◆会報第82号より-03 古墳と鏡⑥

シリーズ 「八幡の古墳と鏡」・・・⑥


八幡の古墳と鏡(6)


-王塚古墳とその副葬品の謎 -


濵田 博道 (会員)


はじめに 

 美濃山の王塚古墳の伝承について聞かれた方があるかもしれません。例えば、「継体天皇(6世紀前半、在位507~531?年)の陵墓である」あるいは「鳥羽天皇(1103~1156年、在位1107~1123年)の後宮美濃局の墳墓である」と。本当でしょうか。また、王塚古墳から八幡市内最多の13枚の古鏡出土と伝えられていますが、事実はどうでしょうか。さらに1927年(昭和2年)京都大学考古学教室へ「山城八幡大塚・・発見」品として、13の木箱に入った鉄製武器・武具類・土器などが寄贈されていますが、これらは王塚古墳出土品なのでしょうか。八幡地域では王塚古墳を最後に、50mを超える前方後円墳は築造されなくなります。なぜでしょうか。今回は謎の多い王塚古墳について考えてみます。

王塚古墳とは

 王塚古墳は宝寿院(ほうじゅいん)建立、その整地、竹林の土取り、民間人による発掘などのため大きく変形し、現在その面影をとどめていません。2010年までは円墳と認識されていました。大正9年(1920年)京都府発行の梅原末治「美濃山ノ古墳」『京都府史蹟勝地調査会報告第二冊』に概略次のように記述されています。

f0300125_15323199.jpg “綴喜郡有智郷村大字美濃山は八幡市志水の南に接して、木津川の西方、河内との境にある高台の一部を占める。この地には、昔の墳墓が少なくない。中でも最も有力なのは王塚古墳で、美濃山本郷の部落の東南隅にある。古墳は眺望のよい高台の端にある円墳(現在は前方後円墳と確認)である。”
 “その(後)円部について封土の直径は54mを超え、現存最高部の高さは9m程である。周囲は一段低くなっており、殊に南西の部分は、幅5~7mあって湟(ほり、堀)の跡かと思われる。大正4年(1915年)の頃、この古墳を発掘して、封土を縦断。基底部に達して、古墳は大きく変形している。頂部の中央に径7.2m、深さ1m前後の凹んだ所があるのは発掘によるものと思われ、その表面は小石を葺いた跡がある。封土の頂部を円筒埴輪列で取り囲んでいたが破壊の結果ほとんど見当たらない。西村芳次郎氏が埴輪の破断を所蔵していていたので存在は間違いない。”
 2005年~2008年にかけ八幡市教育委員会により範囲確認調査が行われ、その結果東側のくびれ部と埴輪列を伴う前方部一段目平坦面を確認したことにより前方後円墳であること、円部墳丘径は約62m、古墳全長は76m以上。古墳の築造年代は、出土した埴輪や副葬品から古墳時代中期前葉~中葉頃(400年代前葉~半ばごろ)であることが明らかになりました(注1)。この報告から時代的にみて継体天皇陵説や平安後期の美濃局の墳墓説は否定されます。ちなみに、継体天皇の陵墓は宮内庁では茨木市の大田茶臼山古墳と比定されていますが、高槻市の今城塚古墳を真陵とするのが定説です。美濃局の墳墓の所在地は不明です。

王塚古墳の埋葬施設と副葬品

 さらに梅原氏の記述を要約すると、次のようになります。
“内部の構造は古くから頂部に凹んだ所があって主要部は破壊されていたが、大正4年(1915年)の発掘で、封土頂部の北西端近くで地下60cm内外に粘土層があり、遺物を発見。埋葬状態の詳細は当時正確な調査を行える者がいなかったので不明だが、これを実見していた西村氏の略図によると、遺物は東西に長く埋納されていて、その施設は7.3m、幅は約1.8m。中央に冑(かぶと)、その両側に十数口の刀剣、鏃の類。東方の剣に接して漢鏡一面、玉類、兜(かぶと)一個。兜の東に鉄鏃、東南に鎧(よろい)一領。西方の刀剣の西には同じく兜一個、鏃などがあり、左右均勢の状態。四隅には斧頭各一個。武器類は特に豊富。これにより被葬者は男子だと推定。鏡は面径13.6cmの二神二獣鏡が出土。香川県香川郡鶴市御殿山の積石塚から出土した獣形鏡と同一手法。中国での製作を示す銘文があるが、五世紀のものと認められる。”
この記述から埋葬施設は後円部頂部と北西端の計二基と考えられます。

