秋が深まったころ、ヒル塚古墳を訪ねて歩きました。古墳の所在地は八幡市美濃山ヒル塚38番地です。しかしその場所に古墳の面影はありません。小字ヒル塚の国道一号線脇を歩いていると畑作業をしている老人に出会ったので古墳のあった場所について尋ねてみました。「ヒル塚古墳を探しているんですが、この道路前にある家具屋さんの辺りにあったんですか?」「そうそう。ここの前がヒル塚古墳。あそこに金森商店の看板が見えるやろ。あそこあたりから急にせりあがってきて、こんもりしとった。はっきり古墳の形はしとらんかったけどな。ここは竹やぶだったんよ。大がかりな(国道1号線の)工事もあって、すっかり変わってしまった。昔とは全然違うよ。この畑の縁も2mぐらいグッと落ち込んでいてね。土もりをして、畑にしたんだ。あそこの住宅の処も全部土もりしているんだよ。」ヒル塚古墳のあった場所は現在大型家具店になっています。案内板があればわかりやすいなと思いました。 古墳の発掘は、1989年1月から半年をかけ八幡市教育委員会が主体となって本格的に行われ、2002年に再度範囲確認調査が行われました。 最近ヒル塚古墳出土の埴輪の研究も進んできており、八幡地域と王権の関わりを示す重要資料とされ、注目を集めています。発掘調査の詳細は八幡市教育委員会発行『ヒル塚古墳発掘調査概報』(1990)に掲載されていますので、その報告書を中心に考えてみます。 ヒル塚古墳は中世以降に数度にわたる盗掘を受けています(注1)。梅原末治氏は美濃山田村喜太郎氏の話を聞いて次のように記述しています。「この塚、今より24,5年前(明治後期、1895年ごろ)に発掘して刀剣鋒などを出せりといい、今なお封土の中央に一大凹所を存す。(注2)」 ヒル塚古墳についてはこれまで何度か調査され記述されています。 1919年(大正08年) 京都大学島田貞彦氏 前方後円墳として地図を作成。 1923年(大正12年) 京都大学梅原末治氏 円墳と指摘。 1928年(昭和03年) 『八幡名跡名勝誌』 前方後円墳と記述。 1972年(昭和47年) 『京都府遺跡地図』 円墳と記述。 1974年(昭和49年) 山城考古学研究会 方墳と指摘。 1977年(昭和52年) 大阪教育大学江谷寛氏 「造り出しを持つ方墳」の 1977年(昭和52年) 大阪教育大学江谷寛氏 可能性を指摘。 そして1989年1月から半年をかけ八幡市教育委員会が主体となって本格的な発掘がされ、2002年に再度範囲確認調査が行われました。その結果、次のように報告されています。 ”方墳。一辺52m以上(注3)。高さ7.5m、三段築成。一段目テラス上で葺石(ふきいし)・埴輪列検出。幅14mの周溝を持ち、方墳としては府下最大級。埋葬施設は2基の粘土槨〔礫床(れきしょう)、小石の床〕と円筒棺から成る。 第1主体部は盗掘を受け、南半分の粘土施設は破壊されていた。墓壙は9m×12m・深さ3.5m。上面より1.5mのところにテラスを両側に設ける二段墓壙。礫床は50cmの厚さで敷設し、上面には赤色顔料が認められた。周辺から鏡と鎗・剣・刀等の鉄製武器類が出土。特に、粘土床側面出土の渦巻状装飾付き鉄剣(全長38.8cm)は、前例のない遺物として注目を集めた。盗掘坑からも、渦巻の一部が出土している。棺は外径が80cm、長さが推定で7m強の割竹形木棺である。第2主体部は第1主体部の東辺を切り込んで造られ、墓壙(ぼこう)は8m×4.5m・深さ2.5m以上。東側の長辺のみテラスを設ける。粘土槨であるが、第1主体部より一回り小さく、赤色顔料が散布されているが大幅に省略されている。