岩永蓮代(1916?-?)です。東京都杉並区の一般女性で、1987年(昭和62)2月刊行の著書『文化財保護ありのまま』(六興出版)のなかで父子を取り上げました。岩永は、奈良時代、聖武天皇が全国六十余州にそれぞれ建立した国分寺・国分尼寺跡などの保護に尽力したことで知られます。とくに国分尼寺の啓発を心掛けたようです。国分尼寺跡は、国分寺跡よりも不明な点が多く、旧蹟地があまり分かっていません。 ただ国分尼寺は正しくは「法華滅罪之寺」といいまして、「法華」などの地名として残ることがあるようです。「尼」のつく地名もそうです。そのようなところには古代の寺院に葺かれた布目瓦や、礎石に使用された立派な石などが落ちていることもあります。必ずしも国分尼寺跡とは言い切れないけれど、もしかしたらそうかも知れない。しかしこのまま放置するならば、将来遺跡は壊滅するであろう、岩永は地域や自治体に対して粘り強く顕彰を勧め、いま実証できなくても、まずは「参考地」などと刻む石碑を建てることを主張しました。自身が費用を提供したことも一度や二度ではありませんでした。播磨、武蔵、上野などの国分尼寺跡の保護に関わったそうです。 1968年(昭和43)12月、山城国分尼寺跡を求めて、京都府相楽郡加茂町法花寺野(当時)を訪問しました。そこにはすでに「甕原離宮国分尼寺遺趾参考地」と刻んだ碑が建てられていました。自身以前に「参考地」と刻んだ碑のあることに驚き、関心をもって裏面を見ると、「昭和4年(1929)春に京都三宅安兵衛の遺志をうけてこれを建てる」とあった。いったいどのような人だろうと思いつつ、その後も京都府下を歩いていると「三宅安兵衛遺志」と刻んだ石碑の多くある事に気づきだします。自治体などに問い合わせても当時は全く判らなかったそうです。 それが7年後の夏、当時高倉三条にありました(現在の京都文化博物館の位置)古代学協会運営の平安博物館で、山中裕による「御堂関白記」(藤原道長の日記)の集中講座があり、それに岩永が参加していたときのことです。同館の教員だった大石良材にたまたま「三宅安兵衛遺志」碑について話題をしたところ、なんと大石は三宅家の遠縁に当たる人でして、子孫がこの近所に住んでいると知らされます。その日のうちに六角通東洞院の三宅清三(清治郎の嫡孫)を紹介され、前記『木の下蔭』を示されてようやく事情が分かったということでした。 なお岩永について、もう少し述べておきます。実は国分尼寺跡にとどまらず、京都府下の複数の史蹟顕彰にも関わっています。鳥羽離宮跡公園(京都市南区)や浄妙寺跡(宇治市木幡)などの標識です。『文化財保護ありのまま』に記載はありますが、現地のそれには一切岩永の名が記されておりませんので、特記しておきます。前者については『京都新聞』1975年5月8日付に報じられていました。後者については、直接窓口になられた吉水利明さん(当時宇治市教育委員会)からうかがいました。なお『京都新聞』には岩永自身の「国分尼寺跡をめぐって―私の保存活動」という一文も寄稿されていましたので紹介しておきます(夕刊1972年6月12日付。上記記事とあわせて萬田朋子さんの教示)。 最初に岩永を一般の主婦と紹介しましたが、実は大正・昭和戦前期の日蓮主義研究者として高名な仏教哲学者田中智学(1861-1939)の末娘です。なるほど名前の「蓮」も釈迦とゆかりの深いハスや日蓮の一字に通じます。家庭環境が岩永の文化財保護意識を育てたことは間違いありません。というのも、実は田中智学も日蓮宗旧蹟などに多くの揮毫・建碑をしているのです。そのひとつが八幡市にあります。本妙寺(八幡城ノ内)の日門の墓と「景仰之碑」です(高田昌史氏「《歴探ウォーク》八幡の古寺巡礼、第3回男山山麓の寺を巡る(Part2)」、八幡の歴史を探求する会会報69号)。本妙寺門前には「日門上人墓所、本妙寺」と刻んだ三宅碑も建っていて、世の中のつながりの深さに感じ入っています。岩永蓮代の活動も、いつかどなたかが伝記などにまとめて頂きたいと願っています。 さて岩永の『文化財保護ありのまま』を、僕は1989年(平成元)11月16日に、立命館大学東門そばの古書店で購入しました。当時僕は佛教大学史学科の3年生で、その年の4月から枚方市の親元を離れて一人暮らしをしていまして、自活しようと洛東山科や洛北大原、洛西嵯峨、桂で家庭教師をいたしました。そのうちの一人、大原の谷口誠司君に求められて、学習の一環でいっしょに宇治平等院に行きました。同年12月10日のことでした。