王塚古墳出土の武具・武器・鉄鏃

 昭和2年(1927年)9月「山城八幡大塚・・発見」品として13の木箱が京大考古学教室へ寄贈されました。京大総合博物館では1997年春の企画展「王者の武装-5世紀の金工技術」においてこれらの品々の一部を展示し、図録で6ページにわたって解説と写真を載せています。しかし、13の木箱の遺物には明らかに時期を異にするものも含まれており、すべてが同じ古墳から出土したものかどうかわからないといいます。また、元所有者(西村芳次郎氏)は東車塚古墳の遺物も所有しており、「大塚出土品」には梅原末治氏による「東車塚古墳」報告の出土品と掲載された鉄器が含まれていること。東車塚古墳では鏡以外の遺物については詳細不明で現在も不明なこと。よって、「大塚出土品は東車塚古墳出土品に当たり、その中に王塚古墳出土品が混在している」との見解を示しています。
これに対し、2010年八幡市教委発行『八幡市埋蔵文化財発掘調査報告書 第54集』では「(木箱には東車塚古墳の出土品も混じっているが)遺物の多くは王塚古墳出土と考えられる」としています。その理由として①王塚古墳の所在地は字美濃山小字大塚であり、資料名は王塚古墳の小字による可能性が高い。当時、既に東車塚古墳、王塚古墳の報告書があるので、東車塚古墳のことを単に「大塚」とするとは考えにくい。②末永雅雄『日本上代の甲冑』(1934)に、「八幡町大塚古墳出土」として東車塚は「衝角付冑(しょうかくつきかぶと)、短甲(たんこう)」、王塚は「衝角付冑(三角板革綴(かわとじ))、短甲頸鎧(くびよろい)、肩鎧(かたよろい)、草摺(くさずり)」と分けて記述されている。これらは京大所蔵資料と符合する。③冑甲は大正4年の西村氏による王塚発掘実見数と京大所蔵資料と矛盾しないことを挙げています。そして「甲冑は王塚古墳のものと推測されるが、武器・農工具類は東車塚古墳出土品混入の可能性が高い」としています。(八幡市民図書館に『報告書』有。)意見が分かれています。
 西村氏は当時、京大考古学教室の梅原末治氏、末永雅雄氏、島田貞彦氏らと交流がありました。(後に末永氏は関西大学教授、橿原考古学研究所所長、文化勲章受章、「考古学の巨星」といわれました。島田氏は京都大学教授。)末永氏は著書で次のように述べています。「昭和2年の夏か秋と記憶をするが、京都府山城八幡付近の横穴調査の実習に出かけたことがあった。八幡からよく考古学教室に来られた西村芳次郎氏の家で泊めて頂いたときに、八幡大塚出土で石油箱一杯の鉄製品破片があり、それがほとんど短甲関係であった。」「私は箱の中から目ぼしいものを選別して持って帰り、教室で整理をはじめた。その中に細片だが、亀甲形の小さな鉄製品があったので、その形を詳しく見ると、胴部に四個の小穿孔(しょうせんこう)があり、少し開いた一方に三脚らしいものの折れたあとが残るので、これは何らかの装具とみるべきだとして、はじめて三尾鉄(さんびてつ)(注2)の存在を知った。」(注3)
 末永氏が西村氏から貰った遺品類は時期的に見ても現在の京大考古学教室所蔵の「八幡大塚・・発見品」と推定され、その品々の中から末永氏が冑の三尾鉄を発見、上代の武器武具の研究に貢献しました。木箱の鉄鋌(てつてい)には紐を掛けて束ねた跡があり、鉄鋌の大量副葬は朝鮮半島の新羅や伽耶の地域の古墳で盛んに行われた風習であること、革綴冑が朝鮮半島南部の古墳から多数出土していること(京大博図録)から、朝鮮半島南部の勢力との関連が考えられています。5世紀の国内製鉄遺跡は発見されておらず(最初の製鉄遺跡は6世紀後半)、鉄製品の元となる鉄鋌は朝鮮半島南部からの輸入品です。その入手に八幡の勢力がどうかかわっていたのか興味深いところです。

