◆会報第71号より-08-1 三宅碑②

《続》 1月度の講演会より

『三宅安兵衛遺志』碑と八幡の歴史創出
その2

―松花堂・東高野街道・天皇聖蹟・綴喜郡―

2016年1月  八幡市文化センターにて
中村 武生  (京都女子大学非常勤講師)


亡父の遺言をなぜ建碑にしたのか

 瑞泉寺には6基の石碑が現存しています。1カ寺の建碑にしてはトップクラスの多さです。これは母ゆかの菩提寺だということが大きい。のちには清治郎とその家族・子孫も埋葬されます。ちなみに安兵衛の菩提寺は南禅寺金地院です。こちらは父の筑前博多織を継いだ次弟安次郎家が受け継ぎました。
 安次郎は洋画家浅井忠と交流がありました。たとえば中澤岩太は、1903年(明治36)のこととして、安次郎を浅井と「共ニ工芸品製作ヲ研究セル者」として回想しています(「故浅井教授ト図案」黙語会編『黙語図案集』所収)。金地院は浅井の墓所でもあります。そこにのちに安兵衛・安次郎父子が埋葬されるというのは興味深い。安兵衛は自身の埋葬地について、「市中の狭き寺に葬るべからず。」「勝地名刹。誰人にても詣てよく、亦好んで詣で、詣でゝ心持よき寺に墓所を営めよ」と遺言していたそうです(『木の下蔭』)。浅井の縁で安次郎が亡父の思いをくみ、金地院を選んだということではないでしょうか。その金地院をふくむ南禅寺には、5基の亡父の遺志碑が現存しています。当然かもしれませんが、縁のあるところへは厚くなるようです。f0300125_1234469.jpg
 木屋町の瑞泉寺に戻ります。瑞泉寺には石碑以外の寄付もしていました。同寺の什宝には、文禄4年8月2日(1595年)、三条河原で惨殺された豊臣秀次妻妾の衣装の一部でその辞世の句を軸装したものがあります。瑞泉寺裂(瑞泉寺伝来表具裂)と呼ばれ、2002年(平成14)3月26日付で、京都府の文化財(工芸品)に指定されています。1922年(大正11)、清治郎はこれをそれぞれ納める木の小箱20個、外箱1個を寄贈しました。2005年(平成17)9月、市立長浜城歴史博物館の「秀吉を支えた武将、田中吉政」展で瑞泉寺裂が出展されたとき、担当の学芸員で敬愛してやまない太田浩司さんが木箱に墨書のあることを確認されました。たとえば小箱の1つには「為先祖代々菩提/三宅清治郎箱寄贈」などとあったそうです。太田さんから教えて頂きました。
 先祖供養のために寄付を行うというのは、徳川時代以来の路傍の道標建立の目的に通じるではないかと、これを知って気づきました。たとえば現京都市東山区の三条通白川の交差点に、延宝6年3月(1678年)建立の道標が建っています。これは京都市内における現存最古の道標です。「是よりひだり(左)、ちおんゐん(知恩院)・ぎおん(祇園)・きよ(清)水みち(道)」という主文のほか、側面に「京都不案内旅人のためにこれを立つ」という目的とあわせて、「施主、為二世安楽」と刻まれております。そうです、この道標は二世、おそらく先祖の供養のために建てられているのです。道標は道に迷った人の役に立ちます。仏教の世界では人の役にたつことを多く行うと功徳が得られます。功徳が得られると極楽に往生できる、つまりあの世で安楽に暮らせると信じられていました。
 清治郎が亡父安兵衛の遺言を建碑として履行した、とりわけ道標の体裁をもたせたというのは同じ目的ではないのか。すなわち清治郎は、単に亡父の好みにあうというのみではなく、功徳が得られ、あの世で亡父が安楽に暮らせることを願って石碑建立を選んだのだと考えられるのです。
 そのように理解すると、「安兵衛遺志」と刻むものとは別に、清治郎が興味深い建碑をしていることに気づかれます。京都市下京区西七条の水薬師寺にある碑です。表には「真言宗塩通山水薬師寺」とあり、その裏面に「為恵光院照空妙智大姉」とあります。恵光院照空妙智大姉は、1927年(昭和2)4月9日、つまり亡父の遺言の建碑を行っているさなかに病没した清治郎の妻智恵の戒名です。この碑ははっきりと亡妻のために建碑したことを刻んでいるわけです。しかもこの碑は、「安兵衛遺志」と刻んでいないにもかかわらず、前述の『木の下蔭』の「建碑個所」一覧に「水薬師の碑」として載せられています。亡父の遺言によるこの事業ですが、亡父にとどまらず広く先祖供養を目的としていることが推定できます。