京阪宇治線の宇治駅を出ると、宇治橋のたもとに「宇治川ライン」と刻まれた石碑が見えたのです。「三宅安兵衛遺志」碑のひとつです。『文化財保護ありのまま』にこの写真が挿入されていたので(185頁)、すぐ気づきました。これが初めて意識して触れた三宅碑です。 その後、石碑に気づくと必ず裏面を見るようになりました。たとえば実家のある枚方市の史蹟めぐりをしていたとき、楠葉の久修園院の門前で「戊辰役橋本砲台場跡」碑に気づき、ふと裏面を見ますと「三宅安兵衛遺志」とありました。身近なところに三宅碑の存在することも、意識が持続する力になったのかもしれません。 岩永につづいて三宅碑を紹介されたのが、伊東宗裕さんです。1997年(平成9)7月に刊行された『京の石碑ものがたり』(京都新聞社)のなかで、三宅父子と「西陣碑」を取り上げられました。西陣碑とは、今出川通大宮の旧西陣織会館、現在の京都市考古資料館前にあるもので、ほぼ最後に建立された三宅碑で、最大の規模のものです。 この書籍は刊行と同時に伊東さんがお送り下さいまして、さっそく拝読しました。このなかで伊東さんは、岩永の『文化財保護ありのまま』ではあきたらず、『木の下蔭』そのものを欲せられたこと、しかし国会図書館や府立総合資料館などにも所蔵されていなかったこと、そのため前述の三宅清三を頼られてようやく入手されたことなどが記されてありました。 これを読み、実は僕も『木の下蔭』を読んでみたかったものですから、伊東さんにお願いしましたところ、快諾されてすぐにコピーを送ってくださいました。感激したのはいうまでもないのですが、最も刺激されたのは「建碑個所」と記された建立地一覧を記した部分でした。これまでは全くの偶然的に三宅碑を見つけることしかできませんでしたが、これさえあれば主体的に探しに行けるのです。伊東さんへの礼状には、自分は岩永や伊東さんのような文章は書けないが、「頂いた一覧を片手に建碑の現在を見て歩く旅を始めようと存じます」と記しました(同年9月10日付)。「建碑個所」一覧を見て、まずはっとしたことがありました。中学1年生だった1981年(昭和56)1月15日(祝)、お年玉で初めてカメラを購入しました。3日後の日曜日、香里園駅から京阪電車に乗りまして、初めて単独で京都市内の史蹟めぐりをしました。午前中に寺田屋跡を訪ね、午後から洛中に入りました。最初に目指したのは三条木屋町の池田屋跡碑です。京阪三条駅から三条大橋を渡って西へ進みます。父から借りた観光ガイドブックの地図に池田屋跡が示されていたので、それをたよりに木屋町三条交差点に近づきました。すると左(南側)に目立った背の高い石碑が目に入りました。池田屋跡は交差点の西ですのでこれは違います。しかし何もしらない子どもでしたので、目についた石碑に近づきました。瑞泉寺の門前です。そこには「前関白従一位豊臣秀次公之墓」と刻まれておりました。池田屋跡碑ではありませんでしたが、当時の僕はたまたまでしたが、すでに豊臣秀次を知っていましたので、感じ入ってしまいました。この年のNHK大河ドラマが「おんな太閤記」で、前年秋刊行のガイドブックの配役一覧を読んでいて、秀次を当時のアイドル的な俳優の広岡瞬さんが扮されることを記憶していたからです。 父から借りた観光ガイドブックの地図には、秀次墓の記載がありませんでした。秀吉の甥で二代目関白であったという重要人物の墓を記さない、でも池田屋跡は記す。なんだろう、この評価はという感じでした。京都の底深さといいますか、得体のしれないようなものを感じた気がしました。京都の魅力にはまる、大きなきっかけの一つだったように思います。 前置きがながくなりました。『木の下蔭』の「建碑個所」をながめていると、「豊臣秀次公の墓」などと記されていて、はっとしたわけです。これはもしや、あの瑞泉寺前の碑ではないかと思ったわけです。さっそく訪ねて裏面を見ましたら、やはりそうでした。当たっておりました。自身の歴史研究の人生は、ある意味、あの1月18日から始まったと位置付けておりましたので、その日に出会い、京都の底深さを感じさせてくれた碑が三宅碑だったということは、自身のいまは三宅碑がつくったのではないかという気がして参りました。なんだか三宅碑の調査をすることが自分とは何かを知ることにつながるような気がして、それから取りつかれたように三宅碑探しを始めるようになったわけです。 (以下次号)
by y-rekitan
| 2016-01-28 11:00
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