◆会報第81号より-03 古墳と鏡⑤

シリーズ 「八幡の古墳と鏡」・・・⑤


八幡の古墳と鏡(5)


-石不動古墳と画文帯神獣鏡がもんたいしんじゅうきょう


濵田 博道 (会員)


はじめに

 石不動古墳は西車塚古墳、東車塚古墳に続き、八幡市で3番目に大きい古墳です。第一回目(会報NO.77)で述べたように、この古墳から出土した鏡について弥生文化博物館・卑弥呼特別展パンフレット(2015年)では「新たな卑弥呼の鏡の候補か」と注目すべきタイトルを付け、紹介しています。このシリーズを書くようになった動機も石不動古墳出土鏡にあります。なぜ「新たな卑弥呼の鏡の候補か」といわれるのか。石不動古墳とはどんな古墳なのか、気になります。しかし、この古墳は八幡市の中でもあまり知られておらず、実際に古墳を見た人はわずかだと思います。文献も多くありません。ここでは1955年京都府発行の『京都府文化財調査報告第21冊』中の梅原末治「石不動古墳」をもとに考えてみます。

1、石不動古墳とは

f0300125_147296.jpg 京阪バス男山車庫の北側にNTTの電波塔がそびえ建ち、その真下が石不動古墳の後円部にあたります。現在無線中継所の建物が建っています。それゆえ、“古墳は原形をとどめていない”といわれています。私は古墳の近くまで行ってみましたが、その先は「立ち入り禁止」で入れませんでした。古墳を見るのも難しい状況です。
 前掲書に次のようにあります。「北の方、天王山と対峙して淀川の河口を扼する(やくする=要衝を占める)男山は、北に高く、南にゆるやかに延びている。この古墳の所在は男山八幡宮の鎮座する山の主峯の南方に近い山岳上にあって、地籍は八幡町(現八幡市)大字八幡字石不動である。山城中部の盆地から見られるように、男山では神社のある峯から南に続く、その脈にいくつかの隆起した山丘がならんでいる。ここに石不動と呼ぶ古墳は、中でも最もそれに近い山丘上にあって、八幡の街並みの中ほどから西のかた西山の部落に通ずる里道の南に接して高くそびえたものである。(中略)頂部からの眺望は、北方を除くと、他の三方とも眼をさえぎるものがなく、まことに絶佳である。」
1943年(昭和18年)2月、ここに山荘を営むために地元の前田氏が土堀をしていた際、偶然に遺物を発見し届け出たことから、京都府の要請により京都大学考古学教室の発掘調査が始まりました。
古墳は卑弥呼の時代より150年~200年ぐらい後の4世紀後半(西暦360年~390年頃)に築造された前方後円墳です。全長88m、後円部径60m、高さ8m(注1)。葺石を敷き、円筒埴輪が巡っていました。八幡市の古墳の中で、西・東車塚古墳など他の前方後円墳が南北を向いているのに対し、この古墳は前方部を東にして東西方向を向いています。また、茶臼山古墳と同じように見晴らしの良い頂に築造されていることも特徴の一つです。大阪市立大学の岸本直文氏は八幡地域の古墳を男山(茶臼山古墳、石不動古墳)、八幡(西・東車塚古墳)、美濃山(ヒル塚古墳、王塚古墳)の3地域に分けて編年表を作っています(注2)。
古墳の後円部には並行して2つの粘土槨(ねんどかく、死者を葬る粘土の室)がありました。北粘土槨(7.6m)と南粘土槨(6.7~6.9m)で、北粘土槨の被葬者が古墳の主であったと思われます。