(伝)王塚古墳出土の筒型銅器

 次に(伝)出土品とされるものに筒型銅器(つつがたどうき)があります。
「(筒型銅器とは)長さ10cm程度の筒状をなす青銅製品。一端がふさがり、他方には目釘(めくぎ)孔を伴う。普通四方に細長い透かし孔を2段に開ける。用途は不明だが、杖頭(つえがしら)や柄頭(つかがしら)もしくは石突(いしづき)[柄の端を包んだ金具]として用いられたと推定されている。内部に棒状のものが入る例もあり、鈴としての役割を果たしていたらしい。前期古墳から出土するが、朝鮮半島でも金海大成洞(きんかいたいせいどう)古墳群をはじめ、洛東江(らくとうこう)流域に分布し、もとはこの地域で製作されたという説がある。」(『日本歴史大辞典』小学館)
筒型銅器は王権の威信財とされ近年注目されています。韓国・伽耶(かや)地方の古墳から68本、日本では前期半ば~中期前半の古墳から73本出土しています(注4)。(伝)王塚古墳出土の筒型銅器は松浦武四郎氏の『雲烟過眼録』に、美濃山出土として「中国の鐓(いしづき)に相当する筒形の銅製品」として載っています。前期古墳からの出土が多く、中期の古墳から出土するのは稀で、八幡では唯一の出土品です。

(伝)美濃山の古墳出土鏡

 梅原氏は “地元の人からの古伝は何もなく不明だが、神田孝平男氏所集の『東堂雑集二』に八幡美濃山からの出土鏡の記述がある”と述べています。この書に「天保六年(1835年)四月城州(山城国)八幡美濃山掘出古鏡」として虁鳳鏡(きほうきょう)1、内行花文鏡3、方格規矩鏡(ほうかくきくきょう)2、半円方形帯渦文鏡2、半円方形帯神獣鏡1、鼂龍鏡(だりゅうきょう)2、変形神獣鏡1の計12枚の鏡が記録され図版が載っており、大正4年出土の二神二獣鏡と合わせると、鏡は13枚になります。(しかし、すべて現物はありません。)これらの鏡がなぜ王塚古墳出土といえるのか。梅原氏は美濃山でこれほど多量の鏡を副葬するのは王塚古墳しか考えられないといい、以後、鏡は王塚古墳出土(推定)とされてきました。

f0300125_1530957.jpg しかし、前掲の八幡市教委『報告書』では、“天保六年出土と伝わる鏡12面は拓本だけが収載されているが、出土地については「美濃山」と記録されているだけで、王塚古墳の出土品と限定することはできない。王塚古墳の南西100mには、朱を伴う主体部が出土したと伝えられる小塚古墳の存在も知られているし、美濃山の丘陵裾から北西の大字・内里にかけては、開発により早くに失われた古墳もあって慎重な姿勢が必要であり、王塚古墳出土とは限定できないだろう。”と疑問を呈しています。
 確かに美濃山・内里地域には、王塚古墳・小塚古墳の他にも鏡が出土したとされる三ツ塚古墳や内里古墳、東京国立博物館に獣形鏡が所蔵されている西ノ口古墳、東二子塚・西二子塚古墳、さらに御毛通古墳、柿谷古墳、内里池南古墳、女谷・荒坂地域には多くの横穴墓があります。しかし、これらの古墳の中には開発や竹林の土取り・土入れなどで消滅しているものも多く(東二子塚古墳は美濃山幸水の史跡公園に復元、柿谷古墳・横穴墓については発掘)、古伝もなく、12枚の鏡とこれらの古墳の関連は不明です。いずれにしても、これらの鏡が美濃山・内里地域の古墳から出土したことは間違いなく、この地域は八幡の古墳時代を解明する鍵を握っているといえます。

(伝)王塚古墳出土鏡

 梅原氏は(伝)王塚古墳鏡を概観して、“日本で製作されたもので、種々の形式を含んでいる。鏡の種類は多様で、その各原型の年代は必ずしも一致しないが、これをまとめてみた時、何れも相接する時期に製作したものと見るのがよく、その製作年代としては中国の六朝初期より中期(3~5世紀)にわたる時期だろう”(前掲書要約)と述べています。

