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◆会報第84号より-02  八幡の道

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《会員研究発表》
八幡の道の歴史 
―江戸時代の道標調査を終えて―


2018年2月  八幡市文化センターにて

谷村 勉(会員)

 2月22日午後1時30分より、八幡市文化センター第3会議室で表題の会員研究発表がありました。八幡宮勧請以前の道はどうであったか、勧請以後はどの様に発展して、現在に至っているのかなど、八幡の道の歴史および江戸時代の「八幡道標」の調査結果の発表でした。
  当日の参加者は52名。(会報編集担当)

八幡の道

 八幡には凡そ以下のような道があります。
京街道(大坂街道)が走りますが「東海道57次」とほぼ同じ道です。
八まん宮道、具体的には御幸道、常盤道、科手道、志水道など。
奈良道 〇河内道 〇山根道などがありますが、
主に京街道、八まん宮道、東高野街道、八幡道標について述べます。
 
八幡市内の東麓を走る「道」の名称?

 八幡宮遷座以来、八幡の道には八幡宮参詣道としての歴史があります。
 近世、江戸時代には守護不入・検地免除の神領自治組織が確立していましたので、八幡の地に他の宗教施設を連想させる街道名は存在しませんでした。
八幡における高野街道とは洞ヶ峠が起点の歴史的認識があります。八幡に入れば「やわた道」・「八まん宮道」と呼ばれ、大勢の八幡宮参詣者が行き来する道との歴史的感覚もあります。
 今回、江戸時代の「やわた道標」の調査から近隣自治体を含め76基もの道標が発見されていることからも「八まん宮道」の歴史的事実が証明されていると思います。八幡の道が「八幡宮参詣道」として発展してきた歴史を正しく伝えてゆきたいという想いがあります。

山崎橋の造立

 橋本から楠葉を抜ける高野道が存在します。神亀2年(725)行基によって山崎橋が造立されるが、7世紀後半に奈良元興寺の道昭が架橋した位置に掛けたものであったと云います。江戸時代の絵図から山崎橋が現橋本奥ノ町にあった橋本寺辺りに架橋されていたと推定されるものの、何度も淀川に流され凡そ200年間程で無くなったようです。天正20年(文禄元年・1592)秀吉によって山崎橋は再び掛けられたがその存続期間は短かったようです。
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 石清水八幡宮全図の橋本の部分に橋本寺旧跡と書かれたところがあります。これは豊臣秀吉の御連衆の一人であった「橋本等安」によって建立された寺で、秀吉の「湯だくさん茶くれん寺」の故事で有名な「常徳寺」も江戸時代の中頃にはこの辺りにあったことが判ります。記録には文化10年(1813)西遊寺の隣の「常徳寺」が焼失とあり、寺が移動したことが判りますが、その場所には今も「常徳寺」の石碑が残っています。
 古くから大阪との行き来には淀川の水運が利用され、人や物資が大量に運ばれましたが、港としての機能を持った「橋本の津」は大いに賑わったようです。橋本で舟を降りた八幡宮詣りの人々は「八幡宮道」(京街道)を通り狩尾社を経由して石清水八幡宮を目指しました。

橋本の高野道

 山陽道(西国街道)から山崎橋を渡り橋本から楠葉に続く高野道があります。南の方向に烏帽子を置いたような特長のある交野山をめざして歩きました。弘法大師空海も歩いた道と考えています。今回、江戸時代の道標調査でも「高野道」の存在を証明する「地蔵道標」が発見されました。地蔵菩薩立像を挟んで左右に「すく八まん宮・右かうや 左はし本道」とありました。紛れもなく高野道を案内しています。“すく”とは“まっすぐ行けば”の意味になります。
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写真(上)の道標2基はどちらも久親恩寺内(楠葉中ノ芝)にあります。
中ノ芝から北楠葉を通過し、野田1丁目辺りに来ると野田大師堂があります。
 大師堂から少し離れた野田1丁目の「左八まん宮道・右志みつ道」の道標も元々この大師堂付近にありました。(写真下)
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 大師堂からさらに南方向に進み僅かに古道の面影を残す畦道等を通り、◆会報第84号より-02  八幡の道_f0300125_1618531.jpg楠葉朝日自治会館を抜けて招堤の町を目指します。整然とした招堤屋敷街を過ぎると「日置天神社」です。この辺りは古くから高野道に沿って大変賑わった所ですが、一帯は南北朝の動乱に巻き込まれて灰燼に帰した歴史があります。日置天神社から近くの穂谷川を越えるとすぐ出屋敷の高野道へと続きます。