盗掘などの攪乱は受けておらず、棺外より方格規矩鏡と鉄剣、周辺から短剣・工具類が出土。 第3主体部の円筒埴輪棺は主軸が第1主体部と同方向。口縁部を北にして第1主体部の南東部に埋置。上面を粘土で被覆。棺の円筒埴輪は高さ1m・口径40cm・底径30cm。透かし孔は無いので、棺に使用するために作ったようだ。 古墳の築造年代は副葬品や埴輪等から考えて、4世紀後半~末と推定される。”(要約)(注4)。 ヒル塚古墳と聞いて、まず気になるのはその名前です。前掲書『概報』で八幡市教育委員会の桝井豊成氏の解説によると、ヒル塚の地名の初見は1600年(慶長5年)の検地帳で、1588年(天正6年)には「ヒルツカ、ひるつか」という地名が使われていたとあります。ヒル塚の「ヒル」とは何を意味しているのでしょうか。江戸時代末期に書かれた長濵尚次『男山考古録』巻14の「月夜田」の項に「その所(=月夜田)の東南に比留塚というのがあり、うず高いところにある塚である、これは月夜見に対した名のようだ、長老の話ではここは昔、日孁命(ひるめのみこと)神社があったというが調べてみる必要がある。」とあります。月夜田は月見にいいところだが、その「月」(=夜)に対しての「ひる」というわけでしょうか。日孁命に関しては、西宮一民校注『古事記』(新潮社)の付録に381の神名とその説明がありますが、日孁命という神は載っていません。似た名前で、『古事記』にイザナギ・イザナミ二神の間に最初に生まれた子で(水)蛭子(ひるこ)がいますが、関連があるのかわからないです。名の由来をご存知の方がありましたら、教えていただきたいです。 このシリーズでみてきた西車塚古墳・東車塚古墳・石不動古墳・美濃山王塚古墳は鍵穴のような形の前方後円墳でした。しかしヒル塚古墳は方墳(平面が方形の古墳)です。前方後円墳と方墳の違いについて大阪大学名誉教授都出比呂志氏は次のように述べています。 「古墳時代になると地方の有力首長は、頂点に立つ中央政権の下で、権力構造に組み込まれ、身分が定まり、その定まった身分の表現が古墳の形で表現された。それは古墳時代を通じて墳形には前方後円墳、前方後方墳、円墳、方墳の4つの基本形があり、前方後円墳が最優位で、最後に方墳というような階層構造になっている。そして同じ墳形でも規模の差があり、大きいほど優位である。よって、被葬者の身分は墳形と規模との二重の基準で表現された。江戸時代の大名が徳川家との親密度を基準に親藩、譜代、外様と格付けされ、かつ実力は石高で表示されたこと、外様のなかにも伊達氏や前田氏のように大きな石高をもった大名がいたことと似ている。(注5)」(要約)。 ヒル塚古墳は方墳ですから、4段階の最下層型式です。 当時の王権との結びつきはそれほど強固ではない。また地位もそれほど高くない、と推定されます。しかし、一辺50mを超す京都府下最大級の方墳で、全国で2例しか出土していない渦巻状鉄剣をはじめ、円筒棺、埴輪類、鏡、鉄製武器類が出土しています。「三段築成、葺石、円筒埴輪列」という“王者の墓”の三要素を備えた「想像以上の大規模な方墳」(京都府教育庁文化財保護課、久保哲正氏)(注6)ということを考えると、この八幡地域の首長(王)だったと考えられます。次に、副葬品について考えてみます。 前掲の『概報』や『京都府埋蔵文化財論集第二集』によると、“埋葬施設第2主体部の頭側の棺外から長剣・短剣の下に鏡面を上にして出土。面径は14.4cm。鏡名は方格規矩鏡。