人気ブログランキング | 話題のタグを見る

◆会報第81号より-02 牛玉宝印

◆会報第81号より-02 牛玉宝印_f0300125_23262477.jpg
《講演会》
石清水八幡宮の牛玉宝印ごおうほういん

2017年8月 
さくらであい館(イベント広場)にて

鍛代 敏雄(東北福祉大学教育学部教授) 
              (石清水八幡宮研究所主任研究員) 

 
 平成29年8月26日(士)午後2時より、今春建造されました「さくらであい館イベント広場『淀』」で「石清水八幡宮の牛玉宝印」の講演と交流の集いが開催されました。
 「牛玉宝印」とは聞き慣れない言葉で、現物も見たこともないものでした。 社寺から出される厄除けの護符で、石清水八幡宮でも出されていたものです。今回の講演で、その内容を知り、現物の映像を見る事ができました。講師の鍛代敏雄教授は、石清水八幡宮研究所主任研究員として毎夏八幡にお越しになり、その都度講演をご依頼しております。今回もまた、新しい演題でお話を聞くことが出来ました。 鍛代先生ご自身によるご報告は以下の通りです。なお、当日の参加者は、40名でした。

はじめに

 牛玉宝印とは、主に権門寺社の修正会および修二会の年始法会において作成された、神仏と結願した護符のことです。一般には、宝印を翻して、起請文が書かれることが多く、その料紙は鎌倉時代の13世紀半ばころのものが残っています。◆会報第81号より-02 牛玉宝印_f0300125_17114199.jpg
 石清水の場合は、文献上、13世紀前半に確認できます。実際の牛玉宝印の料紙は、14世紀後半のものが石清水八幡宮に所蔵されています。石清水八幡宮の牛玉宝印について調査・研究する意義は、牛玉宝印を通して、①神仏習合(神仏同体)の祭祀と信仰の実態を究明できる点、②文献(古記録・古文書)・料紙・版木・宝珠印の総合的な研究が可能な点、③中世の荘園制的社内経営に関し、牛玉宝印の頒布を通じた師檀(師匠-檀那)関係にみる信仰経済への転換が知られる点、以上があげられます。

Ⅰ 修正会と修二会の作法 

 石清水八幡宮牛玉宝印の文献は、寛元2年(1244)の石清水八幡宮所蔵「宮寺並極楽寺恒例仏神事惣次第」(『石清水文書』1-62号)の修正会・修二会において初見できます。本社本殿では、元日に俗別当・神主・禰宜らによる土祭神事(地鎮祭)が執行されました。
ついで社務・別当・所司らが参列し、社僧の導師が十二相の声明など、国家安泰・護国豊穣・万民快楽の仏事を執行します。牛玉宝印は正月から中御前大床上に、4日まで北向、4日から南向に置かれました。7日には、外陣の正面に棚を据えて、その上に牛玉杖(牛玉宝印を折りたたんで柳や竹の棒を挟んで杖状にしたもの)を並べて、祈祷を通して結願、結縁させました。また導師は別当・祠官・所司らの額に宝印(如意宝珠朱印)を捺します。そして、牛玉賦と称し参列者に牛玉杖が賦られました。
 8日は、若宮殿の修正会が山上所司、公文所・目代・正印預らによって執行されました。同じく8日には、護国寺の修正会が催行されました。社僧によって荘厳された堂内、仏前(本尊・薬師如来)に牛玉を置きます。12日まで北向→12日から南向です。14日、仏前の棚に牛玉杖を積み、同じく別当らの額に宝印が捺されます。ついで牛玉賦が行われました。興味深い点は、本社ではない、「鬼走」という作法が14日夜に催行されます。鬼形の衆僧が鬼走といって乱声、牛玉杖で身体を打ちながら堂内を3周走り廻り、穢と災厄を祓いました。
 なお、牛玉杖は、何本、何把と数えられ、百本単位、社内で配布されました。石清水では明治維新後、神仏判然令にしたがい、仏事が廃されて作成されていません。