①虁鳳鏡(きほうきょう)
 日本では虁鳳鏡の出土数は全国で約30枚と少なく、京都府下では2枚(八幡市と城陽市上大谷6号墳鏡)が確認されています(注5)。それだけに貴重です。虁鳳鏡は次のように解説されています。
「虁鳳鏡(きほうきょう) 裏面に鳳凰が翼を広げたように見える竜形の文様をつけた青銅鏡をいう。後漢のものが多い。虁(き)というのは竜のようで一本足、また牛のようで角がなく、水に出入りすると風雨あり、その光は日月のごとく、声は雷のようだといわれている。中国では漢代から六朝時代の墳墓、朝鮮では楽浪古墳、日本では弥生時代の遺跡あるいは古墳からも出土している。」(ブリタニカ国際大百科事典)
 中国を代表する考古学者王仲朱氏は虁鳳鏡を卑弥呼の鏡百枚の一つであるといいます。「河南省の洛南を中心とする中国の黄河流域の各地で出土した二世紀の後漢、三世紀の魏晋期の銅鏡の種類から判断すると、魏王朝が卑弥呼に賜った百枚の銅鏡は、『方格規矩鏡』『内行花紋(花文)鏡』『獣首鏡』『虁鳳鏡』『双頭竜文鏡』、それに『位至三公鏡』などであるに違いありません」(注6)というのです。
 前掲書で梅原氏も(伝)王塚古墳出土の“長宜子孫(銘)虁鳳鏡は最初に紹介すべき遺品で、日本の古墳から出土するのは稀である。径12.7cm、紐座より四葉紋(しようもん)を出し内区を四つに分け、その文様間に長宜子孫(ちょうぎしそん)の銘がある。」と述べています。梅原氏は仿製鏡(ぼうせいきょう)であるといいますが、『鏡と古墳』(京都府山城郷土資料館ら, 1987)では舶載鏡としています。

②内行花文鏡
 内行花文鏡は3枚あり、うち1枚は「君宜高官(くんぎこうかん)(君、高官に宜しい)」銘の鏡です。梅原氏は「この鏡は出土の際、破砕したとみえ、拓本では周縁がことごとく欠け、残存しているのは内区のみである。従って原形は明らかでないが復元すると面径約15.2cmである」(前掲書要約)と述べています。現在は「欠損11.5cm」(注4)、舶載鏡(『鏡と古墳』)と報告されています。
 紐(まん中のつまみ)のまわりに蝙蝠(こうもり)のような文様があり蝙蝠紐座(こうもりちゅうざ)内行花文鏡と呼ばれています。東車塚古墳から出土しているのは四葉紐座(しようちゅうざ)内行花文鏡といい、同じ内行花文鏡でも紐まわりの文様が違います。時代的に見て、四葉紐座の文様は長い期間作られます。両方とも弥生時代の鏡ですが、蝙蝠紐座は相対的にやや新しく、九州地方の弥生時代の遺跡をはじめ26枚しか出土していません。「長宜子孫」の銘文が入っているものが多いですが、(伝)王塚鏡は、「君宜高官」銘です。安本美典氏は卑弥呼の鏡の一つだと述べています(注7)。
 残りの10枚の鏡のうち、1枚は舶載の方格規矩四獣鏡で、9枚は仿製鏡とされていますが、今回は紙数の関係で割愛します。虁鳳鏡にせよ内行花文鏡にせよ、(伝)王塚古墳鏡の2枚が卑弥呼の鏡の候補とされていることは注目されます。
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王塚古墳以後の八幡地域の古墳について

