◆会報第71号より-08-2 三宅碑②


 《続》・・・『三宅安兵衛遺志』碑と八幡の歴史創出 その2


予期せぬ出現、三宅清治郎日記

 これは清三さんから清治郎の聞き取りをすべきだ。文献史料がない現状で、石碑確認では足りないことを聞き取りで解明できることはあるはずだと思いました。ですが、もう当日はそれなりの時間が過ぎていました。また改めてさせてくださいと次回のお願いをして辞去しようとしたときに、思わず出た言葉がありました。
「清治郎さんの書かれたものってありませんでしょうか」。
すると予期せず、「日誌があったな」と言われたのです。「洛園日誌」と書いてあるもので、馬代町にあるから今度もってきておくといわれました。馬代町というのは洛西花園(現京都市右京区)の地名で、清治郎の別荘「洛園荘」のことです。その後解体されましたが、このときは建物が維持されていました。
 「日誌」とはいかなるものであろうか、辞去してからもずっと気にしつづけました。学級日誌のようなものであろうか、何でもいいです、とにかく初めての当事者が記したであろう文献史料の登場です。一行でも建碑について記載があればうれしいが、と思いました。ご連絡を一日千秋の思いで待ちました。お返事を頂いたのは数日後でした。お電話でした。「何で(どういう手段でやって)来られるか」と問われましたので、車でうかがうことをお伝えすると、「それならいい、持てないからな」とおっしゃいました。これで分かったことは、持てないほどの規模であること、お貸しいただけるということでした。

f0300125_14503399.jpg つよい期待をもって、3月24日に伺ってみれば、大きな箱に入った、亡くなる直前まで記された50年にわたる、50余冊の日記でした。室内に通されますと、嗣子裕志さんと日記をご覧になっておられ、私も初めて読んだ、自分が生まれた日をみたら、記されていましたよと微笑まれました。「あなたが望んでおられる内容が載っているか分かりませんが、お役に立つならお持ち下さい」といわれました。一日ごとの記載は実に克明でしたので、載っていないわけがないと直感しました。
 帰宅するなり、建碑期間である1920年代のものをアトランダムに取り出し、開いてみると、予想通りすぐ見つかりました。いえ建碑の記事だらけだったといってもよいでしょう。そのなかに、西村芳次郎の名も多数見いだせたのです。
 たとえば、1927年(昭和2)3月12日条に、
(略)城南八幡志水の西村芳次郎氏来宅。石匠中村善市同道。同地附近、曩ニ廿ヶ処の建石を為せしが、更ニ四十余ヶ所の建石を申来らる(略)
とありました。八幡付近にすでに20基の建碑をしたが、さらに40余基の追加を希望したというのです。石屋の記載まであります。これによって、西村芳次郎が三宅碑建立の協力者であることは実証されました。1927年から29年にかけて、建碑の量、とりわけ綴喜郡に増大する理由も理解できます。西村の参加が大きな原因だといえましょう。
 のちに入手するのですが、『大阪毎日新聞』の1928年8月28日付に「山また山」という連載があり、そこに三宅碑が取り上げられていました。
路傍に建つ立派な遺言の道しるべ
京は三宅氏の社会奉仕 洞ヶ峠-嶽坊

(前略)その考へに一番が共鳴した八幡の西村芳次郎さんは自分のことのやうに奔走し石柱の文字は史跡の方は京大の西田博士、古墳の方は濱田博士とそれぞれの権威者に揮毫を乞ひ、すでに八幡附近の百二十六本を初めとしその他、淀御牧附近に三十本を立て、次は笠置あたりまで手を伸ばさうとし京都市の附近は清次郎さんに歩き廻つてすでに百余本を建てた(中略)清次郎さんはいふ「古跡の在所を知らせて貰ひさへすれば何時でも出かけて石柱を立てます」と。
 これによれば、西村は八幡付近に126本、淀や御牧(現久御山町)付近に30本の建碑をなし、今後は笠置あたりにも建碑予定である。すでに京都市付近にも清治郎とともに100余を建てたとあります。一般に新聞記事は誤りが少なくなく、裏付けをとらず鵜呑みにするのは危険です。たとえば建碑期間にあたる1921年以後で、三宅清治郎の日記(以下「日記」と略します)に西村が初めて登場するのは、1926年(大正15)8月2日条です。それ以前の建碑記事に全く西村は現れません。京都市付近の100余基にも関わったというのは誤りだろうと思います。とはいえ、新聞記事と同じ日の「日記」にも掲載のことは書かれており、特に誤りを指摘したような記載はありませんので、あるていどは事実を伝えているものと思います。西村が三宅碑最大の協力者であるというのは間違いないと思います。