銅鏡は全体に緑青におおわれており、剣類と接していた部分には鉄さびもみられたが遺存状態がよく、鏡背には繊維が付着している。鏡背の図像は、紐(ちゅう)を中心につぼみのような四葉座を配している。”(要約)とあります。方格規矩鏡について考古学辞典では、 「中国において前漢末期から三国時代の頃(0~280年頃)に発達した鏡の型式。日本では弥生時代・古墳時代に見られる一種。大正から昭和の初頭にかけて、TLV式鏡といわれたもの。内区が方格と規矩文(規はT字形でコンパス・円・陽を表し、矩はL字形で定規・陰を表すとされる)によって分割されていることにより、方格規矩文と名づけられ、現代この名称で用いられている。方格と規矩そのほかに細線によって四神や霊獣や禽鳥〔きんちょう(鳥類)〕や渦文〔かもん(渦巻きの文様)〕が配されている。このような方格規矩の文様の間にほどこされた図文等の種類により方格規矩四神鏡・方格規矩獣文鏡・方格規矩鳥文鏡・方格規矩渦文鏡などにわけられている」〔(注7)、( )内は筆者〕とあります。また、元橿原考古学研究所所長の田中琢氏は次のように述べています。“方格規矩鏡は内行花文鏡とほぼ同じ時代に盛んに作られた漢鏡で、鏡の背面の図案は、当時の中国人のいだいた宇宙像を描きだしたものであり、内行花文鏡のもつ単純簡素な美しさとは対照的に、繊細華麗なものとなっている。(注8)”(要約)。八幡では方格規矩鏡は西車塚古墳から方格規矩四神鏡(仿製鏡)、(伝)美濃山王塚古墳から方格規矩四獣鏡(舶載鏡)、ヒル塚古墳からは方格規矩鳥文鏡(仿製鏡)が出土しています。ヒル塚古墳鏡の製作は4世紀と推定されています(注9)。 京都府埋蔵文化財調査研究センター長だった樋口隆康氏はヒル塚古墳出土の方格規矩鏡について次のように述べています。“鏡の背面の方格内に12の小乳があり、それを円で囲んでいる。方格外では普通T・L・V形の3つがあるが、LとV形が省略されT形のみである。方格の四角の部分には乳座から小さな鳥の上半身が飛び出して、隣の鳥と向かい合い、T字形の外方にも側向きの小さな鳥が1羽ずつおかれている。外区は二つの鋸歯文〔きょしもん(のこぎりの歯の形をした紋様)〕の間に、一つの複波文帯〔ふくはもんたい(波のような形が複数帯のようになっている)〕がある型式である。”(要約)(注10)。ヒル塚からはもう1面、鏡の小破片が出土しており、これは画像鏡か獣帯鏡ではないかといわれています。 渦巻状装飾付き鉄剣は埋葬施設第1主体部棺床の東側、棺外の遺物の一群中央から出土しました。 桝井豊成氏は次のように述べています。「最初はふつうの鉄剣かと思った。ところが、保存処理のために京都府立山城郷土資料館でX線写真を撮ったら、渦巻が出てきた」。全長38.8cm、刃部28cm、幅1.4cm、厚さ0.6cm。剣自体が細身で刃が薄く、まるでペーパーナイフのようで、とても武器として役立ったとは思われず、儀式用のものとみられています。(注6)。渦巻部は鉄をねじり、ゼンマイ状に巻き上げて作っており、直径は2.7cmあります。刃と非常に精巧に接着されており、高度な製作技法がうかがえます。これは当時、例を見ない非常に特殊な遺物でしたが、新聞各紙は記事としてほとんどとりあげませんでした。 ところが、ヒル塚古墳鉄剣発見の7年後、1996年、長野県木島平村の桑畑から渦巻文の装飾のついた鉄剣が出土。鉄剣は長さ74cmもあり、弥生時代最終末(3世紀前半)のもので、これまで出土した弥生時代の鉄剣の中では最長でした。鉄剣は2本出土し、1本だけが渦巻鉄剣でした。