人気ブログランキング | 話題のタグを見る

◆会報第86号より-01 力士墓道標

◆会報第86号より-01 力士墓道標_f0300125_16115857.jpg


心に引き継ぐ風景・・・⑰

力士墓道標
◆会報第86号より-01 力士墓道標_f0300125_1449783.jpg
 「江戸時代の八幡道標」の調査過程で江戸から明治にかけて、多くの力士墓道標の存在が明らかになった。特に楠葉方面では力士墓道標や供養塔を数多く確認したが、現在の八幡市内にも力士墓が数基残っている。「八幡市内里北ノ口の墓碑道標」に、「俗名若狭野政吉/右なら道/左よど京道/文化三丙寅九月晦日(1806)/世話人中」とある。堂々の墓碑道標には大層活躍した力士を想像させるが、「政吉は地元の住人ではないが気の毒な方なので建てられた」との伝承が今も地元に残る。その一方で、力士墓ではないかとの伝承も聞いた。
 「上鳥羽搭ノ森上河原の墓地」に「若狭野政吉」(文久二戌年三月建之・1862)の四股名を刻む立派な力士墓が残っている。それとは別に「頭取若狹野碑」(明治廿八年七月五日建之)も残る『京都・滋賀の相撲』。いずれも時代的に同一人物とは思えない。昔から鳥羽には相撲好きが多く、草相撲の盛んな地域であった。
「俗名 若狭野政吉」とは鳥羽を本拠地とする力士の一人だったのだろうか?
 綴喜郡井手町「玉津岡神社」の奉納板番付(文化十四年・1817)に勧進元「若狭野三四郎」の四股名が今も残っている。「俗名若狭野政吉」も草相撲の盛んな鳥羽・井手を往還中に「内里北ノ口」付近で客死したものか! 相撲取が若くして死ぬと、“余りに強い為、毒殺された”との噂が付いて回る。

(文と写真 谷村 勉)空白



<<< 連載を抜けてTOPへ        この連載記事の続きは⇒⇒

by y-rekitan | 2018-07-28 12:00
<< ◆会報第86号より-top ◆会報第86号より-02,03... >>