京都帝国大学の教員たちの関与-濱田耕作(青陵)、西田直二郎

 石碑の揮毫を京都帝国大学の濱田耕作(青陵)や西田直二郎が行っているのは、石碑銘や『木の下蔭』の記載により分かっておりました。両人は考古学や歴史学の教員であると同時に、当時の京都府史蹟勝地調査会の評議員及び調査委員でもありました。つまり京都府の史蹟調査・顕彰の最前線にいた人たちです。
石碑が建つことにより、その地は由緒のある場所だと感じられてきます。そこがガソリンスタンドやマンションであったとしても、戦死者がころがっていなくても、たとえば「関ヶ原古戦場」というような碑が建っていると、過去がイメージされ、大事な土地のように思えてきます。不思議な装置です。
 そういう装置が古墳の前に建つと、それまではただの土の塊としか思えなかったのに貴重なもののように感じられてきます。開発計画がおき、これを壊そうというとき、すえられた石碑により意識のある人は壊すことにためらいをもつことがあります。その結果、残された事例もあったはずです。石碑は広い意味で文化財保護の役割を果たしたといえます。
八幡を含む旧綴喜郡にはいまも多くの古墳が存在します。それらの多くに三宅碑が建てられています。あるいは三宅碑によって守られたといえるかもしれません。それらは現在でも有名なものばかりではありません。当時ならもっと知られたものではなかったでしょう。そんな無名古墳や遺跡をどうして一民間人の建碑事業で選ぶことができたのでしょうか。
そこで西田直二郎や濱田青陵です。もし彼らが単に揮毫しただけではなく、石碑の建設地決定にあたって一定の助言があったとすれば、当事業は在野の非研究者の行為でありながら、当時の学術成果の影響(学問的裏づけ)を指摘できることになります。それだけに彼らの存在は三宅碑にとって重要だといえます。
 当然、濱田や西田は三宅清治郎の交友関係者だと思っていました。ところがそうではなく、この新聞記事は西村との縁だと述べるわけです。このように見てきますと、西村芳次郎が何者であるか、これを明らかにしなければ三宅碑事業を理解したことにならないと気づいたのです。

西村芳次郎の孫、安子さんを訪問―解明はじまる

 同年9月10日(月)、前述の初の三宅碑論文の原稿を花園史学会に提出しました。「京都三宅安兵衛・清治郎父子建立碑とその分布」というタイトルです。「日記」の出現により三宅碑に関する情報は充実してまいりましたが、これを活かすにはまだ時間がかかりそうでしたので、その報告は先送りにすることにし、本論文では「日記」の内容に立ち入ることは避けました。発見を述べただけにとどめました。なにより西村芳次郎の情報が皆無だったからです。
 西村の孫にあたる安子さんが八幡市月夜田の宝青庵(紅葉寺)にお住まいであることは承知していましたが、おうかがいすることにためらいがありました。一つにはこちらの調査がもっと進んでからにしたいという思いです。せめて西村の追悼集を確認したのちにしたかった。竹本建造さんの聞き取りのような失敗を避けたかったというのがあります。もう一つは、当時僕が信用していたある方から「宝青庵には何もない」と聞かされていたということもありました。「何もない」の「何」はいったい何を指しているのか、深く考えてみるべきだったのですが、当時の僕には力及びませんでした。
 この時期にインターネットで検索しましたら、唯一「西村芳次郎」でヒットするものがありました。それが大阪市にある大阪毎日新聞の販売店「株式会社大毎上町販売店」の社長(初代)の名前でした。八幡の人物が大阪市内で新聞販売をしているとはどういうことか、疑問はあるのですが、とはいえ同姓同名で漢字も同じですし、活動期間も同時期のようでしたので、同年9月20日(木)、わらをもつかむ思いで同店に電話をしてみました。当時の社長(6代目)の廣岡一雄さんが対応くださり、丁寧にご教示を頂いたうえ、ありがたいことに『大毎上町八〇年のあゆみ』という記念誌まで送ってくださいました。「ご参考になるかどうか判りませんが先生の研究の一助になれば幸甚です。ご笑納下さい」という一文が入っていました。この場を借りまして当時のお礼を申し上げさせてください。結局、別人と分かるのですが、実は生没年も同一だったとのちに知りました。いまでも不思議な出会いだったと思います。
 廣岡さんと電話でお話をさせていただき、正直じれったくなってきました。大阪市内で新聞販売に関わっていたかどうかぐらいはお孫さんならご存じではないか。こんな根本的なところで悩んでいる方が無駄だという気持ちになれたと思います。「何」もなくてもよいので、とにかくご挨拶にあがろう、そんな気持ちでその日のうちに西村安子さんにお電話を差し上げました。ぶしつけだったと思いますが、安子さんはご理解を下さり、訪問をお許し下さいました。翌々日の9月22日(土)、初めて宝青庵をお訪ねしたのです。うかがってびっくりでした。当然ですが、安子さんは何でもご存じでした。「何もない」どころではありません。情報の宝庫でした。「おばあさんが生きておればもっといろいろお話しできたのに」、おばあさんとは芳次郎の娘静子さん、安子さんのお母さんです。そんなことを何度かおっしゃって下さいましたが、いえいえ、安子さんの記憶しておられることも貴重なことだらけでした。そうです。探しに探していた追悼録も所蔵しておられました。全く愚かなことで、なぜ最初にこちらにうかがわなかったのだろうか、己の不明を恥じました。
(次会報につづく) 空白


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by y-rekitan | 2016-02-28 04:00 | Comments(0)
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