人気ブログランキング | 話題のタグを見る

◆会報第86号より-05 古墳と鏡⑩

シリーズ 「八幡の古墳と鏡」・・・⑩


八幡の古墳と鏡(10)

―失われた古墳と埴輪―

濵田 博道 


はじめに

 『八幡市埋蔵文化財発掘調査概報第21集』や『京都府遺跡調査概報第56冊』に「埋没古墳」という言葉が出てきます。埋没古墳とは”自然陥没・水の氾濫・地震・噴火による火山灰・泥流の降下・流れあるいは人為的な削平や土入れなどによって古墳が残存しながら埋没している遺構をさす”と理解されます(注1)。
 この埋没していた古墳はその後、住宅や道路などを建設したため消滅してしまいました。それ以外にも八幡には開発によって失われた古墳が多くあります。これらの古墳については八幡市民や次代を担う子供たちが目にすることは難しいです。そこで八幡(近辺も含む)の失われた古墳について考えてみることにしました。(一部、不明・半壊古墳も含む)
  ★添付資料の「失われた古墳等の地図・一覧」を参照ください。

1、男山丘陵東麓(八幡市大芝・女郎花地区)の失われた古墳等

A、大芝古墳
 男山丘陵東麓にある八幡大芝・女郎花は史蹟松花堂庭園をはじめとして西車塚古墳・東車塚古墳などがあり、須恵器などの土器がよく出土する女郎花遺跡地域に入っています。
 1993(平成5)~1995(平成7)年にかけて、この遺跡地内の八角堂(西車塚古墳後円部)の南約100mで共同住宅建設に伴う発掘調査が行われました。その結果、地中に埋まった方墳(平面が方形の古墳)が発見されました(埋没古墳で南北12.5m以上・東西14.8m以上,1995年)。◆会報第86号より-05 古墳と鏡⑩_f0300125_8492277.jpg古墳はその地名から大芝古墳と命名されました。古墳の第1段目テラスから埴輪列を検出、川西編年Ⅳ期(注2)にあたるので、築造は5世紀中頃と推定されました(注3)。当時、八幡地域では5世紀前半で古墳の築造は終わると考えられていましたが、古墳時代中期以降も築造が継続されていることがわかりました。(発見された土器や朝顔形円筒埴輪・円筒埴輪は八幡市ふるさと学習館に展示。)

B、女郎花遺跡内で埴輪5個体出土
 1997(平成9)~1999(平成11)年にかけて、大芝古墳から300mほど南東の同じ女郎花遺跡内で、八幡市立松花堂美術館建設に伴う発掘調査が行われ、弥生時代後期・古墳時代・飛鳥時代~平安時代の遺構が確認されました。古墳時代の遺構からは集落跡、溝から土器、埴輪(5個体)が出土。周辺に古墳存在の可能性も考えられましたが、発掘場所が限られており、検出には至っていません。このとき、二重口縁壺など弥生時代後期後半~古墳時代前期にかけての土器も出土し、注目されました。『八幡市埋蔵文化財発掘調査概報 第28集 女郎花遺跡発掘調査概報(第3次・第5次)』(八幡市教育委員会,1999)では次のように述べています。
 「古墳時代前期の集落については、男山丘陵東麓において存在が確認されたのは今回が初めてである。弥生時代後期において男山丘陵の周辺に於いての一般集落は西ノ口遺跡や南山遺跡など丘陵上に存在し、沖積地には確認していなかった。古墳時代の集落については不明であった。今回の調査によって、沖積地において古墳時代前期の集落が発見された。少なくとも、男山丘陵東麓においては古墳時代前期には沖積地に集落が存在していたことを示唆している。このことは、男山丘陵東麓において沖積地の開発を考える上で貴重な資料となると思われる。」

2、南山地区の7古墳――南山古墳群(八幡南山・安居塚・備前・男山吉井)

 美濃山の北、国道一号線の北側の丘陵上に6基の円墳(南山古墳群)がありましたが、宅地開発などのためすべて全壊または消滅しました。主に古墳時代後期の築造とされていますが、5号墳は箱式石棺で、前期古墳と推定される古墳の存在も確認されています。
 1997(平成9)年一般地方道富野荘八幡線の道路建設に伴う発掘で、八幡備前の西ノ口遺跡内から南山古墳群として7基目の古墳が検出されました(南山7号墳)。この辺りは竹林造成によって著しく削平され、遺構が遺存しているのかも不明でしたが、周濠(深さ約0.3m)が確認され、方墳(築造は古墳時代後期)と判明。墳丘・主体部は完全に削平。周辺から釘状鉄製品、周濠の北より底面から須恵器口壺と高杯の2点の土器が出土しました。
 この古墳群に囲まれるような形で弥生時代後期の南山遺跡があり、壺・甕・高杯・器台などが出土しています。(注4)
          南山古墳群(まとめ)
 八幡市男山吉井  南山1号墳 円墳    丘陵腹部 全壊
    〃     南山2号墳 円墳    丘陵腹部 全壊
 八幡市八幡安居塚 南山3号墳 円墳    丘陵腹部 全壊 
 八幡市八幡福禄谷 南山4号墳 円墳    丘陵腹部 全壊
    〃     南山5号墳 箱式石棺?  丘陵頂部 全壊
 八幡市八幡備前  南山6号墳 円墳    丘陵腹部 消滅
    〃     南山7号墳 方墳    丘陵腹部 消滅
                (『八幡市の教育』,八幡市,2017より)

