~歴史遺産を探り繋げる~ 髙井 輝雄 (会員) 最近、文化庁から日本遺産に認定された「流れ橋と浜茶」の里・上津屋、私のふるさとである。川畔に新緑がまぶしく一帯に芳しい茶の香りが漂うこの季節のふるさとは、特に大好きである。 その名産・お茶の茶摘みシーズン最中に、昔、八幡の美濃山地域に伝わっていた『茶揉み歌』を復活することができた。 私は、茶農家に生まれ育ったこともあって、年寄ってから八幡のお茶はいつ頃から何処で始ったのかなど、調べていた。そんな中、機械で製造する前の時代に手で茶葉を揉み煎茶を造っていた時に焙炉師(ほいろし)が唄う『茶揉み歌』があったことを知った。 今の八幡の➀美濃山②上津屋・上奈良③志水の3地域に、各々江戸末期にその栽培が伝わっている。うち美濃山地域では『茶揉み歌』が唄われていたと5,6年前に判ってきた。 以来、どんな歌だったのか、唄っていた人はもういないのかと、探し続けていた。半ば諦めていたが、今年の3月27日、流れ橋改修開通記念式の渡り初めの日、先頭を行く美濃山の西川さん3代夫婦を見て「はっ」と感じた。 お爺さんの西川吉三さん(昭和2年生まれ)は知っておられるのでは…。翌日、自宅に訪ね用件を話し、聞いてみた。「そう言うと唄っていたなぁ」と西川さん。なんとか想い出してほしいとお願いし、その日は辞した。 翌日早速、西川さんから「ちょっとでてきた」と電話があった。想い出そうと翌朝の4時まで寝れなかったと仰られた。そして、4番ほど判ったとのこと、西川さんが身に着けられた記憶力は凄いと感心した。同時に、西川さんに出会うことが叶い「これで繋げる」と熱いものがこみ上げるのを覚えた。 合せて4度訪問する中で11番と少々エロチックな歌5番が甦ったのである。 半分目的を達したようなもの。しかし、これを実際に唄ってもらい歌詞と共に節回しや身振りも残しておかなければならない。 今や八幡のお茶は、上津屋・岩田の木津川河川敷内と堤下のみで栽培されている。 ![]() 去る5月16日、毎年恒例である市長による市内の「製茶施設視察及び激励」に合わせて行った『茶揉み歌』復活披露の日は感動の一日となった。 ~お茶や揉め揉め 揉まなきゃ茶ならぬ西川さん自身にとっては約60年ぶりの手揉みと茶揉み歌が始った。テレビ、新聞各社のカメラの放列の中、昔の手揉みの感触を思い出しながら、歌も滑らかに堂々と唄われ始めた。そして、二番から順番に茶揉み歌が新茶の香りの中で進んだ。 ~しなもみさんは お手手が痛い手で揉む茶の製法は、早くて約5時間はかかる。その工程の中で、最もしんどい「横まくり」に入り、この一番師(「しなもみさん」)の労働のきつさを紛らわす歌へと進む。西川さんの揉み手にも一段と力がこもってきた。昔にかえっているようだ。 ~明日はお立ちか お名残り惜しや歌の終盤、出稼ぎの焙炉師が役目を終えて村を去る時の名残り惜しさを唄われるくだり。その節回しは実に絶妙で、調子に乗って左右に大きな身振り、その迫力にシャッターの音が一段と高くなった。 88歳の西川さん、市内で手揉み歌を伝承できる唯ひとりの人、心揺さぶられ感動した。 『茶揉み歌』復活披露で、役目が終わったわけではない。その歌詞と節回し、手揉みの技法を合せ伝承しなければならない。しっかり歌詞も整理し、西川さんから手揉み技法と節回しを引き継ぐ必要がある。 お茶の施設視察激励に訪問された堀口市長にも、CD・DVD保存化し伝承することについて、支援要請をしておいた。もっとも、茶業関係者や茶揉み歌に関心ある人々に、実際の手揉み茶を引継いでほしいと願っている。 この種の唄には「地域自慢、お国自慢」の歌詞が何処ともにある。西川さん・手揉み工房を提供して貰った福翠園の福井さんと相談して、地域自慢の歌詞を足してみた。もちろん、平成に作った旨を後世に断ってである。 ~焙炉師さんは 鼻高々じゃ このたび茶揉み歌を復活するのに節回し、手揉み技法を披露された西川さん、茶揉み工房(焙炉)を提供していただいた福井さんは、共に米寿の88歳です。お2人ともお茶好きで、実にお元気である。八幡の茶の歴史文化遺産を次代に繋げることにご貢献くださり、この稿をお借りしお礼申します。祈長寿
by y-rekitan
| 2016-05-30 08:00
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