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◆会報第82号より-02 森本家文書

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《講演会》
森本家文書からみた
近世石清水の神人構成と身分


2017年10月 八幡市文化センタ-第3会議室にて 

竹中 友里代(京都府立大学特任講師)

 
 10月15日(日)、午後1時30分より、八幡市文化センター第3会議室にて「講演と交流の集い」が行われました。表題のタイトルで京都府立大学の竹中先生に講演をしていただきました。先生は以前に八幡市教育委員会文化財保護課に勤務され文化財保護行政に当たられましたので、八幡市の文化財には精通されています。
 概要を以下に紹介いたします。当日の参加者は47名でした。


1.森本家文書 六位禰宜

 ◆会報第82号より-02 森本家文書_f0300125_15372114.jpg今日は江戸時代の石清水でどんな神人がいて、どんな仕事をしていたのか身分的なお話をしたいと思います。
 森本家文書については一昨年府立大学の学術報告書に掲載していて、インターネットでも見ることができます。興味のある方はご覧ください。
森本家というのは森という所を本拠地としています。
森町
男山考古録に「山路郷 檀所町の東 当地の一所森にありて、その名負いけん、今も当所の居住の社人に森本・森元なと称せり」とあり、立田牧場があった場所が森本家の屋敷跡と聞いています。
森本信魚については、「尚次若かりし時、当町森本信魚師として神道を学び道開く」と考古録の著者長濵尚次に指南した先生であったと記されています。1700年代の中頃に描かれた石清水八幡宮全図を見ると森町には多くの寺庵があります。徳川家康から朱印状を頂いている、浄土宗36ヶ組寺としては、観音寺、奥庵(大禰宜能村仲民建立)・玉樹院(森本三郎兵衛建立)・薬薗寺・瑞光寺等がみられますが、その内の薬薗寺については森本家と柏村家が寺の経営に関わるなど、江戸時代中期頃までは寺の建立にも多くの神人が関わっていました。
森本家25代信富(のぶあつ)は、自宅を森本蚕桑館とし、養蚕の研究を行い、明治23年養蚕伝習所委員となり、南山城の養蚕導入に尽力しました。なお、信富の養父信德時代に姓を森元から森本に統一しました。
森本家の文書は52点(神道伝授・祝詞・その他)が確認されていて、特筆されるのは石清水八幡宮補任状で16点が残っていて、その殆どが檀紙(縮緬様の皴がある)で格式の高い紙質です。

2.公文所

公文所とは公的文書を保管・処理する役所ですが、石清水では、天慶2年(939)三綱が設置され、それを公文所のはじめ、としています。
公文所は所司の三綱(上座・寺主・都維那)の上座に位置し、室町時代以降は上野家が代々勤めています。
年中行事・遷宮・将軍社参等の奉行を務め、山上山下僧俗諸神人の執頭であり、補任状交付や成文での神人召請、神人装束の管理を行ない、正月には立松飾・注連縄飾を行っています。
宮寺の公印、いわゆる「正印」は行教自作とされ、行教の身体と同じとして神格化され、将軍や尾張家に献上する祈祷神札には正印が使用されています。
正印は頓宮殿厨子内に保管され、祭列では御正印唐櫃として参列します。
補任状に押されている正印の数を見ると天正元年27顆、寛永11年8顆と中世の書式を踏襲したものから、寛文5年頃には正印1顆となり次第に近世的に様式化していく様が窺えます。
公文所は現在の石清水八幡宮五輪塔(重文)の南辺りにその跡地が記されていますが(石清水八幡宮全図)、寛永9年頃に倒壊したため、当時の田中家の東隣辺りに移転し(石清水八幡宮境内図)、そこで政務をとっていたと思われます。
上野家には、院専―院玉―‥‥―院秀―院芳―紀清慶(慶応4年の維新時に復飾)が確認されている。代々「院」を通字にしています。


