石清水八幡宮の別宮の成立と機能 鍛代 敏雄 (石清水八幡宮研究所主任研究員 東北福祉大学教育学部教授) 2016年8月27日、八幡市文化センターにて標記の講演と交流の集いが行われました。講師である鍛代敏雄氏は、毎年この時期に所用で石清水八幡宮に来られます。その機会を利用して今回も集いが実現できました。参加者43名。以下、講演の概要を紹介します。 別宮(べつぐう)とは何か。『国史大辞典』では次のように説明されている。「神社の本宮と関係のある神社をいう。特に伊勢・石清水両宮の例が知られており、本末関係で結ばれた神社の称号の一つ。(中略)石清水八幡宮の場合は伊勢の例とは異なり、宮寺領の拡大に伴って荘園内に設けられた鎮守神をいう。なかでも大分(だいぶ)宮をはじめとする九州五所別宮は重視され、ほかに宮寺領の別宮は保元3年(1158)には18ヵ国35ヵ所を数えた。」(岡田荘司) 私の中世前期までの調査では、長暦2年(1038)の紀伊・伊部の隅田(すだ)別宮に始まり、観応2年(1351)の加賀・能美の多田八幡別宮までの計74カ所ある。その多くは平安後期から鎌倉時代で、石清水がもっとも力を持っていた時代である。その時代、石清水の別宮は全国に存在した。北は佐渡、東は上総・上野など関東にもあったが、但馬・丹後・出雲・伯耆・備前・豊後・肥前・筑前など西国が圧倒的に多かった。 別宮は、本社に対する末社という性格のものではない。つまり、末社が本社の祭神を勧請して成立するだけのものではないということである。別宮は末社と何が違うのか。別宮では、石清水の力が直接及び、人事権を石清水が掌握するのである。荘園の現地管理者は、現地の有力者が担うのが一般的であったが、石清水の別宮では、石清水から直接派遣された人物が支配・管理したり、八幡宮の側が地元の人物を任命(「補任(ぶにん)」)したりするのである。 石清水八幡宮は、多い時で全国に400ヵ所程度の荘園があった。荘園領主としての土地以外にも、例えば地頭職(じとうしき)が寄進される場合もあった(1338年、足利尊氏が丹後国佐野別宮地頭職を石清水八幡宮に寄進)。先ほど紹介した石清水の別宮74ヵ所の内、55件は地名が確認されず、別宮が荘園と同じような形態であったと想像できる。 元暦2年(1185)の源頼朝下文(くだしぶみ)では、荘園および別宮を「庄々」と呼んでいる。荘園として認識され、頼朝が地頭御家人に対し、兵粮などの名目で年貢を強奪するなど乱暴・狼藉を働かないように命じたものだ。 荘園ができて別宮ができるのが一般的であるが、別宮ができて荘園ができる場合もあった。いずれにしても、荘園のみあって別宮が無いケース、別宮があって荘園が無いケース、荘園も別宮もあるケースと三つに類型化できる。 但し、史料を見てみると「別宮(べつぐう)」のことを「別院(べついん)」と表記する場合があった(1158年の史料)。天台・真言二宗や浄土真宗に見られるように、本寺と別院の関係は、本寺が別院の人事権を掌握することにより成立する。そのことからも、石清水本宮と別宮の関係は、本寺と別院の関係のように見なされていたのである。事実、石清水は、石清水八幡宮としてではなく、「石清水八幡宮寺」と呼ばれていた。9世紀に創建された石清水八幡宮であるが、10世紀はじめにできた「延喜式内社」に石清水は含まれていない。神社として認定されず、朝廷からは「宮寺(ぐうじ)」として評価されていたのである。 次に、石清水八幡宮寺の荘園と別宮がどのように成立したのか以下の項目で見てみよう。
(1)史料上の初見 「別宮」が史料の上で初めて見られるのが長暦2年(1038)紀伊国隅田別宮である。石清水八幡宮少別当が隅田別宮に宛てた下文(くだしぶみ)で、忠延という在地の人物を俗別当職に任用しないことを述べたもので、神主職の人事権を石清水側が掌握していることを示したものである。 (2)中世前期の所見 石清水の別宮の存在が確認される時期を類別すると以下のようになる。 保元3年(1158)12月3日以前に成立した別宮が40件あり、後白河院と結んだ石清水の別宮が全国的に成立したことがうかがえる。また、別宮の成立は14世紀までが主で、南北朝の動乱を機に別宮も荘園と同じように在地の有力者(武士)に浸食されていくことが見て取れる。 (3)地域別の分布 ア、五畿内(4) イ、東海道(5) ウ、東山道(2) エ、北陸道(2) オ、山陰道(30)カ、山陽道(12) キ、南海道(10) ク、西海道(9) 計74ヵ所。 北限は佐渡、東限は相模・下総・上野の関東、南西限は薩摩である。