中世都市 八幡 2016年2月 松花堂美術館講習室にて 藤本 史子 (武庫川女子大学非常勤講師) 2月14日(日)午後1時半より松花堂美術館講習室にて2月例会が表題のテーマで開かれました。講師である藤本史子(あやこ)さんは、歴史考古学が専攻で、現在は武庫川女子大学の非常勤講師を務めておられます。大坂城三の丸跡遺跡や兵庫県伊丹市の有岡城跡・伊丹郷町遺跡の発掘調査、淀川河床遺跡の整理作業に従事した関係で、とくに中世の都市と流通に関心をお持ちとのことです。 以下に講演の概要をまとめます。なお文章中のルビは編集者が付しました。参加者58名。 中世都市としての八幡を「八幡境内町」という名称でとらえたいと思います。八幡境内町とは、山上の社殿・各坊院や山下・宿院といった鳥居内の狭義の境内、あるいは鳥居前に発展した町場を指す門前町といった狭い範囲の都市的な場を示すのではなく、石清水八幡宮の成立、発展とともに形成された石清水八幡宮本殿を中心とする山上、山下・宿院そして「八幡八郷」とよばれた内四郷(科手・常盤・山路・金振)と外四郷(美豆・際目・生津・川口)を含む「場(空間)」全体を指す用語として使用します。なお、鍛代敏雄氏は石清水八幡宮寺と境内郷町をとらえる概念として「境内都市 八幡」という名称を提唱しています。 石清水八幡宮は京都府八幡市の男山(標高142.5m)山頂から南側尾根筋そして東側山裾にかけて境内域が広がっています。交通路として、水路では木津川・桂川・宇治川三川が合流し、対岸の大山崎との間を淀川が流れ、陸路では東側山裾を東高野街道が南北に走り、途中で奈良方面へ向かう奈良街道と分岐しています。このように石清水八幡宮は水陸交通の要衝に位置し、男山山麓の西側は山城と河内の国境、対岸の大山崎は山城と摂津の国境に位置する重要な地理的環境にあるといえます。(第1図) ![]() 平安時代後半には荘園などで構成された所領も増え、軍神としての性格から武士の勢力が増すにともない代々の武家の棟梁に優遇され、守護・地頭として全国に配された武士が八幡宮を勧請したこともあり全国に八幡宮が造営されました。 (1)中世の八幡を復原するための基礎資料 主な資料として、以下の文献や絵図があります。 A、地誌 「男山考古録」 嘉永元(1848)年 石清水八幡宮宮大工職 藤原尚次 B、記録 「石清水尋源鈔附録」下 享保10(1725)年 神宝預禰宜 藤原(谷村)光信 C、売券 (表1) ![]() 「男山八幡宮境内古図」(原本行方不明)…元禄11年の記載があるが絵図の制作年とは言えない。 「八幡山上山下惣絵図」(内閣文庫、幕府旧蔵資料)…山上の本殿周辺、山下に至る坊舎、宿院および境内全域、外四郷と各村の概略的な景観まで描き、境内町域の描写がもっとも詳細なもので八幡市立図書館に複製図展示してあるので常時見ることができる。 また、字限図(実地丈量一筆限下調帳、明治十一年市街成一筆限反別・収穫・地価調帳 明治四年新調土地図面綴)や地籍図(公図)も中世の八幡を復元する上で重要なものである。(地籍図による空間復原は第2図) ![]()
E、考古学の成果 中世の八幡境内町を復原するにあたり、次の四つの遺跡についてまとめてみます。 木津川河床遺跡(内四郷・外四郷)
清水井遺跡(内四郷-金振郷) 新善法寺家屋敷跡北側にあたるこの地点では、中世から近世の遺物出土が出土していることから、この地点の成立年代を推察。 女郎花遺跡 平安時代末から鎌倉時代(12~13世紀)にかけて谷(自然河川)を埋めて溝を造成(東高野街道の側溝)。このことから、遺跡周辺がこの頃に整備された可能性。正法寺〔建久2(1191)年成立〕の建立との関係が推察される。 木津川河床採集資料 平安時代末から鎌倉時代の土器・陶磁器が多く、大量の白磁・青磁などの貿易陶磁器、遠隔地の土器が含まれるなど周辺の集落遺跡とは異なった様相を示す。これらの状況は、八幡が流通拠点であったことを示している。 (2)空間復原をするための基礎資料比較検討の結果 以上、中世の八幡を復原するための基礎資料を比較検討した結果、次のことがいえます。
