謡曲から見た八幡 猪飼 康夫 (会員) 2月15日(水)、午後1時30分より、松花堂美術館にて表題の会員研究発表がありました。能や謡曲のあらましにはじまり、八幡を舞台にした謡曲の数々、能や謡曲の文化を次の世代に残す取り組みなどが実演を交えて発表されました。 以下に概要を報告します。参加者40名。 謡曲(ようきょく)とは、能楽の脚本のことです。シテ方などが身に着ける装束、能面の種類などが紹介され、登場人物や地謡の台詞、物語などが綴られています。 続いて、能舞台の様子が語られ、猪飼氏自身が能装束や能面を付ける場面が紹介されました。 能面は通常シテ方が付けますが、面(おもて)をつけない場合もあります。それを直面(ひためん)といいます。直面で台詞を言う場合、面を付けた時と同様に口をパクパク開けないようにすることが求められます。まるで腹話術をするようです。舞台の後ろの演奏者を囃子方(はやしかた)といいます。向かって右から笛、小鼓、大鼓、ばちを持った太鼓と並びますが、この並び方は雛祭りの五人囃子と同じです。 続いて、謡曲の種類として素謡(すうたい)、連吟(れんぎん)、独吟(どくぎん)の種類があること、謡(うたい)と唄や歌との違いが説明されました。謡は正座して朗詠するものですが、舞は手足を動かしてしぐさや感情を表現するものです。仕舞といいます。舞と踊りは異なります。大きな違いは、舞はほとんど中腰で、腰の位置がいつも一定ですが、踊りは腰の位置が上下します。 八幡は謡曲のふるさとと言われるくらい数々の作品があります。「弓八幡」「放生川」「女郎花」がそうです。 男山八幡宮の祭りの日に鹿島の神主が参詣すると、魚を桶に入れた老人と出あいます。「神事の日になぜ殺生するのですか」と尋ねると、老人は「今日は生き物を放つ放生会です」と答えます。そして、魚を放生川に放し神事のいわれを語り「私は、石清水八幡宮に仕える武内の神です」と名乗り、山頂に立ち去ります。やがて月が上り、神楽の音と共に武内の神が現れ、平和の御代を讃える舞を舞います。 室町時代、足利義満と観阿弥・世阿弥の親子が今熊野神社で出会ったことから、能の演者が時の権力者に寵愛されるようになります。以後、能が大いに発展するのです。それは戦国時代にも引き継がれ、信長、秀吉、家康ら天下人によって能は大いに保護されます。 一般に武家は公家とことなり文化的アイデンティティを持っておらず、そのことにコンプレックスを持っていたと言われます。能はそのような武家の劣等意識を補ってくれたのです。江戸時代には幕府からの庇護のもと、能楽者は扶持され経済的に自立できました。ところが、明治時代となり、能楽者は独自の運営を余儀なくされ、観世など流派ごとに経営を維持するよう努力するのです。 そして現代、古典文化財として、ユネスコ世界遺産に登録されるようになりました。 猪飼さんは、能の文化を次世代につなげるために様々な取り組みを行ってきました。小学校での授業もその一つで、かつて八幡東小学校や東大阪市の子どもたちに能についてじかに指導されてきました。 また、企業研修会に呼ばれたり、八幡地域では「謡曲と朗読」と称して夫婦で実演し、謡曲同好会を立ち上げ、毎年発表会を持ったりしています。 なお、平成5年8月9日に、石清水八幡宮の頓宮にて薪能が催され、かがり火のもと「弓八幡」などが観世流の片山九郎右衛門さん一行によって熱演され、市内外から集まった2000人の観客を魅了したとのことです。
by y-rekitan
| 2017-03-22 11:00
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