詩歌と八幡の歴史③ 75号

シリーズ「詩歌に彩られた八幡の歴史」・・・第3回
蕪村のまなざし―男山そして橋本

 土井 三郎 


  やぶ入(いり)や鳩にめでつゝ男山 

 与謝蕪村(1716~83)の作品には、「やぶ入り」を詠み込んだ発句が多数見られます。少し紹介してみましょう。すべて『蕪村全集』第1巻(1992年講談社発行)から採用したもので、成立順に並べました。冒頭に掲げた句は、安永7年(1778)~天明3年(1783)頃の作品で、蕪村晩年の作品で、「やぶ入」で始まる発句の最後の句です。 
  ア、藪入の夢や小豆(あづき)のにえる中(うち) 
  イ、やぶ入や浪花(なには)を出(いで)て長柄川(ながらかは)
  ウ、やぶいりや余所目(よそめ)ながらの愛宕山(あたごさん)
  エ、やぶ入(いり)に曇れる母の鏡かな
  オ、やぶ入(いり)を守る子安の地蔵尊


 「やぶ入り」とは、正月と盆の16日、あるいはその前後に奉公人が主人から暇をもらって実家に帰ること。また、その日やその頃をさします。蕪村の句ではもっぱら正月16日の藪入りを指すようです。(エ)は、「やぶ入り」で久しぶりの再会を喜び合う母と娘の心情をリアルに映し出しているといえます。句意は「藪入りで戻った娘が懐かしそうに母の鏡を見る。母も後ろからのぞき込む。二人とも涙があふれ、鏡中の顔がぼやけている」というもので、『蕪村全集』の評者は「母娘の心情を鏡の曇りに凝縮させた」としています。的確な解釈だと思います。
 (イ)の句は、浪花の奉公先を出て、若い娘が長柄川(新淀川の前身中津川の古称)の岸辺を足取りも軽く故郷を目指すというものです。但し、「長柄」とある如く故郷の家にたどり着くまでの堤防道は長いもので、蕪村の故郷毛馬を暗示しているようです。(オ)にある「子安地蔵」は安産と小児守護の地蔵で、京都市下京区下寺町荘厳寺の地蔵が名高いとか。そんな子安地蔵の傍らを藪入りの子供が帰っていく。お地蔵様が、道中の安全を見守ってくれているようです。
 だが、「藪入り」で奉公人に許された休暇は僅かな日数しかありません。(ア)の句は、藪入りで故郷の家にたどり着いた子供が緊張感から解放され、うたた寝をしますが、その安らかで楽しい夢も、母親の心尽しの小豆が煮え上がるまでのわずかの時間なのです。
 さて、本題の男山を配した冒頭の句ですが、句意からすれば(ウ)が一番近いように思えます。 愛宕山は、京都の北西にそびえ、どこからでも目印になる信仰の山です。その愛宕山をよそ目に見ながら、いそいそと故郷へ急ぐ藪入りの子どもの姿を活写しているのです。
 そして、冒頭の句について、『蕪村全集』の評者は、「帰心矢のような藪入りの途次、男山の鳩に手を振りながら参詣もせず八幡様の前を急いで通り過ぎていく」としています。男山の鳩に免じてお参りもせず通り過ぎてゆくことをお許しくださいと八幡様に詫びているようでもあります。
 いずれにせよ、藪入りで故郷を急ぐ小児への蕪村のリアルで優しい眼差しを感じざるを得ません。
 ところで、八幡宮に鳩はつきものです。石清水八幡宮一の鳥居の額にある「八幡宮」は藤原行成が書いたものを松花堂昭乗が元和5年(1619)に書写したものとされ、「八」の字は向かい合った二羽の鳩を模しています。そもそも鳩が八幡神の使いの鳥とされるのはいつ頃からなのでしょうか。詩歌と八幡の歴史③ 75号_f0300125_10315594.jpg 13世紀初頭に成立した石清水八幡宮の『宮寺縁事抄』に、同宮の創建者である僧行教(ぎょうきょう)が、宇佐に参拝して読経した時、「我紫鳥と云鳥化也」と託宣があり、その鳥が鳩であったことが述べられているとのことです。また、14世紀初頭に成立した『八幡愚童訓』に、「前九年の役」で源頼義が苦戦していたとき、八幡神に祈願したところ鳩が軍旗の上に降ってきたという逸話があるようです(※1)。 
 さらに、八幡宮と鳩の関係について、宇佐八幡宮に問い合せましたところ、次の情報がもたらされました。
 正和2年(1313)に、宇佐宮弥勒寺の僧神吽(そうじんうん)により編纂され、応永25年(1418)に周防・長門・豊前等の守護であった大内盛見の命により書き写し、宇佐宮へ奉納された「八幡宇佐宮御託宣集」によれば、言い伝えとして、八幡大神様が菱形池に御出現された際、八幡神の化身が金色の鷹となって現れ、大神比義が祈念すると金色の鳩に化したと記されているとのことです。上記の『宮寺縁事抄』の記述と相通じるものがあります。貴重な情報を提供して下さった宇佐八幡宮の関係者に紙面を借りてお礼申し上げます。
 いずれにせよ、13世紀から14世紀を中心に、石清水に限らず、全国の神社・仏閣で、寺社や仏像などの由来、または霊験などの伝承・伝説を記した書物や絵巻が盛んに刊行されました。八幡宮と鳩の関係もその時期に霊験譚(れいけんたん)として人々の間に広まっていったのでしょう。