中世における八幡の都市構造を考えたとき、山上、山下、内四郷、外四郷の同心円的広がりととらえることができます。それぞれの在り様についてみましょう。別掲、第2図「八幡境内町地籍復原図」を参照ください。 山 上 三の鳥居から八幡宮本殿までの一帯と各坊舎を含む二の鳥居より上の男山の範囲 山 下
内 四 郷(常盤郷・科手郷・山路郷・金振郷) 内四郷(うちしかごう)の名称の初出は、正安3(1301)年の「菩薩戒会頭事」である。 西端は科手郷、北端は常盤郷、東端は山路郷、南端は金振郷 郷に属する町名は『石清水尋源鈔附録』(江戸時代中期)によるが、中世史料にみえる町名も多い(表2 中世史料にみえる内四郷の町名 参照)。 ![]() 四至は次の通り。東;柴座町内東端、西;放生川、南;安居橋から南へ延びる柴座町筋、北;大門
(2)科手郷(橋本・大谷・科手・高坊) 四至は、東;放生川、西;橋本、南;男山山麓、北;淀川の南岸
(3)山路郷(山路・東山路・奥・檀所・森・柴座) 四至は、東;森町東端薬園寺、西;放生川、南;飼屋橋(カイヤ橋)北詰、北;安居橋 より東の東西街路(柴座町)。
(4)金振郷(園・平谷・今田・馬場・茶畠・神原・志水・平田) 四至は、東;園町東端、西;男山山麓、南;志水町南端、北;平谷北端
外 四 郷(美豆・際目・生津・川口)
石清水八幡宮本殿を中核とし、山中に各坊院が点在する山上、その外側の男山の麓には頓宮・極楽寺を中心とする宿院(山下)がありました。それらは「聖域」と呼べるもので、その外側に境内町域(内四郷)が広がり、境内町域の周縁部にはキヨメや行刑に従事する隷属の居住空間を含んでいます。そして、さらにその外側には境内村落(外四郷)が広がるという構造を示しています。
中世都市八幡は、12世紀中葉から後半を画期として都市として発展したと考えられます。この時期、第29代別当慶清法印が金振郷園町から常盤郷田中町に移転し、第32代別当祐清が初めて大善法寺と称し馬場町に社家屋敷を構えたことにより(未詳)、内四郷の都市の骨格が整ったと推測されます。これは、山路郷内にあたる木津川河床遺跡第19次調査の12世紀中頃に出土遺物が増加し、木津川河床遺跡採集資料も12世紀から13世紀の貿易陶磁器や東海系の土器・陶器、防長系・吉備系土器が含まれ流通拠点としての様相が色濃くみられるという考古学の成果とも合致します。 さらに、山上部における考古学の調査成果から12世紀前半には本殿、護国寺、宝塔院など主要堂塔がほぼ完成していたことが明らかになっており、山上部と境内町の都市プランが連動して進められていたことがうかがえます。 12世紀前半以前は森の集落が「森(杜)郷」と呼ばれていたように個別集落が分散していた時期、12世紀中葉以降山上部・境内町域が連動し八幡宮主導で都市化していった時期、そして15世紀以降は境内四郷の住民が地縁共同体として住民結合を強め八幡宮に対抗してゆく時期であり、16世紀後半から17世紀初頭にかけて豊臣秀吉、徳川家康という統一政権による八幡宮領の召し上げ、安居神事への関与、神人身分の規定により八幡宮と住民との中世的な支配関係が解体され、中世の八幡は終焉を迎えたと考えられます。
by y-rekitan
| 2016-02-28 11:00
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