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◆会報第70号より-04 八幡の道④

シリーズ「八幡の道」・・・④

八幡の道を「東高野街道」となぜ呼ぶのか?
―その4―
 谷村 勉 (会員) 


石碑・道標の意味

 八幡市には「三宅安兵衛」碑をはじめ多くの石碑や道標が存在します。
 八幡は主として石清水八幡宮が貞観元年(859)に宇佐八幡宮から勧請されて以来、重層的にその歴史を重ねてきました。そのような八幡にあって、その歴史的な石碑や道標が指し示す「史蹟」は、『あたかもその地域の唯一の歴史のように、旅行者のみならず、住民にさえ認識され出すのである。石碑が後世にこのような影響を与えるものである以上、その建設過程は追及されなくてはならない』(注1) 建設過程とは個々の石碑がいつ、誰によって、何の目的によって建立されたか等を石碑に銘記する事であります。それによって現在の我々にとって郷土の文化財研究の貴重な遺産となっています。また石碑や道標が観光客に役立つのも表だけでなく裏や側面に書かれた意味を理解し、設置の背景をも読み取ろうとするからです(注2)。

◆会報第70号より-04 八幡の道④_f0300125_1895624.jpg 近年俄かに建立された「東高野街道」の道標を観察すれば、建立年月日や建立主体が記されていません。常識では考えられないことかと思いますが、それには何か意図があるのでしょうか。単に考えが及ばなかったのか、費用の節約を考えてなのでしょうか。
 八幡に越してきた多くの知人は残念ながら八幡の歴史的史実をよくご存じではありませんので、「東高野街道」の何々、何処何処とまことしやかに表現している場面に出くわすことがありますが、これは史実を知らないと「東高野街道」が、あたかも八幡の道の唯一の歴史のように認識する人も出てきた事を表しています。観光客にとってはもっと深刻です。さも大昔から「東高野街道」の呼び名を八幡では使用されてきたかのような印象を与えかねません。我々はもっと具体的に志水道の何々、城ノ内の何処何処、神原町の何々と表現しますし、町内の道に関して「東高野街道」と言った呼び方をしたことがありません。
ときわ道、志水道、八幡宮道といったオリジナルな道の名前が昔から存在するのに、歴史ある石清水八幡宮の「八幡宮道」にわざわざ「高野山」や「和歌山」でもないと思います。歴史街道運動に乗って単に観光客を誘致する材料として「東高野街道」と呼ばせることに、郷土愛といったものは全く感じません。
 何時、誰が建てたかわからないような「名無しの権兵衛碑」を見て、道標の意味をよく理解していない者による建立だとすぐ解るようなものです。
 最近「東高野街道」の道標に関して何人かの知人から問い合わせが来ましたので、八幡には「八幡宮道」や「御幸道」などのオリジナルな呼称が歴史的道標とともに存在する事や「八幡宮道」を示す道標は八幡市内だけではなく、近接の枚方市、交野市、寝屋川市等の本来、洞ヶ峠を起点とする大阪府内の「東高野街道」にも多数現存すること (注3)などを丁寧に説明したところです。

八幡の「東高野街道」は複数あるのか

 俄かに建てられた「東高野街道」道標が文化財研究の貴重な郷土遺産として耐えられるものかおおいに疑わしいとする理由は他にもあります。
 以前、「放生川」を挟み「御幸道」と東西並行して通っていた飛行神社側の常盤道(ときわみち)を「東高野街道」であるとしていたものが、突如、歴史的由緒のある「御幸道」(みゆきみち)を「東高野街道」と言い出しました。八幡に住み、八幡の歴史に関心のある我々にとって、これは歴史を塗り替えようとする行為としか映りません。
 また、紅葉の名所として知られる善法律寺前に「東高野街道」と記された道標が最近建てられましたが、この道はご存知の方も多く、昭和30年代に道路が作られた「新道」(しんみち)と住民が呼んでいる道です。それまでは周り一面、田圃や畑でした。昭和54年にやっと「認定道路」になったものです。
 旧道は善法律寺の東側の道、八幡市民図書館沿いの道を南に向かい、今田、馬場、神原を通って「走上り」の坂を西に進み、神原の交差点を南に志水道の正法寺へと進む道です。この道の八幡市民図書館横にも「東高野街道」の道標があり、東西に「東高野街道」が二本通っていることになりますが、「歴史街道?」が同じ所に二本も通っていることなどあり得ないことだと思います。
◆会報第70号より-04 八幡の道④_f0300125_20314870.jpg
 繰り返しになりますが、善法律寺の前を通る道(点線部分)は新道(しんみち)と呼んでいます。この道路は昭和30年代に取付工事を行う以前は、江戸時代の古図と同様南北に通じる道はありませんでした。
 この新道(しんみち)沿いの「善法律寺」にどうして「東高野街道」の道標が建つのか理解に苦しみます。果して、これを昔から在る「東高野街道」の古道と説明できるでしょうか? 無理なこじ付けとしか思えません。古道と呼べるのは東側に位置する道路です。