木島平村教育委員会発行『根塚遺跡』(2003年)によると、“2号剣に渦巻文が三カ所にあることが判明し、その技法は柄の部分を3分割して棒状部分を作り出し渦巻を作っています。その割った分だけ、剣の身部に比べ把の部分が薄くなっています。渦巻文を有する鉄剣は、国内では京都府八幡市のヒル塚古墳(4世紀後半)に出土しており、2号剣のように把先に渦巻文をもち、ゼンマイ状に巻きあげています。”とあります。 この渦巻状の装飾はもともと、2世紀から6世紀ごろにかけて、朝鮮半島の伽耶で流行し、鉄剣以外にも使われていました。韓国南部の良洞里墳墓群(日本の弥生時代後期にあたり400基以上)から2つの渦巻文が付いた鉄剣が出土しています。『報告書』はさらに “朝鮮半島南部に渦巻文をもつ鉄製品を求めると、慶尚南道金海市の良洞里古墳の出土品(19.5cmの一対の轡(くつわ)、48.1cmの鉄剣、116cmの鑿(のみ)頭形鉄器、120.1cmの鉄剣)などにいくつか見られ、2箇所から8箇所にいずれも左右対称に渦巻文が装飾されている。2番目の鉄剣には木島平村の鉄剣と同じ技法が用いられ、出土した遺構はいずれも2世紀後半~3世紀初めに比定されている。木島平村の鉄剣も朝鮮半島からの舶載品と考えられる。”(要約) 大阪府教育委員会文化財保護課の三木弘氏も木島平村の鉄剣について「『渦巻状装飾付き鉄剣』の特徴的な形状や高度な製作技法から、朝鮮半島南東部で製作され、日本海ルートを通じて北信(北部信州)に招来されたとの見方が有力である。そうであれば、畿内圏を介さない流通ネットワークが存在していた可能性はいっそう高い。そして、そうした動向が弥生後期中葉~後半期にかけての状況であったといえる。(注11)」と述べ、鉄剣は朝鮮半島と信州との交流ルートがあったことを裏付ける遺品となっています。鉄剣は朝鮮半島からの舶載品と認定されています。これに対し、ヒル塚渦巻鉄剣は前期後半築造の古墳からの出土ですが、朝鮮半島製の可能性が高く、入手ルートが気になるところです。 八幡市内の古墳では東・西車塚古墳、石不動古墳、美濃山王塚古墳、八幡茶臼山古墳などで埴輪が出土していますが、破片や散逸してしまったものが多かったです。しかし、女郎花遺跡、大芝古墳や御毛通古墳での発掘、2005年からの美濃山王塚古墳での発掘、ヒル塚古墳の埴輪分析などにより埴輪の研究が進んできており、八幡の古墳の編年を考える基礎が出来上がりつつあります。 埴輪は古墳の年代や編年、王権との関わりを推定する有力な遺物です。ヒル塚古墳からは墳頂部と一段目テラスで埴輪列を検出し、普通円筒埴輪、鰭付(ひれつき)円筒埴輪、朝顔形埴輪、囲形埴輪の4型式の埴輪が発掘されています。墳頂部のものは直径30cm~36.5cm、第一段目テラス状のものは約25cm~30cm弱で、その規格に差があり、また墳頂部出土の埴輪とそれ以外の埴輪はX線分析による元素比が異なり、埴輪の製作地が違っているようです。複数の型式が同一古墳内に樹立していた状態が確認できます。埴輪の高さは85cm内外と推定されています。墳頂部の埴輪列は、第二主体部の構築に伴う立て替えが見られるとのことです。一段目テラスでは1.5m間隔で埴輪が立てられていました。その中で注目されるのはまず鰭付(ひれつき)円筒埴輪です。この埴輪は奈良市北部の佐紀古墳群の前方後円墳でともなう場合が多く(佐紀陵山古墳など)、かなりの相関が認められるといいます(注12)。次に、囲形埴輪は家形埴輪の可能性が高く、通常より突帯の位置が高く、一条しか確認できない点など他の古墳ではあまり例を見ない囲形埴輪であるとのことです。