2、粘土槨と副葬品

①南粘土槨(南槨[みなみかく])の副葬品
  “埋葬施設の南粘土棺床(=南槨)は土堀のため上辺がかなり削られていたが、中央東部分から画文帯神獣鏡、碧玉製石釧(へきぎょくせいいしくしろ)、管玉(くだたま)、棗玉(なつめだま)など、東辺凹みの南辺近くから鉄片、直刀(ちょくとう、刀身がまっすぐでそりを持たない刀)、剣身、その北側から多数の刀子(とうす、古代の小型の刀、ナイフ)、さらに東端の切り崩した部分から長方板革綴短甲(ちょうほうばんかわとじたんこう、剣道の「胴」のような、上半身をつつむよろいの一種)が出土、鏡などの副葬品は朱に染んだ間にあり、朱の痕跡が床の西辺でよく認められた、埋葬はほぼ中央に東枕の遺骸を伸展して、頭辺に鏡・釧(くしろ)・その先に刀剣・短甲などを副葬したと想定される”(前掲書要約)とあります。
 ここで石釧・玉類・鉄類について考えてみます。釧は腕にはめて使う装身具(腕輪、ブレスレット)です。縄文時代の貝輪(かいわ)に始まり、弥生時代にゴホウラとイモガイでつくった貝釧(かいくしろ)になりますが、これらの貝は奄美・沖縄などの南方でしか生息せず、遠方との交易の存在を証明する貴重なものです。古墳時代には貝が手に入りにくくなったようで、石で作った釧(石釧)が作られます。ヤマト王権から各地の首長に配布された威信財といわれており、持つのは身分が上位の人に限られていました(注3)。この古墳からは出雲など日本海側に産出地が限られた碧玉製の石釧が三個出土しています。いずれも入念な作りですが、互いにその細部が違っており、一個は新緑のなめらかな碧玉で、色つやが特に美しいものです。「一部に有機質が付着、また朱に染んで、遺骸に近接して存したことが推される」(前掲書)とあります。次に玉類です。管玉は被葬者を特別に飾る装身具ですが、碧玉製のものが40個出土。よく研磨されており、首飾り用に環状に身につけたようです。色は深緑4、他は青灰色です。棗玉(なつめだま)はナツメの実に似た形をした玉で南槨から29個、青みや白灰色の細長く、なめらかでつやのあるものです。5,6世紀代に盛んですが、4世紀前半の古墳(例えば吹田市紫金山古墳、しきんざんこふん)からも出土しています。石不動古墳は山頂に築造されていること、主体部の構造に前期の特徴があるので古風様式ですが、棗玉や短甲などが出土していることから築造年代は4世紀後半と推定されています。鉄剣は50cm強で“酸化が著しく破断”、刀子は“19口の外に、破断辺が少なくない”とのことです。“短甲は一領分があったと思われるが、原形を確かめるにははなはだ程遠い。横矧板(よこはぎいた)などから短甲たるを推し得るに過ぎない”(前掲書要約)とあります。

②北粘土槨(北槨)の副葬品
 北槨は既に盗掘されており、詳しいことはよくわかっていません。“東辺で刀剣類、小玉類、鉄鏃(てつぞく)、鉇(しゃ、農耕具の一種か?矛か?)の類があり、直刀類は折り曲げられた数本が雑然として本来の副葬とは認められない状況で出土。中央部は破壊されて形跡を失っており、一度取り出され後に再び遺棄され、副葬品は盗掘でほとんど無し。刀身は60cmを超えるものが少なくとも5,6口あったと推測。剣は21cmの断片。他に玉類が79。青水色・半透明ガラス質の良質のもの”(要約)とあります
この他、新聞記事によって盗掘された内容物が少し明らかになりました。
「大正6年(1917年)3月9日の『大阪朝日新聞』の記事によって、それ(=盗掘)が大正4年(1915年)8月の事で、当時城南・北和地帯に盛んであった古墳墓盗掘団の行うたものたることが知られる。この盗掘団の裁判の判決を載せた右の記事中に
一 大正四年八月頃、京都府綴喜郡八幡町大字八幡同所字石不動山林の古墳。
  発掘者(略)三名。勾玉(まがたま)二個、古鏡一面、外に管玉・小玉
  類数十点。森本正太郎氏へ百円にて売却。
とあって、それのまさに本古墳(=石不動古墳)に当たること思はしめるものがある。更に同時の『日出新聞』にはその古墳の所有者を河原崎文治氏と記していて、この地区がもと同氏の所有林であったことから、この想定の誤らざるを示すのである。」その副葬品の行方については、「今日ではこれを明らかにすることはできない」が、森本氏から押収した出土品で、後に奈良国立博物館が所有している遺品のうちの鏡一面が、「その朱に染んだ黒漆の色沢であり、森本氏の購入した価格の点などから推して、記事中の一面の鏡に比定し得る公算の多い」(前掲書)とあります。北槨から盗掘されたと伝えられる鏡もまた舶載の画文帯神獣鏡でした。最近、奈良市教委などの研究グループによりこの画文帯神獣鏡が石不動古墳から盗掘された鏡であることがほぼ確実になりました(注4)。