京街道

 京街道は文禄堤ともいい、文禄年間に豊臣秀吉が諸大名に命じて建設した淀川左岸の堤防道で比較的新しい街道です。文禄3年(1594)に淀川の改修工事を命じて建設、慶長元年(1596)に完成しました。この文禄堤は淀川が氾濫するのを防ぎ、大坂と京都を結ぶ最短の道として重要な街道となりました。また、秀吉の伏見城築城も文禄3年正月から始まり、文禄4年3月に竣工しました。
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 この時現在の下鳥羽・納所間の大坂街道が開通し、同時に淀・伏見間にも淀堤を築き、巨椋池は横大路沼と南北に分離しました。江戸時代、2代将軍徳川秀忠の時に京街道は「東海道57次」に編入され、伏見、淀、枚方、守口を宿場としました。
 大坂からの京街道に初めて八幡道標が現れるのは枚方市「宗左の辻」道標です。次は京阪牧野駅近くの「前島街道の道標」(明治時代の参考道標)で、八幡道標ではありませんが、これは高槻からの道で淀川を舟で渡って牧野から京街道に入るルートを示しています。◆会報第84号より-02  八幡の道_f0300125_16303455.jpg牧野から楠葉方向に進み上島町の船橋川堤に当たれば「八幡宮参詣道の道標」が目に入ります。2mの道標の上部の地蔵像をよく見ると、かつて石清水八幡宮の祭神であった「八幡大菩薩像」が彫られた貴重な道標です!楠葉に入ると長福寺の美しい地蔵道標を経て久親恩寺に枚方市最後の道標群を見ると、橋本に入ります。
 小金川の境界を越えて橋本に入り、道なりに進んでゆくと中ノ町のT字路にある「八まん宮道」道標を左に進めば、北ノ町の「八まん宮山道」の道標に到達します。この道標を右折し、狩尾社から八幡宮に向かうルートが橋本からの参詣道です。
「八まん宮山道」の道標を右折せずに、さらにまっすぐ進めばかつての京街道と科手道の分岐点の大楠木辺り(楠木は現在、他の場所への移植準備中)に出ますが、ここから現在、美豆に向かう京街道はありません。木津川、宇治川の付け替え工事で分断されましたので、科手道を進むしかありません。
 分断された京街道は現在、伏見区淀美豆町の松ケ崎記念病院辺りから淀の方面に向けて進む道が残っていて、かつての八幡神領内京街道の面影を残す道となっています。
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御幸道と常磐道
    
 木津川の付け替え工事以前、主に京都から京街道を通って八幡に入る南北の道には常磐道と御幸道がありました。現在、御幸橋の南詰から一の鳥居までの御幸道は大部分が残り、御幸橋南詰の一角に「石清水八幡宮鳥居通御幸道」の道標も残っていますが、御幸橋付け替え工事により八幡宮頓宮内に保管されています。この道標は300年前の江戸時代、正徳3年(1713)に八幡宮検校新善法寺行清によって建立されたものです。しかし幹線道路であった常磐道は付替え工事によって大部分がなくなりました。
 八幡宮一の鳥居手前を右へやや細い道を行くと神應寺の山門に至ります。八幡宮を勧請した行教が創建した由緒ある寺院です。山門を過ぎたところに巨大五輪塔が見え、五輪塔の真向い八幡宮頓宮の西出入口手前に「左 八幡宮道」と彫られた全長280cm、正面幅24㎝、横幅24㎝の立派な道標が横たわっています。
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裏面には「是より北荷馬口付のもの乗へからず」と彫られているようです。一人ではこの道標は動かず、一部の文字しか確認できませんでしたが、京都市内に今も残る「是より洛中碑」と同じ意味のもので、いわば「是より八幡宮碑」とでもいえましょう。
 「是より洛中碑」とは洛中へ入る際には、馬の背に乗らず馬の手綱を引いて歩いて入る事、という意味です。京都町奉行より享保2年(1717)洛中の入口30カ所に石碑が建てられたもので、現在も11本残っているとの報告があります。「左 八幡宮道」の道標も恐らく同時代のものと見て間違いなさそうです。