  若竹やはしもとの遊女ありやなし

 蕪村は俳人として知られますが、盛んに句会を催したり句集を刊行したりしたのは51歳になってからで、生活の資はもっぱら画業によるものでした。また、55歳で亡き師の号である「夜半亭」を継ぎ、俳諧の宗匠(そうしょう)(点者)になったのですが、点料(添削料)を稼ぐことをいさぎよしとせず終生、俳諧を趣味として通したそうです(※2)。
 画家蕪村は、中国の新画法である南画や南宋画、文人画などを積極的に採り入れ、需要に応えました。一方で、俳味のある、略筆の淡彩もしくは墨絵で、発句の賛などが付けてある書画共存形式の俳画を完成したといわれます。次ページに紹介するのがその一つで、賛は冒頭の句です。詩歌と八幡の歴史③ 75号_f0300125_10404479.jpg この句を味わってみましょう。「若竹」は季語で夏を表します。文字通り、その年に生え出た竹で、「ことし竹」とも称されます。読者のなかには、「若竹」と「遊女」の取り合わせがミスマッチではないかと指摘する向きがあろうかと思います。この句の鑑賞には、「遊女」をどうとらえるのかがポイントになると思います。
 私は、この句に接したとき、西行の次の和歌を思い浮かべました。

  世の中を厭うまでこそ難(かた)からめ
   仮の宿りを惜しむ君かな


 西行(1118~90)が天王寺に参るとき、江口にて雨にあい、一夜の宿を借りたいと申した時に、断られて詠んだ一首です。遊女妙(たえ)は「家を出づる人とし聞けば仮の宿 心とむなと思ふばかりぞ」の歌で返し、「雨宿りを乞うお方が出家の身だと聞き、故に(遊女の)宿は貸すことできませんと申し上げたのです」と答えたのです。まっとうな理由であり、西行とても遊女の言にぐうの音も出なかったのではないでしょうか。一見卑賎な身と思われがちな遊女ですが、神に仕える巫女に起源を求める説があり、その職能としての芸能も神仏との関わりで説明されています。
 以上のことから、冒頭の句は、「若竹がすくすくと育つ橋本では、(西行と問答をした妙のような)遊女が今もいるのであろうか」と解釈されますが、この句をめぐって、蕪村の母への慕情を読み取るべきという指摘もあります(※3)。
 蕪村は、発句だけでなく、漢詩にも造詣が深く、「俳詩」と呼ばれたジャンルを開拓したとされます。「澱(でん)河歌(がか)」がその一つ。発句と漢詩、和詩を扇面一面に自画と自賛にあしらいました。その発句に「若竹や」ではじまる冒頭句が添えられているのです。 
詩歌と八幡の歴史③ 75号_f0300125_1049441.jpg

    澱河歌(でんがか) 夏
  若たけやはしもとの遊女ありやなし

    澱河歌 春                       
  春水浮梅花 南流兎合澱 
  錦纜(きんらん)君勿解 急瀬舟如雷
  兎水合澱水 交流如一身            
  舟中願同寝 長為浪花人                       
                  
  君ハ江頭の梅のごとし 
  花水に浮て去事すみやか也
  妾ハ岸傍の柳のごとし            
  影水に沈てしたがふことあたハず              

   「兎」は宇治川、「澱」は淀川を指す。「錦纜(きんらん)」は美しいとも綱。 

 この作品には、「春水に浮かぶ梅花のように澱河を流れ下って行く情人を送る(伏見の)妓女の思いに托して、惜別の情と浪花への郷愁を吐露したもの」との指摘があります(※4)。伏見の妓女、そして橋本の遊女に対する蕪村の眼差しに、故郷毛馬にて早くに離別した亡母ないし母性に対する哀切な想いが見え隠れしているようです。
(次回は、「名所図会と八幡讃歌」を予定) 空白

(※1)『八幡信仰事典』(夷光祥出版)
(※2)「翔(か)けめぐるマルティ芸術家の創意(おもい)」辻惟雄(『与謝蕪村-翔けめぐる創意-』)
(※3)「かりに、「哥よむ遊女」に、亡母をなぞらえる発想があるとするならば、「橋本の遊女」もその類想とすることに無理はない。むろんそれが、蕪村じしんの母親を指すと短絡してはならない。遊び女(め)という歌や芸に秀でた女性に、母性を仮託したものにほかならない。亡母幻想といってもいい。作者の想念のうちにできあがった、詩的母神像と解さねばならない。」藤田真一「蕪村二都物語」より(『与謝蕪村-翔けめぐる創意』)
(※4)「澱河歌(でんがか)」(尾方仂)『俳文学大辞典』より


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by y-rekitan | 2016-09-20 07:00 | 会員研究
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