Ⅱ 本社系と坊舎系

 現在残っている八幡宮牛玉宝印を通覧しながら、石清水の場合の特質を確かめていきます。現存最古の宝印は、応安5年(1372)の新善法寺永清起請文(『石清水文書』6-404号)に用いられた、墨書(肉筆)の牛玉宝印です。牛玉宝印の先駆的研究者、相田二郎氏は、石清水の場合、墨書が先行し後に版木刷となり、また墨書が登場すると書かれていますが、鎌倉以降、江戸期に至るまで大量に頒布されていますので、墨書の牛玉宝印は例外的な特殊事情により作成されたと見なされます。
 版木により作成された牛玉料紙の法量については、最小が縦23.7㎝、横34.2㎝、最大が縦31.5㎝、横44.5㎝になります。15世紀には「小牛玉」という名称が登場しますが、大量に頒布されるようになると、小型化するものと思われます。この点は東大寺などと同様の事象で、千々和到氏の研究により、東大寺二月堂の縦切紙は15世紀前半から知られています。
 石清水の八幡宮牛玉宝印の字配りは、中央に「八幡宮」、右側に「牛玉」、左側に「宝印」とあり、中世から近世まで共通していますので、それ以外の形態は石清水以外の八幡宮牛玉宝印と考えて間違いありません。ただ、「八」の字形は、楷書の「八」の書き出しを鳩の首のように曲げたものと、「神鳩」の意匠で「八」としたものとに大別されます。後者の神鳩は、顔を向かい合わせとした向鳩と、首・背中合わせのものとに分けられ、坊舎の版木で刷られた牛玉宝印に用いられています。
 したがって、遅くとも織豊期以降は、本社の御蔵で作成された本社系牛玉宝印と、各坊で作成された坊舎系牛玉宝印が各坊でさくせいされたものとに分類できます。前者は、小綱(少綱)神人や仕丁神人らによって本社東回廊東門下の北側にあった御蔵で刷られ、宝珠朱印を捺して、本社で結願されました。後者の坊舎系は、坊内で刷られ宝印を捺して、供僧を勤めていた神宮寺の護国寺で結願されたものと思われます。
 如意宝珠の朱印については、印文の「八」「卍」が定型です。先に述べた最古の牛玉料紙、版木刷りの現存最古、大永8年(1528)の山吉政久起請文(『上杉家文書』1-351号)、天正16年(1588)の島津龍伯(義久)起請文(『永青文庫叢書細川家文書中世編』口絵、84号文書)などに用いられています。
 その外は、主に近世の宝印に認められるように、印文がないかわりに、宝珠印のなかに小形宝珠を3つほど配した印章がありました。
 なお、特例としては、現在、奈良柳生の芳徳寺所蔵の石清水八幡宮牛玉宝印には、種子「ア」(胎蔵界大日如来、真義真言宗では阿弥陀如来と同体)の印文のある宝珠朱印が捺されています。石清水の社僧は真言僧ですから、違和感はありませんが、この1点以外に確認できません。なおまた、この牛玉宝印の料紙には、牛玉杖にする際の折り目の筋がはっきりとのこっており、石清水においてどのように料紙を折りたたんで牛玉杖が作成されたか明らかになります。

Ⅲ 版木と如意宝珠印

 石清水八幡宮には、「八幡宮牛玉宝印」の版木が所蔵されています。法量を調べますと、版木は縦28.3㎝、横48.0㎝で、枠端の厚2.3㎝、内側の厚1.8㎝、端の幅2.0㎝で、枠左端の中央に幅1.3㎝、深さ0.4㎝の凹があります。おそらく刷る際に左手の親指で料紙を抑えるための窪みだったと思われます。
 また、版木の文字の法量については、縦最長で「八幡宮」は24.8㎝、「牛玉」19.7㎝、 「宝印」22.0㎝、横最長が36.5㎝です。料紙の大きさは区々ですから、今後の調査では、文字の法量も測っておくと、比較する上で効果的であると考えられます。
 なお、本版木と類似の牛玉宝印はありますが、まったくの同じ版刷りの石清水八幡宮牛玉は残存していません。
◆会報第81号より-02 牛玉宝印_f0300125_17172068.jpg
 次に相伝の宝珠印章をみましょう。
 その一つは、嶋村家に残った印章で、竹中友里代氏の調査報告によれば、火焔の光背に囲まれた「八」「卍」の印文があり、法量は縦9.8㎝、横8.4㎝のものです。いま一つは、最近、再発見されました石清水八幡宮相伝のほぼ同様の印章で、光背と二重郭内に「八」「卍」の印文が刻まれた、縦8.9㎝、横8.1㎝の宝珠印です。おそらく上記の版木とセットで残ったものと考えられますが、明治以降に神職として石清水八幡宮に奉職された、辻村氏が保存していた印章だったとみて間違いありません。辻村家は、嶋村家とひとしく近世の仕丁神人ですから、かれらには牛玉宝印の作成という重要な家職があったということができます。