男山東麓の道の「八まん宮道」
 
 御幸道の一の鳥居付近から南へ安居橋を左に見ながら奈良街道との分岐点である八幡橋を過ぎ、平谷町を左に曲がり松花堂昭乗の墓のある泰勝寺を過ぎると嘗ての幹線道路であった常磐道から南下する道と買屋橋辺りで合流し、「八まん宮道」となって男山東麓の道を南下すれば洞ヶ峠まで凡そ4kmの道程となります。買屋橋から南下し八幡山本で図書館方面に左折し旧道を歩けば、外郎(ういろう)で知られる「じばん宗」の前を通り抜け、突き当りの中央図書館から道なりに南方向に進みます。途中天理教教会を過ぎたあたりで右折すれば紅葉で知られる善法律寺に出られますが、古来八幡の道は南北よりも東西の道から発展した面影が残っています。善法律寺の前を南北に走る道路は新しい道で「新道」と呼びます。昭和30年代頃、田圃や畑だらけでしたが、昭和54年にようやく「認定道路」となった歴史があります。新道は直線的な道路なっていますが、近世までの道は戦略上、必ずと言ってよいほど曲っています。
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「旧道」と呼ばれている元来の道を南に進むと「走上り道」に突き当たり、すぐ右の神原交差点(近くに興正谷入口あり)を左へと進んでゆく。少し歩くと「正法寺」が右に見えます。鎌倉時代に正法寺は開創されたが、現在の伽藍は相応院(お亀)によって寄進されたものです。正法寺はもちろん近世八幡に大きな足跡を残した「お亀」は文禄3年(1594)徳川家康の側室となり、御三家尾張藩祖の徳川義直を生みます。八幡に361通の「領知朱印状」の発給を家康に促し「安居神事」を復活、「検地免除」・「守護不入」の地と確定しました。「検地免除」とは要するに年貢を納めなくてよい訳で、石清水八幡宮を中心とした自治組織体が確立しました。『奈良、大坂からの石清水八幡宮参詣道沿いの正法寺が都名所図会に紹介されるなど門前市をなすほどの賑わいであった』(正法寺栞より)。「八幡宮道」の志水道辺りを歩くときは正法寺惣門をくぐり南門から裏通りののどかな道を時々歩くと、車も殆んど出会うことなく松花堂庭園に辿り着きます。松花堂庭園の西に八角堂がありますが、この前の道が本来の道です。ここから中ノ山墓地の東入口の前を通り、洞ヶ峠を目指します。現在の松花堂庭園横のバスや車が走る南北の道は昭和40年前後に出来た「新道」と呼ぶものです。小高い丘 (西車塚古墳)の八角堂の前には役行者像が彫られた「すく八幡宮道」の道標があります。
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安居塚から右に折れると洞ヶ峠に向かいます。今は右折して真直ぐの坂道ですが、以前は左から登る坂道が洞ヶ峠道でしたが、現在は分断されて通れません。いよいよ洞ヶ峠を越えると枚方市の高野道に入ります。
 また、八幡の安居塚のT字路から南に直進すれば「山根道」に入り、長尾、藤阪、津田、倉治を通って私部で東高野街道に合流します。

大阪府下・東高野街道の「やわた道標」

 八幡の道に江戸時代の「やわた道標」は22基存在します。江戸時代以前の高野道の道標を見たことは在りません。見るのは最近建てた新しい道標?ばかりです。そこで大阪府の東高野街道に八幡道標の存在を何度も訪問して確認しましたところ、東大阪市の2基を始め枚方市との間に何と12基の「八幡道標」がありました。奈良、大坂の八幡宮参詣者を八幡宮に導く道標群です。指差し道標や地蔵道標、観音菩薩道標、相撲取りの大井川万吉道標など個性的な道標ばかりです。如何に八幡宮への参詣者が多く河内の高野道を利用したかを物語るものですが、交野や星田の住民にとっては「やわた道」・「京やわた道」であったのです。枚方市出屋敷に明治33年建立の東高野街道碑がありますが、洞ヶ峠から一里の距離を現わしています。なお枚方市全体に存在する「八幡道標」は26基もあり、八幡よりも多くの道標が存在しました。