3、画文帯神獣鏡とは

 上述のことから、石不動古墳からは2枚の画文帯神獣鏡が出土していると考えられます。その鏡はいつの時代に作られ、またどのようなものでしょうか。歴史事典や古代史の雑誌によると、
“画文帯神獣鏡は中国後漢代(25~220年)の鏡の一種。日輪(=太陽)を乗せた車や飛ぶ鳥、走る獣などの絵画的な文様帯(画文帯)を外周に巡らせている。三角縁神獣鏡のように縁が三角形にとがっておらず、上が平らである(平縁、ひらぶち)。内区と縁との境界に、半円形と方形を交互に配置した半円方格帯(半円方形帯)を持つものが多い。内区(内側の部分)に、神仙思想を表す神像や龍・虎などの霊獣を、半肉彫(浮彫表現の一種)で描き出した文様を持つ。神仙は西王母(せいおうぼ)や東王父(とうおうふ)、伯牙(はくが)、黄帝(こうてい)など後漢代に流行した図像と考えられる。日本では弥生末期から古墳時代の遺跡・古墳から出土。また古墳中期から後期にかけての古墳からは、これの踏み返し品が出土している(注5)。”
 しかし、画文帯神獣鏡にもいろいろな種類があり、南槨鏡と(伝)北槨鏡は大きさ、型式・文様が違います(注6)。

① 南槨の画文帯神獣鏡(=画文帯同向式神獣鏡) 面径19.2cm
 南槨の鏡は画文帯同向式神獣鏡といいます。「細かく破砕して出土、若干欠失した部分はあるが、ほぼ全形が推される。f0300125_830363.jpg径六寸三分余(19.2cm)、縁厚(ふちのあつさ)一分四厘(約4mm)。(中略)その内区は完好な鈕(ちゅう)の孔(こう、あな)の通った方向を上下にして一方から見る様に構図されており(同向式)、また幅広い外縁に一種の連環状渦文を配した点に特色がある。そして通じて鮮鋭巧緻(せんえいこうち、細かな微妙なところまで鮮やかに巧みにち密に描かれていること)なる鋳上(いあが)りを示している。(略)相似た鏡としては韓国平壌大同江面第三号墳から出土したものなどが挙げられるが、しかも小異がある。それらと並んでこの種の鏡式中での優れたものと云ふべきであろう」「鏡体は一部に銹(さび)を見受けはするが、なほ通じて鉛黒色の滑択の多い地肌を存して、破断面は白銅本来の色択を表はし、質の桂良なるを示している。この鏡が中国からの舶載品であることは疑を容れないのであって、鏡式のうちでは時代の遡るもの、その鋳造の年代はけだし西紀三世紀の前半を下らないであらう」(前掲書)とあります。

画文帯神獣鏡が「新たな卑弥呼の鏡の候補か」とされるわけ
 この南槨鏡が「新たな卑弥呼の鏡候補か」となったのはどういう理由からでしょうか。千田稔氏は「奈良県黒塚古墳からは三十三面の三角縁神獣鏡が出土したが、被葬者の頭部に画文帯神獣鏡が一面置かれてあったことから、現在はこの鏡こそが重要で、魏帝から賜った百枚の鏡の一つではないかという説が浮上している」(注7)と述べています。さらに1998年、ホケノヤマ古墳(桜井市、全長約80m)の発掘でサプライズがありました。この古墳の棺(ひつぎ)の中と外から画文帯神獣鏡が一面ずつ、計二面出土したのです。三角縁神獣鏡は出土していません。棺の中から出土した鏡は石不動古墳の南槨鏡と霊獣が乳(にゅう)を取り巻く点が同じで、大きさも1mmしか違わない鏡でした(注8)。この古墳は卑弥呼の墓ではないかといわれる箸墓古墳(はしはかこふん、桜井市、全長280m)の東300mに位置し、箸墓古墳が築造される直前の邪馬台国連合の時代、つまり三世紀前半~中頃に築造された前方後円形墳です。箸墓古墳の周辺にはホケノヤマ古墳をはじめ、三世紀前半に築造された80~110m級の墓がいくつかあり、卑弥呼共立(注9)に関わった勢力の墓ではないかといわれています。画文帯神獣鏡がクローズアップされてきた理由の一つは副葬状況から被葬者が大切にしていた鏡であったこと。もう一つはその製作年代が『魏志』倭人伝にいう卑弥呼が共立された時期の鏡である、ということです。それまで舶載鏡の分布の中心が北部九州であったのが、畿内大和を中心とする分布に一変し、広域の政治連合を完成した時期だというのです。こうしたことから石不動古墳出土鏡も「新たな卑弥呼の鏡候補」として浮上してきました。岸本直文氏は各種の画文帯神獣鏡を比較検討し、「石不動古墳出土の同向式などは中平(ちゅうへい)四年(187年、中平は漢代の年号)のもの(鏡)に近いのでは」と述べています(注10)。