これは、竹内理三氏が『国史大辞典』に掲載している石清水八幡宮社領(荘園)より広範囲にわたっていることを示している。 (1)特権と権益:土地と人、神人 ①不輸租田 石清水の別宮領は不輸租田である。貢租を国家および地方に納めなくてもよいというもので、「勅免官省符の地」と「国司奉免」という言葉が史料に残っている。国や地方に納めないということは当然、別宮の領主=石清水に年貢が入ることを意味する。 ②「一国平均役」の免除 建久8年(1197)正月に八幡宮公文所から隅田庄への下文(くだしぶみ)に、当宮(石清水八幡宮)御領では、「兵士役大番」(兵粮・造作の労役)、「造東大寺夫役」などの一国平均役(国ごとの労役)は、「先例」「傍例」により「不可勤仕」=免除を命じているのである。 ③「但馬国大田文」(1285年))に見る別宮の人的様相 但馬国大田文(おおたぶみ)は、荘園・公領の田数、領有関係、地頭補任の状況を記録したものである。石清水別宮も等しく田数が記録されている。その記録によれば但馬国内の別宮は、「八幡領」「八幡宮領」として全10ヵ所が記録されていて、内「下司(げし)」「御家人」の名が記録されるのが4件、「地頭」の名が記録されるのが3件である。在地の領有関係のなかで、下司・御家人・地頭などが、どのように役職を担ったのか興味がもたれるところである。 (2)本宮・石清水の「雑役」(社役・神役) ①誉田宗廟別宮の場合 保延3年(1137)の光清起請文案によれば、誉田別宮に対し、他の別宮に准じ、本宮の「雑役」を勤める必要はないと書かれている。この雑役とは、主に祭祀料と造営料の負担だった。 ②安居頭役の事例 上野国板鼻(いたはな)別宮の預所(あずかりどころ)である安達景盛(あだちかげもり)に安居頭役を命じている文書がある。元久元年(1204)のもので、安達景盛は鎌倉幕府の有力な御家人である。また、翌元久2年(1205)に、上総国市原別宮の預所である中原親能に安居頭役を命じたものがあるが、「称無先例、令対捍給云々」とある。先例が無いと称して、履行を拒否したのである。文永元年(1264)、相模国古(旧)国府別宮の預所、三浦頼盛も同じく「対捍去年安居頭役」の文字が見え、必ずしも石清水側の安居頭役の経済的負担の要請に応じたわけではなかった。 他に、八幡宮領出雲国赤穴別宮(あか(あなべつぐう)の下司(げし)を担う人物に「宝樹」の頭役を命じている文書が見られる。寿永(じゅえい)元年(1182)と建久(けんきゅう)6年(1196)、寛元4年(1246)、文永4年(1267)の史料である。「宝樹」とは、石清水八幡宮の南楼門の前に松の大木を荘厳した「宝樹」6本を立てるというもので、まさに安居会の神事を指す。そのための経済的な負担を出雲の赤穴別宮の下司に命じているのである。赤穴別宮の下司として「紀宗實」の名がみえるが、石清水の祠官や俗別当の姓を借用する在地の有力者であろう。 ③播磨国松原別宮(善法寺坊領)の場合 文永3年(1266)検校宮清(ぐうせい)が、松原別宮の預所宛に下文を発給している。預所が寺内住僧・神人らへの狼藉を停止させるというものである。どういうことかというと、松原宮の預所が別宮の内部に検断権を振りかざし警察のような行為をなし、また別宮内に税をかける等の違乱を働いたというものである。このように、鎌倉時代の後期にもなると石清水による荘園・別宮の支配・統制に陰りが見え始めるのである。在地の武士から云えば、独自の力を蓄積し、荘園=別宮の領主による人事権から離れ独自の権力基盤を作り始めるのである。 (3)本宮・別宮の人事 九州には宇佐八幡宮が存在するにも関わらず、戦国期まで石清水八幡宮の勢力が大きかった。その理由を考えてみたい。 端緒は、宇佐出身の元命(げんみょう)が11世紀に石清水の別当になったことにある。藤原道長がバックアップしたからで、道長が元命を宇佐から呼んで石清水の別当に就任させたのである。その中で、行教以来の紀氏(きし)は抑圧された。だが、藤原の世が終わり、白河上皇、後白河上皇などの院政が始まるにつれ紀氏が復活。元命がそれまで持っていた権限を奪い返し、宇佐に限らず九州全体の八幡宮の権限を石清水のもとに取り込んでいくことになる。筥崎八幡宮も、戦国期まで石清水が支配するのはそんな事情を反映しているのである。
by y-rekitan
| 2016-09-20 11:00
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