3.石清水の外他領神人

 近隣自治体からも久御山、交野市、城陽、京田辺(駕輿丁・御綱曳・御前払・火長陣衆・駒形‥)の神人が奉仕しています。
 石清水坊領として内里村横坊30石、寺田村閼伽井坊15石、鴨川村公文所14石の所領があり、中世荘園の神領として古来より奉仕を通して石清水との関係を継続してきました。
勅祭奉仕では、百姓身分では許されない装束を着用し、村社会で特化した地位を示すことができました。
 具体的な一例として松井村の袖旗神人(御旗神人)の場合、祭礼に際して三韓征伐、神功皇后の袖を袖旗神人の長が箱に入れて奉じ、諏訪ケ原(諏訪明神勧請)で採取した榊を持って長の前後に従っています。(交野市教育委員会『石清水八幡宮放生会絵巻調査報告書』)
 松井村には、氏神の宮座(大座・新座)のほかに八幡座があり、御旗神人が石清水の祭礼奉仕後に、八幡座の頭屋の床の間に神饌・掛軸を、庭には「オヤマ」と称する(オハケ)を飾り、祝詞・拝礼をした後に直会となります。勅裁奉仕した後、村方でも祭祀を行う興味深い事例です。

 他領神人の補任状「宮寺符」は以下の時期に交付されます。
放生会(8/11)、安居神事(12/11)、御神楽(11/2)などの祭礼参勤時。
本社遷宮儀式の際。(元禄6年9月26日、安永7年7月22日)
 元禄6年9月19日には儀式の事前に社務新善法寺晃清による正遷宮儀式参勤命令、公儀普請の為検校による命令書として「宮寺政所下文」等が出されています。 
さらに不定期には家督相続の際にも交付されています。

 
4.石清水神領居住神人

 神宝所神人(神庫の管理、菖蒲革献上)・宮工司(大工)・仕丁座・宮守・神楽座・安居百姓等があり、特長としては徳川家康領知朱印状を持つことがあげられます。慶長5年5月25日付けで361通の領知朱印状が安居神事勤仕を条件に大量に発給されましたが、これは全国的にもめずらしい事例です。
 朱印状所持の神人が安居神事の頭役を勤めることになりますが、安居神事頭役には①宮寺符・安居頭役補任、②安居頭役差定「小差符」(命令書)、③堂荘厳宝樹預差定「木差符」(ご神木の許可) の3種の補任状が出されます。
 駕輿丁美豆下司神人の大森家には、家康朱印状6石8斗や補任状(寛文5~文政12年8通)、文化5年美豆村西堤で行倒人届、天保14年諸商人商物値段書(天保改革による諸品の値下げ)、町法度倹約之事等の古文書が伝わっています。
 八幡宮外四郷の内、大坂(京)への街道沿いの淀大橋の橋詰にあった美豆村は、元美豆村から町美豆へと発展しましたが(石清水八幡宮全図)、大森家は村の年寄として、村政に関わる神人でした。

5.六位禰宜

◆会報第82号より-02 森本家文書_f0300125_16433735.jpg 森本家は、朱印状源左衛門6石9斗8升ですが、別家に朱印状与次郎48石7斗6升があり、役割として神前瑞垣の内で神官を補佐していました。
 同様に神官を補佐する四座神人(他姓・六位・大禰宜・小禰宜)の内、大禰宜の能村氏は「放生会の時、御こしの戸口を符申候御倉の鑰(かぎ)の役」、小禰宜の奥村氏は「御供を宮守より請取、六位他姓へ渡申、神輿をかさり申候御役人にて御座候」とあり、宮守が用意した神供を禰宜から受取り神前に供える役割を担っていました。
 