 八幡地域ではこの古墳を最後に大形の前方後円墳が造られなくなります。その後は、大芝古墳や東・西二子塚古墳、柿谷古墳など小規模な円墳・方墳が築造される程度で、大規模な古墳の築造は木津川右岸・城陽市の久津川古墳群の地域に移っていきます。右岸も交通の要衝にあり、そこがヤマト王権の重要拠点になります。なぜ八幡で古墳が築造されなくなるのか。衰退の理由の一つとして、農地などの拡大ができなかったのではないか、といわれています(注8)。確かに弥生時代から内里八丁遺跡の田圃跡など農業生産がおこなわれていましたが、大規模な灌漑工事などの跡は見つかっていません。標高もそれほど高くなく、平野も限られ、大河川傍であるため、ひとたび洪水が起これば農業は大打撃を受けました。それに引き換え木津川右岸地域は八幡地域より標高が高く、『日本書紀』仁徳天皇12年(5世紀はじめ)10月の条に「栗隅県(くりくまのあがた)(城陽市・宇治市にかかる広範な地域)に大溝を掘って田に水を引き、これによってその土地の人々は毎年豊かになった」との記事があります。十分な標高、広い土地の開拓、交通の要衝などが揃います。理由の二つ目として、王権の政変の中で衰退したことが考えられます。左岸地域は佐紀盾列(曾布)の王権勢力と密接な関わりがありました。八幡の古墳から威信財の鏡、腕輪型石製品、刀剣、鉄類などが出土しています。しかし、ヤマト王権内部の主導権も時代を追い、大和東南部・佐紀盾列→河内の百舌鳥・古市の勢力へと変化していきます。魏・東晋が衰退し楽浪郡・帯方郡が滅びると大和東南部の勢力は衰退し、替わって鉄の獲得などで朝鮮半島南部との交渉にあたっていた政権内部の河内の勢力(百舌鳥・古市の勢力)が台頭し、内部での王権の移動が起きます。こうした中、八幡の勢力は新・旧の王権への対応に混乱が生じ、新勢力と連携ができなかったのではないかと推察されます。都出比呂志氏は次のように述べています。
 “巨大前方後円墳が大和盆地東南部から、大和盆地北部へ、そして河内へと移動した四世紀末から五世紀初頭、日本列島の多くの地域でも古墳の動向に大きな変化が生じる。瀬戸内沿岸や日本海沿岸に大前方後円墳が築造される。そして武器や武具の発達が顕著になる。三角板革綴短甲とよぶヨロイが各地の首長間に急速に普及する。これらの首長たちは、この時期の朝鮮半島の政治的緊張に備えて倭政権の中枢が同盟を結んだ有力な地方首長であるか、畿内中枢からの派遣者であった可能性がある。一方、それまである系譜が前方後円墳を代々築いてきたのに、古墳を築造しなくなったり、円墳しか造らなくなったりすると同時に、このような変化のあった系譜のすぐ近隣の、別の系譜の首長一族が大きな前方後円墳を築造するという変動が起こる。これは、一つの地域を治める首長が交代したことを意味し、一地域のみの独立した動きではなく、列島規模で一斉に起きていること、巨大前方後円墳が大和から河内に移動する時期であることを重視すると、列島規模の政変と考えるべきであり、大和を根拠地とした政権中枢が河内に拠点をもつ政権中枢とそれを支える別の地方有力首長の同盟により政治的イ二シャティブを奪われたと考えることができる”(要約)(注9)
 つまりこうした情勢の中で、木津川左岸の八幡の勢力も政変の中で衰退し、右岸の久津川車塚の勢力にとって代わられたのではないかと考えられるのです。
次回は、「ヒル塚古墳について」考えてみます。


(注1)八幡市教育委員会『八幡市埋蔵文化財発掘調査報告書 第54集
王塚古墳範囲確認発掘調査(第1~3次)報告書』,2010
(注2)冑の頂に飾りとして付けられた尾が三つに分かれた鉄器。分かれた部分に羽毛が付く。身分の高いことを表したものか?呪術的な要素有か?
(注3)『末永雅雄著作集5 遺跡調査と大和・河内』,雄山閣,1990,P234~P235
(注4)田中晋作『筒型銅器と政権交替』,学生社,2009
(注5)『国立歴史民俗博物館研究報告 第56集』,1994
(注6)『三角縁神獣鏡と邪馬台国』梓書院、1997
中国を代表する考古学者である徐苹芳氏も次のように述べています。
「幅広い調査発掘の成果によって、魏及び西晋時代の中国北方の銅鏡は、ことごとく方格規矩鏡・内行花紋鏡・獣首鏡・虁鳳鏡・盤龍鏡・双頭竜鳳凰文鏡・位至三公鏡・鳥文鏡などであることが立証されました。よって、わたくしたちは、邪馬台国の女王卑弥呼や、その後継者が中国から得たところの銅鏡は、以上挙げた種類の範囲を超えることはあり得ないと考えるのです。」(『三角縁神獣鏡の謎』角川書店、1985)
(注7)安本美典『「邪馬台国畿内説」徹底批判』,勉誠出版,2009
(注8)『八幡市誌第一巻』,八幡市,1986
(注9)都出比呂志『古代国家はいつ成立したか』,岩波新書,2011
都出比呂志『NHK人間大学 古代国家の胎動』,日本放送出版協会,1998


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by y-rekitan | 2017-11-27 10:00 | Comments(0)
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