八幡市をふくむ旧綴喜郡に過半数存在するのはなぜか

 2016年2月現在、確認できた「三宅安兵衛遺志」碑は、291基です。全体を400基としますと、73パーセントにあたります。全体の特徴を検討するだけの量を把握していると思います。すでに消失したものでも、写真や拓本などで実態を知れるものがあります。それは含めております。多くの方にご教示をいただきました。この場を借りて改めてお礼を申し上げます。
 なお自身の名前「清治郎」やその雅号である「洛園」を刻んだもの、つまり亡父の遺言によると刻まれていないものは含めておりません。「清治郎」「洛園」と刻まれたものでも本件を考えるうえで切り離せない、意味のあるものもありますが、時期や地域が大きく外れているものもあり、とりあえずここでは外しておきます。さきほどの水薬師寺の碑は含めております。『木の下蔭』の一覧に載っているためです。
 これを地域ごとに分類しますと、現京都市域が90基ともっとも多いのです。これにつぐ、というよりほぼ同数なのが現八幡市域で89基です。以下は京田辺市38、綴喜郡宇治田原町13、木津川市13(旧相楽郡加茂町8、旧同郡山城町5)、久世郡久御山町11、城陽市9、綴喜郡井手町8、同郡精華町7、同郡笠置町4、長岡京市3、宇治市2、乙訓郡大山崎町2、大阪府枚方市の2基です。
 京都市内は、安兵衛・清治郎の居所ですので当然として、八幡の多さが目につきます。全体の31%に及びます。建碑当時、八幡は市制をひいておらず、綴喜郡八幡町でした。現八幡市ではなく、八幡を含む綴喜郡全体に建碑範囲を広げると、宇治田原町や井手町、現京田辺市なども含めることになります。そうすると計148基となり、全体の51%、つまり過半数が綴喜郡に建てられていることがわかります。これはこの事業の実態を考えるうえで無視できないデータです。
 あわせて建碑の数を年代ごとに述べていきますと、大正10年(1921)は2基、大正11年3基、大正12年2基と少数だったのが、大正13年は14基、大正14年は12基と少し量が増えます。それが大正15年(昭和元年)は4基と、またひとケタに戻りました。ここまで建立地はすべて現京都市域でした。
 ところが昭和2年に突然72基に増加します。建立地も京都市には全くなされず、現八幡市68基、京田辺市3基、大阪府枚方市1基です。昭和3年は114基とさらに増加し、昭和4年は半減しましたが58基です。そのあと昭和5年に激減して1基、昭和6年1基、以後は見つかっておりません。のこりの8基は建立年次不明です。これによれば、1927年(昭和2)に分量、及び建立地域にも画期のあったことが想像できます。この時期に京都市域から八幡町を中心とした綴喜郡に建碑の中心が移る、何らかの事情があったと読み取れます。

