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◆会報第85号より-02 上津屋村

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《講演会》
久世郡上津屋村を探究する

2018年4月 
八幡市文化センターにて

田中 淳一郎(京都府立山城郷土資料館)

 
 4月22日(日)当会年次総会を開催し、終了後に「講演と交流の集い」が行われました。「京都府立山城郷土資料館」にお勤めの、田中淳一郎氏に表題のお話をしていただきました。講演は午後2時から、八幡市文化センターで行われ、参加者43名で、講演後の質議応答も多く大変に盛り上がりました。やはり地元の皆さんもお住いの歴史には興味がおありだなと感じました。
田中様のご自身のご講演メモを頂きましたので、以下に掲載させて頂きます。
          
はじめに

 前世紀の終わりころ、城陽市の仕事で城陽市内をあちこちまわっていると、気になることがあった。一つは水主(みずし)地区で、一つは東上津屋(こうづや)地区である。水主は、久世郡だったり綴喜郡だったり、江戸時代以降は綴喜郡で、明治の初めは、学校も田辺に通学していたそうだ。東上津屋は、八幡市の里・浜を本村とする上津屋村の一部であり、村全体が久世郡に属していた。なにか木津川の流れと、綴喜郡と久世郡との境界との間に関係がありそうな気がしてきた。
 水主については、水主と枇杷庄の間、両地区の墓地の中央を郡界が通ること、郡界附近で木津川が決壊することなどから、説明できると思われるが、今日は触れない。
 東上津屋については、川の東側を開発するためにできた出垣内集落であるかのような話しがされていた。が、私は違和感を覚えた。それは木津川のような大河を越えて、田畑の開墾に行くだろうか。大雨や増水、危険も多い。それよりも西側の平野部を拓いたほうがいい、と感じたからだ。
 また、上津屋が一貫して久世郡であるということは、もともと木津川が村の西を流れていたと考えるほうが自然ではないか、と思った。また、木津川と綴喜・久世両郡の郡界についても考えてみなければいけないと思うようになった。

1 久世郡と綴喜郡の郡界について

 久世郡と綴喜郡の郡界については、いまだにはっきりしていない。男山の頂上を通る東西の線が境界であったことは昔から言われているが、どのように伸びていくのかは不明である。種々の資料を探索して、少しずつ見えてきたものがある。◆会報第85号より-02 上津屋村_f0300125_9222133.jpg
 その一つが条里制である。条里は郡単位で施行されたので、条里をたどると郡界もわかるということである。久世郡条里と綴喜郡条里を検討する。 
 たとえば石清水八幡宮の資料から、本宮は綴喜郡、若宮は久世郡であることがわかる。若宮は今の若宮でいいのか検討の余地があるが、本社は綴喜郡で動かない。
 科手は久世郡、八幡のなかにある家田や常磐も久世郡である。中学校の東にある春日部も久世郡であることがわかっている。
 また、『和名抄』の記載により、「那羅郷」、現在の下奈良・上奈良は久世郡などと決まっていく。かつての郡界は、男山山頂から真東に向い、ほぼ現在の大谷川、防賀川・蜻蛉尻川のライン。したがって、上奈良、下奈良、上津屋、岩田は旧久世郡になると想定される。内里(有智)は綴喜郡である。
 木津川と郡界の関係をみれば、郡界に沿って木津川が流れていた時代があったのではないか。と想定している。ただし、かなり階段状の境界なので、他の説もあるだろう。

2 上津屋・下津屋の位置

 上津屋、下津屋の位置を考えるときに、木津川は外せない。木津川を木津から船で下るときの、船着き場であった。京都に行くときは、鳥羽付近まで船で行くのが普通である。下津屋で下船するときは、西へ向かうときだ。石清水八幡宮やさらに西の有馬温泉とかに行く場合に、下津屋で下船していることが史料からわかっている。上津屋・下津屋あたりが木津川交通上の要所であったのだろう。
 また、八幡の正法寺文書には、室町時代、馬借が上津屋に乱入したということが書かれている。ちょうど山城国一揆が起きた年の文書である。土地を売買した証文が、馬借乱入により紛失したというのだから、土一揆が起きて、借金証文を持ち出したのだろう。上津屋あたりには、馬借と呼ばれる運輸業者や、一揆の対象となる高利貸とかも居たのだろう。上津屋・下津屋は木津川水運と陸路の接点、東西・南北交通の要衝だった。それは、江戸時代のものであるが、浜から木津川に出るところにある道標からうかがえる。宇治、奈良、枚方、八幡といった都市を結節する位置にあったのだ。木津川堤防が街道筋であったことも、この道標からわかる。

