八幡市美濃山一帯から京田辺市北西域――狐谷・美濃山・女谷・荒坂・松井・堀切にかけては古くから横穴(墓)の存在が知られていました。1920年(大正9年)発行の『京都府史蹟勝地調査会報告第二冊』「美濃山ノ古墳」の中で、梅原末治氏は「横穴また字荒坂その他高台側の斜面に開口す。」と述べ、末永雅雄氏も「昭和二年(1937)、京都府山城八幡付近の横穴調査の実習に出かけたことがあった。(注1)」と言っています。佐藤虎雄氏は「木津川の宇治川に合するあたり、その内湾に南方より男山八幡へ連互する丘陵およびこの付近には古墳多く、高野街道に沿いても数基を数うべし。また有智郷は和名抄(わみょうしょう)綴喜郡に載せられたる所なるが、この村の西南部美濃山を中心として荒坂、松井にわたり、丘陵竹林には古墳横穴多く存在しこれら既に開発せるもの多く、後人の鍬害を免れたるものは少なし。(注2)」と失われた横穴も多かったことを述べています。古代において、美濃山一帯から京田辺市北西域は文化・風習・生活圏で連続しており、現在の行政地域単位に限定して考えることは適当といえません。そこで、ここでは八幡の横穴を中心にしながらもその範囲に限定しないで考えていきます。 (1)1990年台から多数の横穴発見・発掘 大正や昭和の中期にかけて横穴の存在が知られていたとはいえ、1980年台までに発見されていた横穴の数は美濃山から京田辺市にかけてのものを含めて40~50基程度でした。しかし1990年代に入り、京都南道路・第2京阪高速道路建設、2008年からの新名神高速道路整備事業に伴う遺跡発掘調査により、新たに多くの横穴が発見されました。2016年4月23日付けの京都府埋蔵文化財調査研究センター「女谷・荒坂横穴群第14次 現地説明会資料」には次のように書かれています。 「女谷・荒坂横穴群は横穴が途切れることなく造られていることが確認されました。女谷・荒坂横穴群には少なくとも300基程度の横穴が造られていると推定されており、今回の調査ではそれを追認することができました。周辺の松井横穴群などを含めると、八幡市~京田辺市には600~700基の横穴が存在していることが推定され、近畿地方でも最大級の横穴密集地といえるでしょう。」(注3) 2018年には、大阪府枚方市上野・アゼクラ遺跡・甲斐田川の肩部で横穴墓が3基発見され、さらに「調査区外に延びる斜面にも横穴墓が広がっていたことが推測できる」と報告があり、今まで横穴(墓)が発見されていなかった隣の北河内にも造営されていることが明らかになりました。「このことは北河内の墓制についても根本的に考え直すことを迫る重要な発見」と現地説明会資料(2018年2月、枚方市文化財研究調査会)で述べており、面的にも広がりを見せています。発掘調査の結果、これらの横穴はいずれも6世紀後半から7世紀前半のごく短い期間に造られたものでした。 (2)南山城地域の横穴(墓)集計 八幡市~京田辺市にかけての横穴の数について、わかる範囲で集計しました。 〇横穴墓は古墳か? そこで気になるのは、横穴墓は古墳か?という問題です。大塚初重氏の『古墳に秘められた古代史の謎』(宝島社,2014)によると「『古墳』の考古学的定義は研究者により異なり、明確にひとつに決められるものではない。『墳』の字は『墳丘』を表し、盛り土をした塚をもつ墓のことを指す。それが古代のものであるから『古墳』で、同様の形状のものでも時代が違えば古墳とは呼ばれない。また、その内部に棺をもち、一般人ではないある程度の権力者を葬るためのものであることも、ひとつの古墳の条件である。つまり、古墳とは、『いわゆる古墳時代、3世紀半ばから7世紀にかけて造られた、墳丘を有する権力者の墓である』」とされています。しかし一方、永原慶二監修『日本史辞典』(岩波書店,1999)で「横穴(よこあな)」を引いてみると「古墳の埋葬施設の一種。」とあります。岩松保氏は「横穴=墳丘の無い古墳」と述べています(注4)。ここでは古墳の仲間に入れて話を進めていきます。 八幡市で発見されている横穴は現在130基を超えています。他に(墳丘をもつ)古墳は30基近くあります。八幡市の古墳は地図に載っていないことが多いですが、たくさんあったといえます。 6世紀前半から始まる後期古墳の副葬品について、森浩一氏は次のように述べています。「後期の視覚的な特色としては、群集墳形態をとる古墳群の出現、家形石棺や箱形木棺を蔵する横穴式石室の普及、さらに古墳の副葬品として須恵器(注5)・馬具・金銀の装身具、とりわけ耳飾が普通に見られるようになったことなどがあげられる。(注6)」 6世紀後半の八幡市・京田辺市の横穴群の副葬品はというと、須恵器・土師器(注7)・刀子(とうす)・鉄製品・耳飾・瓦器・ガラス玉などが出土しています。