建碑の協力者、西村芳次郎とは何者か

 岩永蓮代の『文化財保護ありのまま』(1987年)には、八幡市郷土史会による1982年(昭和57)の調査というのが紹介され、同市の三宅清治郎遺志碑は道標約70基、旧蹟碑を含めると120余基が確認されているとあります(227頁)。
 そんなまとまった成果があるならぜひ拝見したいと思いましたが、これはどういう形で存在するのか。報告書の形で刊行されているものなのか。まだ入手ができるものか。
 しばらく放置していましたが、あるとき気になり出しまして、思い立って八幡市郷土史会にお電話をしました。1998年(平成10)8月31日(月)のことでした。当時の会長の前川永一さんが応じて下さり、初めて刊行物だと知りました。それが『やわたの道しるべ』です。しかも残部があると聞きまして、その日のうちに八幡市立松花堂庭園で前川さんと待ち合わせをしまして、入手いたしました。
 お目にかかった前川さんから予期せぬことをうかがいました。それが西村芳次郎の存在です。その名も初めて聞きました。「西村芳次郎が三宅清治郎をスポンサーにして八幡に石碑を建てた」とおっしゃったのです。驚きました。三宅清治郎の建碑に協力者がいたなんて思ってもみませんでしたから。
 『やわたの道しるべ』(1990年再版のもの)の巻末にも同様の記載がありました。八幡市誌編纂委員であった杦浦勝(故人、当時摂南大学講師、国語学)が、「八幡市域の道標について」という一文を寄稿していました。さきほど岩永が記していた、同市の三宅安兵衛遺志による道標は約70基、旧蹟碑を含めると120余基云々という情報はこれによるものでしょう。そこに「当市での協力者(略)西村芳次郎氏(略)の適切な言行が功を奏したといえる」とありました。しかし典拠が記されておらず、これは事実と判断してよいのか、西村芳次郎とはいかなる人物なのか、どのような協力をしたのかなど、知りたいことが山のようにわきましたが、杦浦の一文では何も分かりません。前川さんにも日を改めて尋ねましたら、典拠は示されず、「それは八幡では誰でも知っている伝説です」と答えられました。当時、インターネットのヤフージャパンの検索エンジンはすでに登場しておりましたが、「西村芳次郎」は全くヒットしませんでした。
 なお『やわたの道しるべ』には実に多くの三宅碑が、写真はもちろん、銘文まで丁寧に記してありまして、このおかげで八幡市内の現存する三宅碑の大半は労苦なく知りえました。
 ちなみに八幡市域の三宅碑には、前川さんにお目にかかったこの日に初めて接しました。主に所謂「東高野街道」、この道は古く志水道などと申しました。この呼称の問題については、谷村勉さんが本会会報で論じておられますし、本稿でも後述します。話をもとに戻します。所謂「東高野街道」沿いにある三宅碑が、八幡市域で僕が初めて接したものでした。こんなに至近におびただしく存在するのだと、ほんとうに驚きました。なお男山などを含めてつぎにまとまって観覧したのは、その年末、12月20日(日)で、大阪市立大の仁木宏博士の中世史ゼミの八幡巡検に参加したときでした。このとき主に案内下さったのが、次回に本会で講演される藤本史子さんでした。僕は藤本さんの最新の中世八幡町復元のお話をうかがいつつも、次々と現れる三宅碑に心を奪われておりました。

西村芳次郎と会った人、竹本建造さんとの出会い

 当時、僕に協力下さって各所の三宅碑を独力で見つられたのが、京都市北区にお住いの河村寧子さんでした。洛中洛外、さまざまな場にミニバイクでお仕事に行かれ、そのかたわら毎日のように発見されるのでした。嵯峨野などの三宅碑はほとんど河村さんに所在地を教えてもらいました。
 八幡市域のものは、『やわたの道しるべ』によって僕が先に確認し、河村さんに伝えておりました。ですので、あるとき時間をみつけて、河村さんも三宅碑確認のため八幡市中心部に入ってこられました。1999年10月11日のことです。自転車で多くの三宅碑を散策されながら、たまたま見つけた石屋さんを訪問し、三宅碑のことを訪ねたそうです。するとそのお店の奥様が、「私はきいたことがあるだけだが知っている人がいる。紹介するからすぐ連絡するので、ちょっと待ってて」といわれ、電話で聞いて下さり、そのままその方の家へお連れ下さったそうです。ちなみにその石屋さんとは、西村正男元八幡市長のお宅だったそうです。
 訪問先は、八幡大芝の竹本健造という1924年(大正13)生まれの方で、驚くべきことを語られた。

 その人の家はろうそく屋だったのだが、「井上芳太郎」という人が13才のときに京都の室町に奉公に出た。呉服屋の「西村某」のところで仕事をしたが、その家系が絶えたからか分からないが、その西村の養子になり「西村芳太郎」となった。そのころ三宅安兵衛氏に大変お世話になったそうだ。息子の清治郎氏とも付き合いが当然あっただろう。八幡などの「四里四方」の碑をこの西村芳太郎が石屋につくらせた。八幡、田辺、三山木、井手、宇治田原などだと聞いている。今あなたが座っているところで安兵衛碑はつくられたのです。この家は元々芳太郎さんがいたところで、ここに石屋を呼んで碑文を刻んでいたのです。すっかり家屋が建っているが、掘れば今でもざくざく石の破片が出てくるはずです。(略)わしは西村家とは米を借りたりするくらい隣どうしで仲がよかったので、芳太郎大おじいさんにはよく可愛がられた。