 神道伝授について、明和9年(1772)白川伯王家神道門人の小川玄蕃より、鳴弦の儀が森本家に伝授されています。
 また寛政4年(1792)武末霊社(社務田中要清)百年忌に際しては、吉田神道家吉田良倶より三壇妙行の神道儀式を伝授された田中養清に森元信良が従っており、森本家が神道祭祀に詳しい家であることが判ります。
 信恵(信魚)は天明8年(1788)新賀差定により神職神人身分を得、翌寛政元(1789)斎服免許を受けました。また文化14年(1817)息信邑へ家督を譲るに当り社務検校善法寺立清・田中家・新善法寺家へ挨拶と進物を行っています。
 公文所・兼官からは公文所安居頭人補任状(宮寺符)、斎服免許状〈裃着用にて受取る〉、社務(長吏)の袖印を受け、検知の紀直養からは新賀差定を受けて、神官としての神人身分の証を得〈狩衣着用にて受取る〉、放生会・御神楽・遷宮では神官系神人として勤仕しています。嘉永6年の放生会においては森本内蔵助・駿河一・二の鳳輦御太刀持ちをしています。

6.検知 

 神官三家(俗別当・神主・検知)は、紀氏が世襲し、鳳輦にそれぞれ供奉します。
 神前での祝詞奏上を三家が行います。
 俗別当家は慶安5年(1652)以降徐々に衰退していったようですが、詳しくは俗別当家の文書が出てきていないのでよく判りません。◆会報第82号より-02 森本家文書_f0300125_1741196.jpg
 検知家代々としては紀朝臣検知氏家―検知大夫紀宿祢豊親―公豊―土佐守紀季豊―土佐守紀豊高―若狭守紀豊房―従五位下若狭守紀直養(正四位下近江守紀朝臣直養)―従五位上筑後守紀豊興が確認できます。
 補任状交付の謝礼金が収入源であり、豊かな神人からの援助もあったようです。

7.神官系神人の系譜と身分構造

 僧形の社務検校が神領全体を支配しますが、別当が検校補任によって当職となり、三家廻職により将軍代替り毎に交替します。
 石清水の役所としては所司という事務方が存在し、以下の構成となっていました。
 ・公文所:僧官の上野家が担当。
 ・絵所:僧官の藤木家(善法寺家の家臣)が担当。
 ・判官:俗官の片岡家(田中家の家臣)が担当。
 ・御馬所:俗官の今橋家(新善法寺家の家臣)が担当。
 ・巡検勾当:近世には俗官の小笹家、花井家、片岡家などが担当。
 また検校に付属する兼官の職があり、訴訟や幕府からの触れや事務連絡の窓口となり統治の実務を統括していました。藤木・片岡・今橋家が勤めましたが、社務家家臣、判官などの事務方や検校の秘書的役割を兼ね、検校交代と同時に兼官職も交代しています。
8.むすびにかえて

 公文所からは宮寺符の補任状、検知からも新賀差定・補任状等が交付され、神人が勤仕する儀式・補任状の種別によりにより、以下の神仏の身分的分別がありました。
僧侶系:別当・権別当修理別当 四十八坊‥‥承仕
公文所 安居本頭神人・安居脇頭神人・安居百姓‥‥他領神人
神官系:俗別当・神主・検知 四座・宮守…仕丁

 文化9年(1812)長濱尚次が本殿修復作業に着手する儀式で祭文を読み上げましたが、若干19歳の尚次に大工棟梁としての祭文作成や祭儀の次第等の手ほどきをしたのは森本家でした。森本信德は明治に入って神仏分離の困難な時代に主典として八幡宮の再生に尽力し、また森本信富は南山城に養蚕事業を導入するなど、森本家も代々八幡に大きな足跡を残しました。
以上 (文責 谷村勉)一一


『一口感想』より

今日のお話にもとづいて、神幸之図を見てみたいと思います。
(B.K.)
江戸時代八幡森に足跡を残した人がいたことがわかりました。私が住んでいる所が家田町、田中町の東となりです。もしかしたら、公文所のあった場所の上に私の家が建っているかも知れません。勅祭のこともわかりました。今は神人役がいないので大変です。八幡のことを再発見しました。用事が重なり参加出来ないことが多いですが、時間が空けば勉強させていただきます。
(T.M.)
今日のお話はちょっとむつかしい。また、ちがう切口、観点でお話が聞きたい。有り難うございました。
(K.T.)


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by y-rekitan | 2017-11-27 11:00
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