人気ブログランキング | 話題のタグを見る

◆会報第84号より-04 高野街道

八幡市誌の高野街道

田中美博(会員)


1.はじめに

 昭和55年に発行された「八幡市誌」(※1)は戦後に編集された八幡地域の歴史を表す本である。しかしながらその第二巻に疑問のある箇所があり調査したので報告したい。それは、第二巻p13~14の高野街道の項にある記述である。その文章は「建久六年(1195)十月二十九日・・・大炊殿に集まった公卿達は、暁の鐘が鳴ると同時に、唐車と騎馬で奈良春日社へ参詣のため出発した。・・・九条から伏見を通り、宇治津から船に乗り、巨椋池を渡って、美豆辺に上陸し、八幡宮に参拝して後、高野街道を経て南都佐保殿へ着いたのは己始刻(午前十時頃)であった。明月記(めいげつき)」との記述である。これは鎌倉時代の公家で歌人であった藤原定家の日記である明月記からの引用とされている。

2.最初の疑問

 八幡市誌の上記の記述を読んで最初に不思議に思ったのは、◆会報第84号より-04 高野街道_f0300125_21501745.jpg➀所要時間が不足ではないか、また、②八幡から奈良へ行くのになぜ高野街道を利用したのか、の2点でした。
 佐保殿の場所は明確ではないが、南都奈良の市中にあったとされている。八幡市誌では京都中心部を出て宇治津から巨椋池を船で渡り美豆辺りに上陸して八幡宮に参拝し、そのあと高野街道を経由して奈良まで行ったとしている。たとえ八幡からは最短の田辺、木津を経由しても、京都中心部-宇治-八幡-奈良までの全行程はおよそ58kmある(地図参照)。さらに八幡宮に登山し参拝する時間も必要である。唐車と舟に騎馬も合わせて時速6km出たとし、暁の鐘がたとえ午前0時だったとしても午前10時頃に佐保殿に着くのはまず無理ではないか。
 もう一点は、八幡宮に参拝ののち奈良へ行くのに高野街道を通ったとしていること。添付の地図を見てわかる通り、八幡から奈良へ行くなら田辺、木津を経由するのが最短で、洞ヶ峠を越え河内の側へ遠回りした理由がわからない。

3.原本の記述

  では明月記の原本の翻刻版を見てみよう。明月記の翻刻は国書刊行会発行(※2)が一般的であるが、建久六年分はほとんどが欠本で、建久六年十月二十九日分は記載がない。十月二十九日分は彰孝館所蔵を底本に補遺として群書類従完成会が翻刻を発行(昭和46年・1971)していた(※3、添付資料参照)。添付翻刻のとおり、宇治から佐保殿までの記述は「於宇治乗御御船、(源)顕兼拝儲北辺、即御車於八幡伏拝下御如例、献御沓、巳始剋着佐保殿、大将殿別御宿所・・」となっている。すなわち、宇治で船に乗りまた車に乗っている。
 さてここで大切なことは、八幡市誌にある、「巨椋池を渡って美豆辺に上陸」、「高野街道を経て」を意味する言葉が明月記に無いことである。これは市誌執筆者による根拠のない飛躍ではないか。
 では「八幡宮に参拝」はどうか?この根拠になっているらしい「於八幡伏拝下御如例」という言葉があるがこれは何を意味するのだろうか、次の項で述べる。


 
4.於八幡伏拝

 明月記の他の日に「於八幡伏拝下御如例」と同様の記述がないか調べた。
先ほどの時から30年以内に3つの例があった(※2)。これらはいずれも京都から南都奈良へ向かった時の記述である。
於宇治橋下馬渡之、於八幡伏礼下馬、入丈六堂休息、・・、於泉木津乗船渡之、」
正治元年(1199)2月22日
儲宇治船津・・下船騎馬於八幡伏礼、又候御沓、自是前陣於贄野池乗輿、」
建仁3年(1203)7月16日
宇治橋以西、建久元久之往時如浮眼、奉礼八幡、伏拝過贄野池、」
寛喜3年(1231)8月19日

 原文には読点はなかったことを考えれば、これらはすなわち、宇治川を渡って奈良へ向かう途中に八幡伏拝あるいは八幡伏礼という場所があり、そこで乗物から降りて八幡宮に向かって拝む、というのが通例だったことを示している。また、➀では木津で川を渡った、②と③では井手町多賀にあったといわれる贄野池のそばを通ったことから木津川の東側を奈良に向かったことに間違いがない。もし石清水八幡宮に来て参拝したなら、建仁三年八月十五日の放生会へ参列のように詳細な記述があるはずで、「於八幡伏拝下御如例」など短い言葉で済ませる事柄ではない。◆会報第84号より-04 高野街道_f0300125_21414647.jpg 今でも宇治市と城陽市の境界にあたるところの道の西側に伏拝八幡宮(別名御拝(おがみ)茶屋八幡宮)という小さな神祠がある(写真参照)。ここは小高く、石清水八幡宮のある男山を望見できたので、旅人はここから八幡宮を遥拝していた。このあたりを古くから「伏拝(ふしおがみ)」と呼んでいたと宇治市史巻6に記されている(※4)。
 以上のことから、京都からまっすぐ南都奈良へ行く途中で八幡宮をおがんだことは明らかである。なお、前述の行列の速度や所要時間についてはさらに研究が必要であろう。

5.公衡公記きんひらこうき

 八幡市誌には西園寺公衡の書いた公衡公記の記事が引用されている。そこでは、「三日(弘安十一年=1288=正月)今日還御也、家君・予(西園寺実兼と筆者西園寺公衡父子)等申暇、直可参春日社 自生津乗舟、可着木津、自木津可乗車、之支度也」とあることで、前項の明月記と共に八幡が京―八幡―奈良の参詣コースの要点となりつつあるとの説の補強に使われている。
 まず、この日は弘安十一年正月三日としているが、翻刻(※5)では二月三日が正しい。
この記事は院政を行っていた後深草上皇の石清水八幡宮行幸のとき、参詣行事が終わったあと公衡達2人が別行動しようと計画した話である。八幡から奈良へ行くには美豆に近い生津から舟で木津川をさかのぼるルートがあったことを示しているのみである。京都―八幡―奈良の定例コースがあったとするにはこの例だけでは不足である。また高野街道はルートに入っていないのに「高野街道」の項の補強資料としている点にも疑問がある。

6.まとめ

 高野街道の項にある「巨椋池を渡って美豆辺に上陸」、「八幡宮に参拝して後」、「高野街道を経て」という記述は、引用された明月記の箇所には根拠がなかった。また、引用された公衡公記の記事も高野街道に関係のないものであった。

引用資料
(※1) 八幡市誌 第二巻 p13~14 発行 八幡市 昭和55年6月25日
(※2) 明月記 発行 国書刊行会 第一巻 明治44年9月30日、第三巻 明治45年2月29日
(※3)史料簒集〔期外〕明月記 第一 発行 ㈱続群書類従完成会 昭和46年8月25日
(※4)宇治市史6 宇治川西部の生活と環境  p713 発行 宇治市役所 昭和56年3月1日
(※5)史料簒集〔第一期〕公衡公記  第一 p101  発行 ㈱続群書類従完成会 昭和43年6月30日
◆会報第84号より-04 高野街道_f0300125_16402684.jpg

by y-rekitan | 2018-03-26 09:00
<< ◆会報第84号より-03 古墳と鏡⑧ ◆会報第84号より-05 台場跡 >>