 「西村芳太郎」は、西村芳次郎のことです。全く予期せず三宅碑の濃密な情報を得て、河村さんは驚嘆されました。すぐに僕に連絡を下さり、日程調整をしたうえで、9日後の10月20日、竹本さんのもとに僕を同伴してくれました。
 竹本さんからは実にさまざまなお話をうかがえたのですが、当時の僕は西村芳次郎のことはもちろん、八幡地域のことも何も知りません。戴いた情報を適切に処理するには、その質や量はレベルが高すぎました。僕の力量を超えていました。たとえば竹本さんは「西村芳太郎」と言われるが、先に紹介した前川永一さんや杦浦勝は「芳次郎」とされます。どちらが正しいのですかと問うと、「芳太郎が正しい。直接接した自分が言うのだから間違いない」と言われた。ところが竹本さんから至近の円福寺が西村の菩提寺だと教えてもらえたので、翌日掃苔(墓参)にうかがいましたら、「閑夢塔」という墓標の裏面に、「西村芳次郎」と刻まれていました。「芳次郎」が正しいと判断するほかありません。つまり竹本さんからの聞き取り情報を全く理解不能の状態で、失敬ながら竹本さんのお話を信じてよいかどうか疑わしくなってきたわけです。
ただ西村について、亡くなってまもなくまとめられた追悼集の存在したことを教えていただきました。残念ながら竹本さんのもとにはすでにありませんでした。ふらっとやってきた人にあげてしまった由でした。書名は不明でしたが、これは吉報だと思いました。これさえ読めば西村という人物のおおよそが分かるでしょう。そのうえで改めて聞き取りをさせていただこうと思って竹本さんを辞去いたしました。
 ところがこの追悼集をながく見つけることができませんでした。竹本さんのもとを辞去したその足で、河村さんと八幡市立図書館に行きましたが確認できません。そもそも書名が分からないので、いろいろなキーワードを見込んで探しましたがダメでした。その後、京都府立総合資料館、国会図書館など所蔵していそうな図書館・資料館を悉皆的に調べたつもりですが、それらしいものに全く出会えませんでした。前川永一さんも「見たことがない」というお返事でした。それゆえそのまま竹本さんのもとに再度うかがう機会を逸してしまいました。
 西村芳次郎をあるていど知り得るようになった現在、当時のメモを見なおしますと、かなりレベルの高いお話をしてくださっていることが良く分かります。いま改めてこのメモをもとにお尋ねをしたい思いが強いですが、竹本さんは翌々年(2001年)に亡くなられてしまいました。聞き取りは1回きりで終わってしまいました。自身の非力を嘆いております。なおのちに西村芳次郎宛の書翰などを実見できるようになり、「芳太郎」や「芳三郎」などと書かれたものを複数見ました。当時は固有名詞にこだわりが薄かったのか、もしかしたら「芳太郎」と自称した時期があったのではないかとさえ思っています。竹本さんが非事実を述べられたわけではなかったと確信しております。