奈良時代の古道

 八幡の道は石清水八幡宮が貞観元年(859)に勧請されてから整備されてきたと考えます。◆会報第84号より-02  八幡の道_f0300125_20402647.jpgそれ以前に官道として整備されていた道とは、まず山陰道と山陽道で、奈良から現在の京田辺市大住を通り、手原川に架かる関谷橋で別れて、淀方面へ向かう山陰道と美濃山廃寺、志水廃寺、足立寺、楠葉中之芝を通り八幡の橋本から山崎橋を渡って対岸の山崎へと入る山陽道でした。図は平城京時代、長岡京時代、平安京時代の男山周辺の古代官道図です。石清水八幡宮の創建以前の人の居住は、当然山陰道沿いや山陽道沿いに集中し、古墳や古跡も概ね古代官道沿いにあります。現在の常磐道や志水道など八幡宮創建以前に南北を縦貫する「八幡宮道」は整備されず、むしろ山陽・山陰道から派生した東西の道が中心であったと思われます。

「やわた道標」はまだまだ存在する

 江戸時代のものと思われる「八幡道標」は京都市、長岡京市、大山崎町、高槻市、茨木市、交野市、寝屋川市、四條畷市、大東市、東大阪市、枚方市におよび、八幡市の22基を含めて総計76基に至りました。その後、冊子を刊行することができ、読者から沢山の情報を頂き、未だ我々が知らない「八幡道標」がある事も解りました。例えば大阪府松原市に2基の「八幡道標」を発見しました。
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松原市には中高野街道が走ります。守口市から松原市を経て河内長野市に入るルートです。淀川を越えた島本町にも道標が見つかりましたし、先般刊行した冊子の読者から京都市内北野天満宮近くに建つ道標の紹介がありました。

八幡東麓の街道名の経緯

八幡の道をいわゆる東高野街道などと最近まで呼んだことはなく、八幡の道は八幡宮の遷座(859年)以来八幡宮参詣道として整備されてきたものであって、高野山参詣道として整備されたことはないと思います。
東寺や高野山に通じるというだけで、高野街道と云うのはおかしな話で全国の道が高野山に通じていたらすべて高野道になる訳でもないと思います。弘法大師が歩かれた道は奈良時代の官道である古山陽道、あるいは南海道と呼ばれる橋本から楠葉を経由して枚方の招堤を抜け交野の道を目指した道だと思います。八幡宮が遷座(859年)され、南北の道が整備される以前に弘法大師は入定(825年)されています。
「男山考古録」には、志水町から南半里許、万称寺在所より五町許南を俗に高野道と云う、と記載されています。山上山下惣絵図等にもその通り図示されています。八幡神領には男山独自の歴史や文化が溢れており、高野道に八幡宮や神應寺や正法寺が建立された訳では決してありません。
明治14年(1881)頃の「京都府地誌 荘誌(八幡荘)」に初めて“高野街道”の名称がでてきます。その後明治18年頃の陸軍仮製図には現在の松花堂庭園前の八幡城陽線交差点あたりから“自京都至和歌山道”とあり、明治42年(1909)頃の陸軍地図に洞ヶ峠付近に“東高野街道”とあります。これらの名称は行政や国防上の区分で、一般住民には周知されてないと思います。
 
歴史街道運動

平成になってからの歴史街道運動により、ルートを決めて、現在の「いわゆる東高野街道」の道標が多く設置されてしまいました。単に観光集客目的のための名称であることは明らかです。
 しかし、なぜ八幡固有の歴史的名称を生かそうとしないのでしょう、そうでなければ、八幡の正しい歴史が後世に伝わるものかどうか大変な危惧を持ってしまいます。他の自治体が血眼になって江戸時代の歴史を捜して何とか観光客誘致をと頑張っている姿よく目にしますが、八幡は一体何をやっているのでしょうか?何度も繰り返しますが八幡の道は八幡宮参詣道として機能していることが重要な歴史的事実で、それを示す八幡周辺の道には江戸時代の「京やわた道」の道標や八幡宮に近くなれば「八幡宮道」と刻まれた道標が沢山確認できます。大層重要な文化財としての道標群だと思います。
河内の星田や交野地方では高野道ではなく、「京やわた道」と呼び多くの住民が八幡宮を目指しました。
高野道だという人々は八幡の歴史を探究したでしょうか、歴史を知れば高野道沿いに八幡の町が発展してきたかのように言ったり、松花堂昭乗が男山東麓の東高野街道を歩いたなどとは言えません。小説の世界ならまだしも、歴史を語る場合は当時の仕組み、スタンダードで語るのが筋で、仮に現在のスタンダードで語れば歴史はいくらでも捏造されると思います。男山の東麓に当時「八まん宮道」はありましたが「東高野街道」はなかったはずです。
 歴史を知るうえで綿密な調査も行なわず、八幡の歴史を知らない官僚がまず地元の住民の意識を全く考慮せず勝手に名付けてしまった感があります。

八幡にある新しい「東高野街道碑」とは!?