水月庵石碑(八幡大芝)の右に旧道あり

 ◆会報第70号より-04 八幡の道④_f0300125_13262331.jpg志水道から松花堂庭園に向かって南行し、やがて大芝に入ると「水月庵」の
石碑が見えてきます。真っすぐ進めば松花堂ですが、旧道は水月庵石碑から右に入り、八角堂を通り過ごして左に南下し、中ノ山墓地の東入口から宝青庵と旧万称寺跡地の間を通って南下するのが本来の道になります。今では殆ど車の往来もない閑静な道です。
 図で示す点線部分は現在使用されている道路で、「月夜田交差点」に至る新しい道路です。月夜田交差点に「岡の稲荷社」の三宅碑がありますが昭和2年の建立ですから、当時既にこの新しい道路があったのかもしれませんが、現松花堂公園の古い写真を見れば畦道程度の道であったかもしれません。
 ◆会報第70号より-04 八幡の道④_f0300125_18505979.jpg志水道を南行し松花堂庭園に向かうと「水月庵」の石碑が見えて、二叉路になり、右に入って八角堂へ向かうと、これが旧道の本来の道になります。
 なお、「水月庵」の石碑も元の旧道から動いていると推定されます。八幡の古道を「東高野街道」と称するならばこちらに「東高野街道」の道標を建てなければなりません。

「東高野街道」道標の矛盾

 放生川の東側に位置する常磐道(ときわ道)を「東高野街道」と言っていたものが、新たに事もあろうに、歴史的由緒名のある「御幸道」(みゆき道)を「東高野街道」と俄かに言い出したり、菖蒲池の八幡市民図書館から神原に至る道が本来の旧道でこちらを「東高野街道」としていたものが、その西側の新道(しんみち)と呼ばれる道路にある「善法律寺」の前に「東高野街道」の道標を建立したり、「水月庵」の石碑を右側に八角堂へ向かう古道を「東高野街道」と呼ばず、松花堂庭園西側の新しい道に「東高野街道」の道標を建てるなど、矛盾だらけの道標の建立や、建立年月日や建立主体の不明など、やっていることが、何かおかしいと思わざるを得ません。
 いま全国の自治体で古道や街道の整備に力を入れていると聞きますが、何処でもこういう事があり得るものでしょうか? 道標建立を推進している当事者は八幡の歴史や文化財の保存など本当に勉強し理解しているのでしょうか? よく理解した当事者であれば八幡の歴史や文化財保存の取り組み方、その仕組み、実際の活動など、他の自治体との比較などを含めて是非教えて欲しいと思う程です。
 少なくとも我々は八幡が好きです。八幡の歴史や文化財を大切にして、次の世代に送りたいと思っています。「和歌山」や「高野山」がメジャーで有名かも知れませんが、決してあやかりません。八幡のオリジナルな歴史を大事にします。そのために八幡の歴史を勉強し探究していきたいものです。
 このシリーズは次回が最終回です。

[注]
(注1)『京都民報』[中村武生 2004.4.11)“「三宅安兵衛遺志」碑と西村芳次郎”において、石碑が後世に影響を与える以上「石碑の建設過程は追及されなくてはならない」と述べている。
 歴史地理史学者の中村武生氏は『花園史学・2001.11』において「京都三宅安兵衛・清治郎父子建立碑とその分布」で八幡の三宅安兵衛碑について報告している。
(注2)『中村武生とあるく洛中洛外』(中村武生監修・2010.10・京都新聞出版センター)に道標・石碑についても詳しい記述がある。
(注3)『高野街道』(大阪府教育委員会、歴史の道調査報告書 第2集 昭和63年)P75 (1)道路等一覧表より、枚方市、交野市、寝屋川市等で「八幡道」、「八はた道」など「道」と記された道標6基、単に「やわた」あるいは「や者た」と記された道標6基、合わせて12基の「八幡宮道」への道標の存在が報告されている。

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by y-rekitan | 2016-01-28 09:00
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