中でも多いのは須恵器です。その中でも杯、杯蓋(はいがい)、高杯(有蓋・無蓋)(蓋は「ふた」のこと)、壺、甕(かめ)などが多いです。しかし現在発掘された横穴の数は200基を超えますし、横穴は群により副葬品の特徴が変わります。 また同じ群中の横穴でも立派な副葬品のある横穴もあれば、ほとんど何もない横穴もあり、かなりの差があります。ですから、横穴の副葬品をまとめて論じ難いです。ここではすでに発表された報告の中から副葬品として注目すべきものを2,3紹介したいと思います。 (1)埴輪の出土 女谷B支群9号墓からは朝顔形埴輪、荒坂B支群5号墓からは円筒埴輪が出土しています。中でも後者の円筒埴輪は東海系埴輪(普通の茶褐色の円筒埴輪とは違い、色は灰色で、ろくろを使い倒立技法でつくる。)とされるもので、この地域と東海地方との関わりのあったことを示しています。(八幡市・ふるさと学習館にその円筒埴輪が展示されています。)東海地方といえば、6世紀前半の継体天皇の妃・目子媛(めのこひめ)の出身地です。継体天皇は507年に樟葉宮で即位し、その後筒城宮・乙訓宮へと遷りますから、南山城に東海地域と関係のある人々がいて円筒埴輪を作ったと考えても不思議ではありません。京田辺市の堀切古墳群7号墳(円墳)から東海系円筒埴輪が(と共に刺青文様をもつ人物埴輪も)出土しています。2埴輪とも淀川水系における東海系埴輪の使用例として注目される資料です。 (2)石棺の出土 荒坂A支群34号横穴から組合せ式石棺が出土しています(2000年)。「石棺は蓋石及び底石が3石ずつ、小口と側石は2石ずつの計10石で構成されており、初葬時の副葬遺物が埋没したのちに横穴内に運び込まれ、据置かれたと考えられる。内法が小さく、伸展での埋葬が困難であると考えられることから、改装骨を納めた可能性が高い。(二上山石で)本来とは異なった位置で使用され、石材に施された刳り込み、切り欠きなどは整合していないことから、他からの転用をうかがわせる資料である。(注8)」とのことです。また、京田辺市・堀切6号横穴からも竜山石の凝灰岩製組合式家形石棺が出土し、棺内から改葬人骨1体(壮年前半の女性)と金環1対、刀子などが出土しています。 (3)鏡の出土 2009年(平成21年)の女谷・荒坂横穴群の発掘調査で、D支群4号横穴から鏡(以下、女谷鏡と呼ぶ。)が1枚出土しています。 鏡の名は瑞雲双鸞八花鏡といいます。唐式鏡(とうしききょう)です。瑞雲というのは鏡の中央上部に描かれた吉祥を表す雲で、双鸞というのは左右に彫られた二羽の鳥(鳳凰か?)です。唐式鏡とは唐の様式の鏡のことですが、直接、中国の唐(618~907)から日本に輸入された唐鏡、それを原型として日本で鋳造した鏡[踏み返し鏡、同型鏡]、唐鏡を模して日本で作った鏡など、日本で確認される唐鏡と同じ型式の鏡すべてを含んでいいます。 (1)瑞雲双鸞八花鏡の分布とその出土地 瑞雲双鸞八花鏡は全国で20枚確認され、その分布範囲は、東は千葉県香取市の香取神宮から、西は宮崎県の本庄古墳群まで広く分布しています。出土・伝世地点は全部で13。不明になったり焼失したりして実際に現物が確認できるのは14枚です(注10)。興味深いのは出土地・伝世地が古墳(宮崎県本庄古墳群・長野県大久保2号墳・兵庫県湯舟口金谷1号墳・女谷横穴)・寺(跡)(奈良県霊山寺2枚・奈良県坂田寺・京都府周山廃寺2枚・三宝院)・神社(宮崎県神門(みかど)神社3枚・千葉県香取神宮・三重県山の神跡)・都城(平城京)など多様であることです。寺を造る時の鎮壇具(堂塔伽藍の地下に埋納した七宝・武具・器の類。)として使用された場合もあるし、神社の宝物・ご神体として伝世している場合もあります。平城京では大路の側溝から、近江神宮が所蔵している鏡は南滋賀(近江の都近く)から出土しています。538年『記』(552年『紀』)に公伝した仏教は6世紀後半に政権に受容され、7世紀中ごろから寺院が全国に建立されていきます。神社も自然そのものを祀ることから神社建築へと変化し、鏡もご神体になったりします。 (2)女谷鏡の謎 女谷鏡は横穴の再利用時の埋葬面から出土しています。現存する瑞雲双鸞八花鏡の中でも、面径が小さいので唐から輸入された鏡を日本で踏み返して作られた同型鏡と考えられています。(踏み返して作られた鏡は元の鏡より少しだけ縮小します。)原型と考えられる鏡や美濃山廃寺跡の溶解炉からの銅塊との元素比成分も分析されましたが、結局この鏡がどの鏡を原型として、どこで作られたか、どういう経路をたどってきたのかなど、よくわかっていません。 先述の枚方市の資料に「横穴墓は、群集墳の1つの形式とも考えられる墓制」とあります。