 なぜ今「東高野街道」なのか、いつ「東高野街道」になったのか詳しい方があれば是非一度原稿に書いて教へて欲しいと思っています。昭和2年から4年頃には「三宅安兵衛遺志碑」が八幡の地に凡そ100基程建立されたと聞いていますが、現在、実際に八幡で確認されているのは91基だったと思います。
 「三宅安兵衛遺志碑」建立の歴史は中村武生氏(京都女子大学非常勤講師)の論文によってよく知られるところですが、松花堂の所有者であった西村芳次郎の進言や協力が大であった事を知りました。その西村芳次郎が進言して建てたとも思われる「高野街道碑」が松花堂庭園近くの月夜田交差点にあります。西村芳次郎は男山東麓の道を「高野道」にして八幡観光につなげたいとの思いもあって建碑を思い立ったものの洞ヶ峠から志水の離れ「中ノ山墓地」の近くに立てるのが精一杯の様でした。以前90歳を超えた古老に高野道の所在を聞いたところ、“志水の離れでしょ”と即座に返ってきました。洞ヶ峠が志水の離れにあるとの感覚だったと思えてなりません。一般に志水の離れに当たる「中ノ山墓地」のように、墓地は大概が地区の離れや境界の地に多く存在します。
 さて、男山東麓の道に「東高野街道」と称する石碑が13基も建立されて一種の異様さを感じます。昭和30年代後半か40年頃に開通した「新道」にも数基建立されています。丁寧さも限度を超えている感があります。近年俄かに建立された「東高野街道」の道標をよく観察すれば、建立年月日や建立主体が記されていません。常識では考えにくいことですが、そこには何か意図があるのでしょうか、考えが及ばなかったのでしょうか?◆会報第84号より-02  八幡の道_f0300125_19194589.jpg 石碑・道標に興味を持ってから、いつもその意味について思い出す文章があります。=歴史的な石碑や道標が指し示す「史蹟」は、『あたかもその地域の唯一の歴史のように、旅行者のみならず、住民にさえ認識され出すのである。石碑が後世にこのような影響を与えるものである以上、その建設過程は追及されなくてはならない』(中村武生『花園史学』2001.11) 建設過程とは個々の石碑
がいつ、誰によって、何の目的によって建立されたか等を石碑に銘記する事であります。それによって現在の我々にとって郷土の文化財研究の貴重な遺産となっています。また石碑や道標が観光客に役立つのも表だけでなく裏や側面に書かれた意味を理解し、設置の背景をも読み取ろうとするからです(中村武生監修『中村武生とあるく洛中洛外』2010.10・京都新聞出版センター)=
以上一一
 
     
『一口感想』より

道標について、大変研究(調査)されていて、八幡について正しく伝えていくことが大切だと思います。谷村さんの研究姿勢に感動しました。大変勉強になりました。色々とお尋ねすることがあると思いますが、今後共に宜しくご指導くださいませ。(S.Y.)
現場を観ての説明で非常に説得力があり、よく分かりました。(G.K.)
本日はありがとうございました。東高野街道が、まったく別のものであるという事実を知り、びっくりしました。精密な調査の中、わかりやすく説明していただきとても勉強になりました。(M.Y.)
各地の道標を現地で確認され、江戸時代以前の八幡の及び八幡へ向かう道が人々にどの様に呼ばれ見られていたかが判りました。また、お地蔵さんが道標にもなっていたことを初めて知りました。(T.Y.)
大変ていねいに説明されており、おどろきました。(S.K.)
古道や道標が整備され、話題性のある様なものがつくりだせたらいいなぁと思いました。(T.M.)
大変多くの資料を準備され、詳しく分析されており感心いたしました。(K.K.)
 
                                
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by y-rekitan | 2018-03-26 11:00
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