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◆会報第79号より-01 淀川三十石船

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心に引き継ぐ風景・・・➉
三十石船と淀二十石船
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 「都名所図会」淀三十石船は当時の船運隆盛の一端を伝えるが、三十石船の就航は比較的新しく、信長の時代に出現し、秀吉の時代には百艘程となった。伏見と大坂天満間を下り半日、上り一日で航行し、乗客定員が二十八人で四人の船頭が付く。
 しかし淀川で最も活躍したのは、淀の納所・水垂の淀二十石船であった。淀稲葉神社の『過書座二十石船由緒書』には「男山八幡宮に付随し、八幡宮社務支配となり、古くより男山八幡宮の御神役を務め、淀川舟運を専有し長くその伝統を伝えてきた」旨が記されている。淀二十石船と徳川幕府との結びつきは深く大坂の陣でも兵糧米や鉄砲、楯など御陣具の搬送を担っている。
『土佐日記』の一節に「ひんがしの方(かた)に、山の横ほれるをみて、人に問へば、“八幡宮(やはたのみや)”といふ。これを聞きて、喜びて、人々をがみたてまつる。山崎の橋みゆ。嬉しきことかぎりなし《原文はほぼ全てひらがな》」とあり、貫之は淀二十石船から八幡宮と山崎橋を目にしている。
 元禄七年(1694)十月、芭蕉は大坂南御堂前で臨終を迎える。遺言により遺体は膳所の義仲寺に運ばれるが、淀二十石船で淀川を上ったようだ。「遺体を長櫃に入れ、商人の荷物のようにして運んだ」と其角が伝えている。
(文 谷村 勉)



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by y-rekitan | 2017-05-20 12:00
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