群集墳とは「多数の小型の古墳が密集群在しているもの」(『広辞苑』)ですが、小円墳、方墳、前方後円墳、横穴など多様な形態があります。墳丘があり、かつ横穴式石室を有している円墳・方墳群もあれば、そうでない横穴群もあるので複雑です。横穴(墓)については辞典で次のように説明されています。 (1)横穴墓とは 「凝灰岩や砂岩質の比較的軟質の岩石で形成されている丘陵や台地の斜面を利用して掘り込まれた横穴の墓で、古墳時代後期に盛行した。おうけつぼともいう。また横穴古墳・横穴墳・横穴など研究者によって種々の用語が使用される。横穴墓は構造上、墳丘を有しないことが、同時代に存在した高塚古墳との最大の相違点である。しかし、その内部構造は、高塚古墳に採用された横穴式石室と類似し、玄室(げんしつ)・羨道(せんどう)をもち、前庭部を付設する例も多くみられる。玄室は、正方形・長方形・隅丸方形・徳利型などの平面形を呈し、天井はドーム形や家形のものなどがある。床面には遺体を安置するつくりつけの棺代や棺床を設けたり、敷石や排水溝をもつものもある。」(注11) 横穴は階層的には横穴式石室をもつ古墳の下位に位置づけられることが一般的です。しかし、内部構造や形態が地域の特質を反映していること、全国的に分布していることなど、横穴式石室の古墳とほぼ共通しています。また地域によっては、首長墓クラスに匹敵する副葬品をもつ横穴の例も確認されています。 (2)横穴墓の歴史 横穴墓の歴史を全国的にみると
とされています(注12)。 八幡地域の横穴は③の時期に造られ、④の時期に終焉しています。 (3)前方後円墳の終焉と横穴墓 横穴墓が造られはじめるには中央政権の明確な意図があります。次のように解説されています。「(畿内などでは6世紀の末ころ、それ以外の地域でも7世紀初頭になると)前方後円墳の造営が一斉に停止される。この前方後円墳の終焉は日本列島の各地でほぼ時を同じくしており、中央政権による強力な規制の結果と考えるほかない。それは明らかに推古朝の早い段階の出来事であり、当時の為政者が3世紀以来の古い首長連合体制を象徴する前方後円墳と決別し、中央集権的な新しい政治体制を目指したことを何よりも明白に物語るものであろう。(注13)」6世紀後半から7世紀前半に築造される大王墓は方墳や円墳です。用明(~587)陵[方墳]・推古(554~628)陵[長方墳]・聖徳太子(578~622)墓[円墳]です。墳はいずれも一辺(または直径)が50m以上、高さも10mを超えるものもあります。石室は巨石積み横穴式石室です。このことは、大王を中心としたグループがこれまでの前方後円墳に代わる大型の方墳や円墳をつくりだしたことを示しています(注14)。これを主導したのが蘇我氏だといわれており、蘇我氏の墓も石舞台古墳などにみられるように方墳です。このように前方後円墳の造営は規制され、方墳や円墳の大王墓以外で群集墳や横穴墓が広がっていきます。 1970年代半ば頃から次の観点で横穴墓の被葬者像の研究が進められてきました。
その結果、横穴の被葬者像について岩松保氏は次のように述べています。“〔一般的に言えば〕中央〔ヤマト王権〕が直接的地方を支配していく過程で、造墓を認めたのが横穴で、具体的には、屯倉(みやけ)〔=ヤマト政権の直轄領・倉・官家〕に関連する集団が想定できる。また、中央から派遣された、もしくは地方にあって任命された初期官人層や武人もまた、横穴の被葬者像と重なってくる。中央政権の意向の下に移配された集団も、何らかの役割を期待されている場合には、横穴を造ることを認められたであろう。横穴のある地域は、中央政権とのつながりが強い地域ということができる。〔南山城についていえば〕なぜ南山城地域に横穴が造られたか。それは南山城地域に隼人が移住させられたという契機がもっとも確からしく、隼人を中央政府が直接的に支配する必要があったがゆえに、墳丘のない古墳=横穴を造ることを承認したと考えられる。(注4)”(要約、〔 〕内は濵田)と。また、地域を束ねた農業に従事していた有力者の墓という説もあります。京都府埋蔵文化財調査研究センターで話を伺うと、八幡・京田辺市の横穴の被葬者は木津川左岸地域だけでなく、南山城のより広い範囲の有力な人々が埋葬された可能性があるとのことです。内里八丁遺跡出土の土師器椀と狐谷横穴出土の椀との類似性(注15)、八幡~京田辺市にまたがる新田遺跡から古墳時代後期~飛鳥時代の多くの建物跡発見(注16)によりこれらの集落と横穴の被葬者との関連が考えられています。 次回は「埋没古墳と埴輪について」考えてみます。
by y-rekitan
| 2018-05-28 10:00
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