ヒル塚古墳の埴輪は奈良県天理市の上の山古墳(渋谷向山古墳(景行天皇陵?)の陪塚といわれる)、大阪府八尾市の萱振(かやふり)一号墳の円筒埴輪と深い関連性があったと想定できるとの報告があります(注13)。 埴輪の研究を通して、王権とのかかわり、八幡の古墳同士の関係解明へと繋がればいいですね。 森浩一氏は著書で次のように述べています。「(ヒル塚古墳からは)渦巻状の突起を柄につけた鉄剣が出土した。このような鉄剣は朝鮮半島南部の伽耶(加羅)の古墳に多い。ところで古墳の所在地の有智郷は、律令体制下では綴喜郡内郷のことで、さらに古くは内村ともよばれた。味師内宿禰(うましろうちのすくね)から出た山城の内臣のいた土地であろう。(『古事記』孝元天皇条)(中略)応神天皇の9年に一つの事件が起こった。九州や三韓(韓国南部の三つの国、馬韓・弁韓・辰韓)をも巻き込んで、武内宿禰と味師内宿禰が対立した。一時は武内宿禰の旗色が悪く壱岐直(いきのあたい)の祖の真根子(まねこ)が武内宿禰の身代わりになって死んだ。そのあと探湯〔盟神探湯(くがたち)、神の手に誓って手で熱湯を探らせ正邪を判断する古代の裁判の一種。〕によって武内宿禰が勝利をおさめたという。(『日本書紀』)。このような八幡市南部の有智の地は、朝鮮半島南部や中部九州とも強い関係をもった地であった。のちに九州の宇佐八幡宮が男山の地に勧請され石清水八幡宮になることにも、このような前史があったのである(注14)。」桝井豊成氏は「内氏に関する一考察」の中で、「(内臣は)尾張連、紀直、紀臣、隼人と密接な関係をもち水上交通に関係した武人的な氏族」といい、「応神紀の記事は、畿内の水軍統率勢力が山城から河内をへて紀伊へ移ったことを示す史実性に富んだ伝承」と述べています(注15)。また、ヒル塚古墳の墳頂部の円筒埴輪列の中からは須恵器が8個体出土していますが、これは5世紀後半頃のもので、ヒル塚古墳第1主体部埋葬時から一世紀近く後の遺物です。古墳への埋葬が行われなくなってからも長期間、墓上祭祀が行われていた――このことも被葬者像を考えるヒントになるように思います。今後のさらなる研究が期待されるところです。 当時、森浩一氏はヒル塚古墳の埋葬施設について「これほど見事な複数の埋葬施設が現れた古墳は、最近の発掘調査では見たことがない。」と言い、「相当な紙面が割かれると予想していたが、たまたまその翌日が宇野内閣発足の日にあたったため、(略)どの新聞も一面はおろか社会面でも報道しなかった。(注6)」と重要度と注目度の差に危惧を表明しています。しかし最近、研究者の間で八幡の古墳群について関心が高まりつつあるようです。例えば、次のような記述です。「畿内の重要古墳群でありながら、それに見合うだけの注目を集めていない八幡地域の古墳群の解明は、畿内の古墳群の動態を考える上で極めて重要である。」(注13)。 最後に私の感想を一つ。長野県木島平村の根塚遺跡を訪ねたとき、根塚遺跡の近くに大塚・小塚という墳墓があり、さらに村への入り口付近にはヒル橋がありました。偶然でしょうが、八幡古墳名と似ているので不思議な感じでした。そして村の若い学芸員さんの案内で実物の渦巻き鉄剣を見学できたことがいい思い出として残っています。 次回は「八幡茶臼山古墳について」考えてみます。
by y-rekitan
| 2018-01-26 10:00
| 八幡の古墳
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