②(伝)北槨の画文帯神獣鏡(=画文帯環状乳神獣鏡) 面径13.6cm
 北槨出土とされる画文帯神獣鏡は画文帯環状乳神獣鏡といいます。神像や獣形が真ん中の鈕(ちゅう、つまみ)に向かって環状に配置されているのでその名が付いています。この環状乳神獣鏡も同向式神獣鏡も同じ後漢代の鏡ですが、環状乳鏡が同向式鏡よりやや早くに製作が始まっています。梅原氏は(伝)北槨鏡を「優れた舶載画文帯環状乳神獣鏡」であり、「斑銹(まだらさび)こそ多いが地肌をとどめた部分は漆黒色の美しい色沢(しきたく、いろつや)をしたもので、その内区では四方から見るように半肉刻出の神像を交互に配して、それぞれの一部が大きな環状乳となっている。半円方形帯は幅が広くて、十個を数える方格にそれぞれ四字宛の銘文を配する」(前掲書)と述べています。

4、石不動古墳出土鏡の銘文

①南槨鏡(画文帯同向式神獣鏡)の銘文
  半円方形(格)帯に各4字
原文:吾作明竟 幽凍三商 配像万彊 競ロロ序 ロロロロ ロロロロ 
百身拳楽 百精ロロ 衆羊主羊 学者高徳 士至公卿 富貴安楽 
子孫番晶 与師命長 (合計14区)
訳:「私は三種類の金属を溶かし、この美しい鏡を作りました。それには仙人や多くの怪獣が飾られており、この鏡を手に入れた人は立身出世し、一家が安楽に、子孫までも繁栄し、命永らえるであろう。」――『八幡市誌第一巻』P106より

②(伝)北槨鏡(画文帯環状乳神獣鏡)の銘文
  半円方形(格)帯に各4字
原文:上方作竟 自有紀 辟去不羊 古市 ロロロロロ 西王母令人長命 
ロロ紀天 孫吉兮 君宜子兮 長宜官王 (合計10区)
試訳:「上方(じょうほう、工房名か?)はこの鏡を作る。自ずから紀(しるす)。災害・不吉を退け、商売を・・(不明)西王母は人を長生きさせ・・(不明)子孫は繁栄し、立身出世するだろう。」
――試訳濵田

銘文は神仙思想を背景としています。しかし、訳されている銘文は少ないので浅学の私が試訳しており、誤りがありましたら教えてください。

5、八幡市出土の画文帯神獣鏡

 画文帯神獣鏡は日本全国で146枚、京都府で15枚出土と報告されています[2012年現在](注11)。そのうち八幡市から4~5枚出土しています。京都府出土鏡のおよそ4分の1を占めていますから、八幡市での出土率は高いです。その理由は何か。興味あるところです。内訳は、
石不動古墳2枚画文帯同向式神獣鏡、面径19.2cm、銘文有、京都大学総合博物館
画文帯環状乳神獣鏡、面径13.6cm、銘文有、奈良国立博物館
西車塚古墳1枚画文帯環状乳四神四獣鏡、面径14.4cm、銘文無、東京国立博物館
内里古墳1枚画文帯環状乳神獣鏡、面径21.0cm、銘文有、広島県耕三寺博物館
半円方格帯 方格内に各四字「天王日月」 合計14個
不明1枚画文帯神獣鏡、破片18.9cm、銘文無、京都大学
                   (注12)