Ⅳ 贈与と頒布

 石清水八幡宮の牛玉宝印について、文書上の表記・呼称を調べてみますと、
  ア)「牛玉宝札」
  イ)「御祈念牛玉」
  ウ)「御祈祷牛玉札」
  エ)「祈祷札」「御祈祷札」
などを確かめることができます。國學院大學図書館が所蔵する橘本坊の牛玉宝印には、「石清水八幡宮 御祈祷御札 橘本坊」の貼紙と、「(宝珠朱印)石清水八幡宮守護所」の短冊形の神札、向鳩の牛玉宝印に宝珠朱印が3顆捺されています。3セットで檀那に頒布されたものでしょう。
 このように、護国寺や極楽寺の供僧を勤め、境内の仏神事を実際に執行し、なお社内経営にかかわった坊人・社僧の坊舎は、延べて60舎ほど知られていますが、それぞれが檀那をかかえていました。たとえば、上記の橘本坊は足利将軍家・政所伊勢氏・政所代蜷川氏、小田原北条氏・古河公方足利義氏、橘坊は尼子晴久、泉坊は島津義久、滝本坊は豊臣政権、豊蔵坊は徳川家康・秀忠といったように、幕府、戦国大名、天下人までも檀那でした。
 いわば師檀契約に基づく、石清水八幡宮の取次坊だった坊は、牛玉宝印とともにいくつかの贈り物を神物として贈与、頒布しました。もちろん、返礼・報謝がありましたので、坊舎の経済基盤ともなりました。たとえば、牛玉宝印とセットで贈られたものには、巻数(祈祷報告書)・香水・扇・杉原・筆・紅帯、とくに武家には弓懸・菖蒲革が戦勝祈願に贈られています。
 贈与の例は、室町時代からわかりますが、その内実は、荘園の管理といった神領関係、戦国期の本社造営(幕府が守護大名に命じた国役としての勧進奉加)にかかわる寄進関係、また坊舎の師檀関係をめぐって史料がのこっています。

おわりに

 今回の報告について、最後に要約しておきたいと思います。
 その(1)は、石清水八幡宮の「八幡宮牛玉宝印」は、史料上、寛元2年(1244)が初見です。石清水八幡宮の本社、若宮、護国寺などの修正会および、護国寺・大塔・極楽寺などの堂舎で修二会が催行され、かかる神仏習合儀礼の場で神仏と結縁・結願された護符である「八幡宮牛玉宝印」が作成されました。
 その(2)は、石清水八幡宮の「八幡宮牛玉宝印」は、中世から近世を通して、主に版木によって刷られ大量に頒布されました。まれに墨書(肉筆)のものがありました。現在のこっている中世・近世の料紙から判明することは、まず字配りは、中央部に「八幡宮」、右側に「牛玉」、左側に「宝印」と見えます。また本社系と坊舎系とに大別できます。その特色は、本社系のものが、「八」と刻まれているのにたいし、坊舎系のものは、「八」を「神鳩」の意匠となっている点にあります。ついで、朱印で捺された宝珠印の印文については、「八」と「卍」が定型で、宝珠の中に小形の宝珠がある場合も見られ、なお1点だけ胎蔵界大日如来(種子)が確認できます。
 その(3)は、贈与・頒布からみた信仰経済の問題です。石清水八幡宮の「八幡宮牛玉宝印」は、戦国期以降、主に武家との師檀関係にもとづいて贈与・頒布されていました。中世末期における荘園制度の崩壊は石清水の場合も例外ではありません。社内の経済は、荘園経済からの転換がはかられました。とくに社僧である坊舎は、全国に檀那を抱え、参拝の取次や宿坊などの経営が主になります。その中世から近世への転換期の古文書から、戦国大名や天下人、幕府との信仰経済が確かめられました。

〔付記〕今回の報告については、拙稿「石清水八幡宮の牛玉宝印に関する一考察」(『東北福祉大学芹沢銈介美術工芸館 年報 8号』(2017年6月)を土台にしています。詳細についてはこの報告書をご参照ください。
 
『一口感想』より

永青文庫に残る島津の起請文のお話はとても面白かったです。それとともに檀那の契約が売買されたというのもび‘っくりです。 (K・B)
起請文として使われた牛王宝印のことを初めて知ることができました。ありがとうございました。  (T・Y)
 

<<< レポート一覧へ    ひとつ前の《講演会》レポートは⇒⇒

by y-rekitan | 2017-09-26 11:00
<< ◆会報第81号より-01 瀧本坊乗祐 ◆会報第81号より-03 古墳と鏡⑤ >>