3 江戸時代の上津屋村の構造

 さて、今日の本題である江戸時代の上津屋村の構造を考える。
 領主は、幕府領と三条家、大炊御門家である。幕府領が里株と浜株に分かれているので、4領主株になる。株とは領主ごとのまとまりである。◆会報第85号より-02 上津屋村_f0300125_1718658.jpg
 「方角」と称する里方(里村)、浜方(浜村)、東向(東方)の3つの集落がある。領主と方角との関係は、きれいに別れるわけではなく、それぞれの株にそれぞれの集落の家が含まれていた。また土地も浜方の耕地が川の東にも広くあるなど、きれいに整理されているわけではなかった。
 すこしわかりにくいが、江戸時代の村は、「村請け制」といって何事も村単位で行った。年貢も戸別に納めるのではなく、村でまとめて納めた。たとえばAさんが全部で10石の田畑を持っており、年貢が4割なら4石の米を村に納め、それを庄屋が各株ごとに仕分けして、集め直して納めたのだろう。庄屋の役割が大きかった。かえってわかりにくいかもしれないが、一端、村でまとめて、それぞれの領主に納めるということである。
 庄屋は各領主株ごとに置かれ、村全体に関わることは、諸事合議制で決めたようだ。しかし、里方、浜方からは庄屋が出たが、東向から選ばれることは少なかったようだ。おそらく、集落の成立事情を反映しているのだろう。

4 上津屋村の村落運営をめぐって

 では、具体的に村落運営の在り方をみていこう。
 上津屋には、村の休み日を定めた文書が残っている。一年を円で示したもので、年は循環するという考え方があったのであろうか。◆会報第85号より-02 上津屋村_f0300125_16121639.jpgこれを見ると、冬場の農閑期を除いて、休日があった。「一、雨悦びの休み、その外の休みとも、三か村同時に致すべき事」(「村中永代用品書留帳」石田神社文書)とあるように、休みは各方角とも同時に取ることが決められていた。
 ところが、「去る午年(天保5年)より船一件にて四株何事に寄らず示談出来せず」と書かれた文書(「要用記」個人蔵)がある。これにより「休日も三か郷思ひ思ひに休日」にするようになった。
 では「船一件」とはどういう問題だったのか。次に渡し船の問題をみていこう。
 上津屋村は、両岸に集落があることから、耕作や寺社参詣など往来のために、渡し船1艘があった。維持費用は村民の頭割りで均等に負担していた。その渡し船の船頭は、浜方の者から3人から4人が選ばれ、細かな勤め方が定められていた。また、村から給米を貰う、あるいは乗客から船賃を貰う、という収入があった。
 天保2年(1831)になり、東向から、船頭のうち一人は東向から出したいと主張した。これは、東から西へ行きたいときの便宜のためという。
 しかし、認められなかったことから、天保5年になると東向の者が渡し船を奪い取り、勝手に運航するという事態になった。浜方もこれに対抗して、取り返すと騒ぎ立て、村中、人気(ひとけ)(殺気)立つ状況となったことから、間に代官所の役人が入り、事態は和談に向う。その中で明らかになってきた論点は、
 
船頭は困窮の者の助成のためのものであること。
里と浜の役人たちは、「古来仕来り通り」と主張すること。
浜方は東向の出銀を立て替えるとまで言って、事を納めようとする、あるいは船頭の権利を譲る気がないこと。
浜方は、東向と不和になれば農業耕作に影響がでると判断していること。
 
