どこで造られたのか 野間口 秀國 (会員) この章では「どこ / Where 」で造られたのか、について考えてみたいと思います。今日、頓宮近くで見ることのできる石清水八幡宮五輪塔は国内でも屈指の大きさを誇り、その重さも相当のものであろうことは容易に推測できます。では、この五輪塔が他の場所で造られてここまで運ばれたのか、それとも石材のみが運ばれてこの地で造られたのか、との素朴な疑問にも正しい答えを見出すことは容易では無いようです。 「どこ」に関する疑問は、まず五輪塔の材料となる石がいったいどこで採れたのかを知ることが大切であると思うのです。2014年秋、高槻市立今城塚古代歴史館で開催された『古墳時代の舟と水』と冠する展示会にて展示された石棺の説明文の一部に、「・・今城塚古墳では、はるか九州から運ばれた石棺が見つかり・・」と書かれていました。また、市内の男山笹谷で発掘された茶臼山古墳から見つかった石棺は、現在の熊本県の宇土半島から運ばれた阿蘇石(阿蘇溶結凝灰岩)が使われていることも分かっております(*1)。これら淀川両岸の古墳で発掘された石棺が、石材として積み出されたのか、はたまた半製品もしくは完成品で運ばれたのか興味は尽きませんが、石棺の石材は石清水八幡宮五輪塔のそれとは明らかに違うようです。 ならば、石清水八幡宮五輪塔の石材はどこで産出されたのでしょうか。そのことを考えるには古墳時代にまで遡る必要は無さそうです。が、調べを進めるため参考にすべき事例の一つは、時代を下った大阪城築城の頃かと考えました。大阪城を訪れると、桜門の蛸石や京橋門の肥後石などと呼ばれる、優に畳の広さを超す巨大な石が目に飛び込んできます。築城に使われたこれらの巨大な石は瀬戸内海の島々で切り出された後、石船や筏に積まれ、また二隻の船に吊るされるようにして大阪まで海上を運ばれたとの記録があります(*2)。切り出されたのは瀬戸内海の小豆島や犬島を初め、六甲山系や生駒山系の石切り場など複数の候補地が考えられますが、いずれの地にしても水運を除いた運搬手段は皆無とは言えないまでも極めて困難であると言わざるを得ません。また、石清水八幡宮五輪塔が造立されたであろう時代に、陸上運搬にて現在五輪塔の建つ位置まで運べるような近隣地に塔造りに適した石材供給地も限られていたのではないでしょうか。 水運での運搬を前提に考えるならば、それは必ずしも海を隔てた遠隔地とは限らず、石材(半完成品や完成品含む)の運搬が出来るほどの大きな川でも可能であったと思われます。そうであれば、今日八幡市を流れる宇治川や桂川、更に木津川の流域にあった石材供給地はその候補に挙げられます。本章では木津川流域について更に考えを進めてみたいと思います。木津川市内で木津川右岸を東西に走る国道163号線を左折し「ふるさとミュージアム山城」(*3)への誘導路の左側に設置された残石を見ることができます。以下は現地の説明板にある全文です。 注:大坂城(城の名称)と大阪(地名)の表記は異なります。 この夏のある日、改めて前述の「大坂城の残石」を訪れて写真に収めました。更に車を東へと進め、かつての伊賀の国、現在の三重県伊賀市島ヶ原の地を訪れました。この島ヶ原の地名については、会報第53号(2014.8.25刊)にて『大乗院の五輪塔と石工集団』の記事を寄せられた歴探仲間の先輩、谷村勉氏より、以前、「京都市内の懇意にしている石材店の主人の調査によると八幡の五輪塔と宇治浮島十三重石塔は島ケ原(木津川上流/現三重県伊賀市)産の花崗岩で川を利用して運んできたと聞いています」と教えていただいたことがありました。また、五輪塔に加えて「宇治浮島十三石塔」の名前が含まれていることもあり信頼性が高いとも思いました。谷村氏の情報に加えて、島ヶ原訪問に先立って伊賀市教育委員会文化財保護課の担当の方より、①島ヶ原でかつて石材を産出していたのは事実であるが、②今から30~40年前に途絶えており過去のことを知る人もおられず、③市にも関係する歴史的史実は見つからない、との情報もいただいておりました(*4)。 京都府南東端で接する三重県伊賀市島ヶ原は、藤堂藩の時代、大和街道の宿場町として賑わいをみせていた町であり今日でも旧本陣の跡が残されています。JR島ヶ原駅前の観光案内所にて、地元の方よりこの地の石材店を紹介いただきました。紹介いただきました石材店の奥様より、「石の切り出しの話は聞いたことがあるが、今では切り出し地は残っていないな」との話も聞かせていただくことができました。周りを車で走っても切り出し地のような場所は見出せませんでしたが地元案内の島ヶ原観光マップ(*5)には「岩谷峡」、「岩倉峡公園」と呼ばれる木津川流域の自然公園や、「岩屋山」と呼ばれる岩窟や「峰の六地蔵」と名付けられた磨崖仏など、岩にまつわるような見所が複数描かれておりました。 JR島ヶ原駅から車で北へ5~6分の地に「薬師堂磨崖仏」があり訪ねてみました。島ヶ原観光マップにも描かれており、大きな花崗岩の自然石に彫られた本尊と阿弥陀三尊立像が確認できます。その前に立って島ヶ原から西に向かって流れる木津川を思う時、この地が石清水八幡宮五輪塔の石材の切り出し地であったのだろう、と理解できる訪問ではありました。が、それは同時に確証が得られた訳では無いことも事実ではありました。石材を切り出し、運び、加工し、設置すると言った一連のことがらを、「どこ / Where 」を切り口に考えてみると石清水八幡宮五輪塔の不思議が益々増して来るようです。最後に、紙面に記載の有無に関わらず、情報を提供いただきました全ての皆様方のご親切に紙面をお借りして厚く感謝申し上げます。 参考図書・史料・資料など;
(次号に続く) 空白
by y-rekitan
| 2016-09-20 08:00
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