三宅清三さんをお訪ねする

 その後も三宅碑調査は継続しまして、2000年(平成12)の年末ぐらいには、200基以上を確認できていました。始めたころはこれを研究対象とするつもりはありませんでしたが、研究者の性と申しますか、おそらくこれだけの量の三宅碑を系統的に調査した人間は稀少だろうと思えまして、論文を書きたくなりました。文献史料は『木の下蔭』のみで、信用できる同時代史料は一切ないという状態でしたが、先にもふれましたような建設年代や地域の偏り、どのようなものが選択されたかなどの特徴を示すだけでも世に問う意義はあるだろうと思えました。
 もう一つは敬愛してやまない山田邦和博士(現同志社女子大学、考古学)の強い後押しでした。当時「三宅安兵衛遺志碑調査表」というものをつくって毎日持ち歩いていたのですが、ある研究会の懇親会でお見せしたところ、山田博士らしからぬ大きな声を出され(「中村さん、すごいじゃないですか!」)、そばにいたある中世史研究者に「これみて下さい、いかにも中村さん(の仕事)らしいじゃないですか」といわれたうえで、「中村さん、これ絶対発表しないといけませんよ」と激賞してくださいました。そこまでおっしゃってくださるならと、図に乗りまして、当時山田博士のお勤めだった花園大学、僕も推薦いただいて非常勤講師だったのですが、その史学科の雑誌『花園史学』に寄稿させていただくことにしました。
 このことをさきほどの河村寧子さんにお伝えしたところ、先に三宅さんへご挨拶にうかがうべきだと勧めてくれました。前述しました三宅清三さんは安兵衛・清治郎のころから変わらず六角通東洞院にお住まいで、清治郎以来の西陣織帯地問屋をしておいででした。これまで全くご挨拶をしたことがありません。たんに石碑調査をしているだけではなく、金地院では同寺住職さんの許可をいただいて安兵衛の掃苔をしたこともあります。他人が自身の先祖の事を挨拶もなく調べているというのは気持ちのよいことではない、むしろ失礼にあたるかもしれないと、恥ずかしながらこの段階で気づきました。
 そこで花園史学会に寄稿する原稿の構想がほぼ出来上がったころ、2001年3月6日でした。三宅清三さんにお便りをお送りいたしました。すると快諾を頂きまして、3月19日に初めて六角のおたくにうかがいました。実はその前日が清治郎の祥月命日で、お便りがとどいたときちょうど祥忌法要を話題にしておられたそうです。それで何かの縁だと思われて快諾して下さったと、あとでうかがいました。
 ご挨拶にうかがうにあたって、特別な欲はもっておりませんでした。たとえば清治郎の日記や手紙などを探そうとは思っていなかった。もし存在するなら、伊東宗裕さんが見逃すわけがありません。伊東さんの『京の石碑ものがたり』にそういった記載はありませんでした。当然ないだろうと思っていた。あわせて聞き取り調査も考えていませんでした。清治郎には実子が無く、清三さんはご養子さん(善三郎)の息子さんと聞いていました。清治郎の死後、すでに60年以上をへています。清治郎を深くご存じとは思えなかったのです。
だから清治郎のことを知りたいという思いではなく、世間話ていどの雑談のつもりで、いくつか三宅碑を見て気づいたことなどを話題にしました。ところが、自身の判断が浅はかだったとすぐに気づかされました。たとえば三宅碑には松尾芭蕉や与謝蕪村などに関するものがいくつか存在します。「清治郎さんは俳句にご関心がおありのように感じます。俳句をされていたということはありませんか」と申しますと、「ああ、鈴鹿野風呂氏のグループ(に所属していた)と聞いています」と即答されました。鈴鹿野風呂は大正・昭和の京都を代表する俳人です。清三さんは清治郎の嗜好や生活をご存じなのです。のちに野風呂の日記が刊行されていることを知りまして、丹念に見ていますと、1936年(昭和11)3月24日条に「洛園」が初めて来たという記載を見つけました(『俳諧日誌』巻1)。

 ほかにはさきほどの水薬師寺の碑です。裏面の「恵光院照空妙智大姉」を当時の僕は何者か分かっておりません。そこで尋ねましたら、清治郎の先妻の戒名ですとやはり即答され、でも清三さんはその碑を見ておられないので、「そんなものが建っていますか」と逆に興味を示してくださいました。
 もしかして何でもご存じなのではないかと感じだして、まさかと思い西村芳次郎を話題にしました。いまだ竹本さんから示された西村の追悼集は未確認でした。西村のことは何も分かっていなかった。そこで前述の『やわたの道しるべ』に西村が建碑の協力者だと記されているが、何かご存じないでしょうかと尋ねたのでした。すると遠い目をなさいました。何かを思い出そうとしておられる感じでした。さすがにこれは無理かなと思いました。「その人のことは記憶にない」というお返事だと思っておりましたら、発せられた言葉が「小学生のときに祖父に連れられて行ったことがある。持っていった弁当を庭で食べた。一度きりだったが」というようなものだったのです。驚嘆しました。清治郎は西村邸に行ったことがあったのだ。初めて前川さんのお話と『やわたの道しるべ』以外で清治郎と西村の接点を見出したのです。西村が建碑を援助したというのは事実かもしれない。いえ、それ以前に清三さんは本当に清治郎のことは何でも知っていると気づきました。あとから知ったのですが、養子とはいえ清三さんの父善三郎は清治郎の姉の子、つまり甥だったのです。清三さんも生まれてからずっと嫡孫として遇され、清治郎が亡くなったのも高校生のときですので、種々ご存じで当然でした。

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by y-rekitan | 2016-02-28 05:00 | Comments(0)
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