などであった。船頭職は、困窮百姓が没落していかないためのセーフティネットだった。領主の関心は百姓が成り立っていくことであり、百姓が減るのは領主の責任であった。将軍から預かっている「御百姓」という考え方があったとされる。
 残念ながら、この一件の結論はわからないのだが、村の構造の特殊性がもたらす課題があったことがうかがえる。船頭職には、船賃という現金収入が伴うことから、新規に参入したいとの動きがでたと思われる。この事件で、四株破談となり、庄屋の合議も行われなくなり、休み日もばらばらとなっていく。
 最後に、破談となる以前の話であるが、木津川の洪水を予防するための杭の分担の例を紹介したい。◆会報第85号より-02 上津屋村_f0300125_9191654.jpg木津川堤には、洪水予防のために杭が準備されていた。全部で600本用意するにあたり、3方角での分担割合をどのように調整したのか。単純に村高で分ける、人口・家数でわける、堤の長さで分けるなどが考えられる。おそらくひとつの基準で分担すると、不公平が生じると判断したのだろう。石高と堤長と家数という3つの基準を組み合わせて、各方角ごとの分担数を決定したのである。 たとえば堤の長さだけを基準にすると、東向が相対的に多くなる、あるいは家数だけを基準にすると里方が多くなる、ということが起こるので、いくつかの原則を組み合わせて、3方角ができるだけ均等になるような案を考えたと思われる。おそらく4株庄屋の合議が繰り返されたのだろう。
 上津屋村は、中央を木津川が流れるという特異な村落形態をとることから、渡し船で耕作に行くという事態になり、船をめぐる争いが起き、村内不和になる。逆にみると、船頭職を与えることにより、百姓が衰退していくことを止めるセーフティネットとしての役割も果たした。しかし、それが特定の「方角」に限られていることが問題視されるようになる。やはり、村の休日であるとか、堤の杭とかのように、何事も3村が協議して決定していくのが、本来の在り方だったのだろう。
 江戸時代を通した流れでみると、里方や浜方が本村という意識が強く、東向が新しい集落という位置付けで、3「方角」4株の協議ができていたころは、村内も落ち着いていたのだろうが、庄屋の問題、船頭の問題等、東向が対等の権利を主張し始めると、段々と旧来の仕来りではやっていけなくなっていく。それが渡し舟の問題で頂点に達したと思われる。

おわりに

 元来、木津川が村の西を流れていたときに集落(里、浜)が形成されはじめ、その後木津川が村の中央を流れるようになったため、川の東に耕地を多く有する人が移住して東向集落を作ったのではないだろうか。上津屋村は、江戸時代の村落の在り方を考える上で、いろいろなことを考えさせてくれる村である。
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『一口感想』より

木津川を挟み、村人の工夫を凝らした村落形式や組織化が感じられ、大変楽しい興味深い講演会でした。(F・M)
上津屋村の村落運営をめぐって、とても興味深い話が聞けて有意義だった。(F・F)
古文書から読み解く昔の人その生き生きとした暮らしぶりが伺えて、楽しく拝聴致しました。(O・F)
私は現在上津屋里垣内に住んでいますので、大変楽しく聞かせていただきました。(K・M)
上津屋村洪水予防杭の算出方は、随分苦労している様子が分かりました。真剣に一生懸命日々を送っていた様子が偲ばれました。群界線を見て、綴喜郡という名の因が分かった気がします。(J・S)
①川の流れが村落の成り立ちや歴史に影響を与えたことが良く分かりました。
②防水用杭の準備数分割の方法は良く工夫されたことが理解出来ました。(N・H)
八幡の事は知らない事ばかりで、面白く拝聴しました。どの時代も庶民の暮らしがあったという事が分かり、人間の歴史が繰り返されている事が分かり良かったです。(S・S)
大変面白かった!!質問時間あればしたい!!(U・N)
興味深い内容でした。江戸時代の村人の暮らし、村人の知恵、人間関係まで理解できることが出来、楽しい時間でした。有難うございました。(F・T)
3つの集落がどのように障害を乗り越えて一体感を維持してきたか。わかりやすくて説明いただいた。(H・S)
上津屋村のお話、現代の身近に感じること多く興味深い。古文書、古地図等、歴史を読み取れもので大切な文化遺産と感じました(Y・H)
群界のお話にはじまって興味深くお聞きしました。内里が大谷川―蜻蛉尻―防賀川に囲まれて、それが郡界と知り、八幡の古くからの歴史と地理の関連が良く理解出来ました。(B・K)
村の歴史の変遷につき、ユニークな視点から研究されているのは興味がわきました。木津川の流れが変わる事により、寸断されたときの種々の問題が発生、又解決のための苦労が偲ばれました。古文書の分析はコツコツと大変な作業と思いました。(O・S)


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by y-rekitan | 2018-05-28 11:00
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