おわりに

 “画文帯神獣鏡は、二世紀後葉から三世紀初めごろにつくられ、ちょうど倭国大乱が終息し、卑弥呼が共立されて邪馬台国の女王になった時期にあたる。”(注13)といわれています。京都大学の岡村秀典氏は「その分布をみると、畿内にいちじるしく集中し、北部九州に希薄なことから、楽浪・帯方郡から畿内に直接もたらされ、新たに成立した首長間の同盟体制にもとづいて、畿内の盟主的な首長から一元的に分配されたものと考えられる。また、首長層の定型化した前方後円(方)墳からの出土が多く、その体制は古墳時代前期までそのまま維持されたことがうかがえる。(注14)」と述べており、具体的には「奈良盆地東南部の桜井茶臼山古墳から四面以上、天理市天神山古墳から四面がまとまって出土し、奈良県広陵町新山古墳から三面、京都府八幡市石不動古墳・大阪府和泉市黄金塚古墳・神戸市西求塚古墳・香川県寒川町雨滝山奥十四号墳から二面ずつ出土していることに注意される。」と述べています。古墳時代前期を代表する古墳がいくつか含まれています。八幡の石不動古墳の勢力(その祖先)もその一員として活躍していたと思われ、研究が進んで、石不動古墳出土鏡が『卑弥呼の鏡』の可能性を増せばさらに注目されてくるでしょう。今後の研究を待ちたいと思います。
次回は『美濃山の王塚古墳について』考えてみます。

(注1)石不動古墳の全長(墳長)は文献により88mと75m、後円部径は60mと45mの2通りの見解があります。
(注2)岸本直文「山城の前方後円墳と古墳時代史」『山城の王権の実像に迫る!!乙訓古墳群と久津川古墳群』,ふるさとミュージアム山城,2016
(注3)西車塚古墳からは石釧をはじめ、高い威信財である腕輪型石製品の鍬形石、車輪石が出土しています。会報NO.79参照。
(注4)2017年(平成29年)8月30日朝日新聞夕刊4面「単眼複眼」に「100年前に盗掘 出土古墳特定 奈良市教委などの研究グループ」として石不動古墳など盗掘鏡の記事が載っています。
(注5)『日本歴史大事典』,小学館、雑誌『邪馬台国 第106号』,梓書院など参照
(注6)画文帯神獣鏡には、画文帯環状乳神獣鏡,画文帯重列式神獣鏡,画文帯同向式神獣鏡,画文帯求心式神獣鏡,画文帯対置式神獣鏡などがあります。
(岡村秀典『三角縁神獣鏡の時代』,吉川弘文館,1999参照)
(注7)千田稔『邪馬台国』, 青春出版社,2010
(注8)岡村秀典氏は漢代四百年間の鏡を、文様と銘文の流行の推移をもとに、およそ五十年前後の目盛りで次のように七期に区分
 漢鏡1期 (前二世紀前半、前漢前期)
 漢鏡2期 (前二世紀後半、前漢中期前半)
 漢鏡3期 (前一世紀前半から中ごろ、前漢中期後半から後期
       前半)
 漢鏡4期 (前一世紀後葉から一世紀初め、前漢末から王莽代)
 漢鏡5期 (一世紀中ごろから後半、後漢前期)
 漢鏡6期 (二世紀前半、後漢前期)
 漢鏡7期 (二世紀後半から三世紀初め、後漢後期)画文帯神獣
       鏡など
これに三世紀の三角縁神獣鏡をはじめとする魏鏡を加え、都合、漢・三国時代の中国鏡を八期に大別しています。(注14参照)
(注9)「共立(共に王を立てる)」に関わって『魏志』倭人伝に次の文章があります。
「その国、もとまた、男子を以て王と為す。とどまること七、八十年、倭国乱れ、相攻伐すること歴年、すなわち一女子を共立して王と為す。名は卑弥呼という。」(佐伯有清『邪馬台国論争』, 岩波新書,2006)
北九州、瀬戸内(吉備、伊予、讃岐、阿波など)それに近畿などの勢力が卑弥呼共立に関わったといわれています。
(注10)福永伸哉ら『シンポジウム三角縁神獣鏡』,学生社,2003,P231
(注11)安本美典『大崩壊「邪馬台国畿内説」』,勉誠出版,2012
(注12)安本美典『大崩壊「邪馬台国畿内説」』,勉誠出版,2012
(注13)都出比呂志・山本三郎編『邪馬台国の時代』,木耳社,1990
(注14)岡村秀典『三角縁神獣鏡の時代』,吉川弘文館,1999


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by y-rekitan | 2017-09-26 10:00 | Comments(0)
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