3、美濃山地区・その近辺の失われた古墳等

A、御毛通(ごけどおり)1号墳
 1992(平成4)年京都南道路建設に伴う八幡市美濃山御毛通の発掘調査で古墳が検出され、地名により御毛通古墳(御毛通1号墳)と命名されました。この地点は、大正期に始まる竹やぶによる地形の改作が著しく、厚さ約1m、20数次にわたる土入れの土取場として掘り下げられていましたが、残った周濠から、一辺約20mの方墳を検出し、墳丘も段築盛されていた可能性があると報告されています(注5)。方位は尾根の稜線の方向とほぼ一致。周濠から出土する埴輪は、墳丘上に巡らしていたと推定され、蓋形(きぬがさがた)埴輪、家形埴輪、円筒埴輪の3種類で、土師器(はじき)も出土しました。葺石はなく、内部施設は削平されていました。築造は埴輪・土師器の編年から古墳時代前期(4世紀後半~5世紀初頭)と推定。西車塚古墳、石不動古墳、八幡茶臼山古墳、ヒル塚古墳とほぼ同時期または少し新しい時期です。
 埴輪の中で注目すべきは、蓋形埴輪です。◆会報第86号より-05 古墳と鏡⑩_f0300125_98736.jpg北東辺周濠の中~下層からまとまって出土し、円筒形台部が復元可能な程度残存。上部の立ち飾り部は断片しか残っていませんでしたが、埴輪の笠部下層部の直径は87cm、笠部全体の高さは64cmあり、全体で1m近くの高さと推定され、大型に属します。(被葬者はある程度の身分の人か?)
 また、研究の中でこの蓋形埴輪は大王の古墳が奈良北部の佐紀古墳群から河内の古墳群に移動する間の時期に製作されたものとわかりました。蓋形埴輪は日葉酢媛陵(ひばすひめりょう)(墳長207m、奈良市佐紀古墳群)や津堂城山古墳(墳長208m、藤井寺市古市古墳群)からも発掘されていますが、御毛通1号墳の埴輪はその間の時期に製作されており、王権の移動という点からも注目されます。

B、御毛通2号墳
 2011(平成23)~2012(平成24)年にかけ、新名神高速道路整備事業として、京都府埋蔵文化財調査研究センターにより女谷・荒坂横穴群、荒坂遺跡の発掘調査が行われました。その結果、21基の横穴と古墳1基(御毛通2号墳)が検出されました。
 所在地は美濃山荒坂(御毛通)。御毛通1号墳(消滅)から北東800mの地点で、横穴が構築された丘陵頂部の平坦面にあたります。ちょうど高速道路の橋脚建設が予定されていた場所でした。
 ◆会報第86号より-05 古墳と鏡⑩_f0300125_9175493.jpg発掘の結果、直径22mの円墳で、墳丘は削平されていました。古墳の周濠は幅3.8~4.5m、深さ0.3~0.7mで、16.3mにわたり発掘され、多数の埴輪片が出土。家形埴輪3個体、鶏形埴輪1個体、菱形に線刻を施した埴輪片などの形象埴輪とわかりました。円筒埴輪や土器類は出土していません。築造時期は1号墳より少し新しい4世紀末~5世紀前葉と推定されています(注6)。これまでこの付近には荒坂古墳(1969年土取り工事中須恵器出土、円墳もしくは横穴墓、古墳時代後期)等が確認されていましたが、御毛通地区で新たに2基の古墳が検出され、他の存在の可能性もあり御毛通古墳群と名付けられています。

C、柿谷古墳(内里柿谷)
 2011(平成22)年、八幡インター線道路整備促進業務に伴い、八幡市内里柿谷(内里池から美濃山王塚古墳へと続く道の左側)所在の柿谷古墳の発掘調査が行われました(注7)。遺跡としては美濃山遺跡に含まれます。この古墳は以前、八幡市教育委員会により測量調査が行われていました。調査時に古墳の西側で墳丘の裾が残っていましたが、現在は全壊です。一辺約12mの方墳で、周濠は3~5m残存。埋葬施設として、墳頂部で木棺直葬の埋葬主体部が2基、墳丘東裾部から甕棺(かめかん)1基を検出。古墳の築造は6世紀中頃と推定されており、継体大王の時代から飛鳥時代へと移っていく間の時期、横穴墓が築造される時代直前の古墳といえます。八幡では珍しく馬具が出土しています。3つの主体部(埋葬施設)を検出。
第1主体部:墓壙は4m×2m。主軸は東西方向。墓壙内に2.9m×1mの組合せ木棺を埋葬。棺内から須恵器(短頸壺・壺)6、高杯2、鉄製馬具の轡(くつわ)、鉄地金貼胡籙(ころく、矢を入れて携帯する容器)、鉄族、人骨の一部。棺東から鉄剣1、須恵器壺2、砥石2。棺西から須恵器壺2、砥石2点が出土。須恵器は6世紀後半頃のもの。
第2主体部:墓壙は4.8m×約2m。主軸は東西方向。墓壙内に箱式木棺を埋葬。棺内から須恵器1点(6世紀中頃)が出土。
第3主体部:墳丘東裾部から甕棺墓壙1基(直径1.3m)を検出。甕棺内から須恵器短頸壺2、高杯1点が出土。

D、西二子塚古墳(美濃山西ノ口)
 この古墳は国道一号線をはさんでヒル塚古墳の西南方(レストラン・ガストの南方約100m)にありました。直径約10m、高さ2.5mの円墳です。盗掘による被害や開発などによって全壊。現在住宅地。古墳の痕跡はありません。墳丘周辺には人物埴輪、家形埴輪、円筒埴輪等の埴輪が並べられ葺石が敷かれていました。直刀2、鉄斧4、玉類数10、須恵器(はそう1、堤瓶1、壺1、高杯)、土師器が出土。
 主体部は頂上から3m下に、一辺が2.5m四方の粘土床を造り、その上に礫を敷いて、幅0.5mの溝を掘った配水施設がありました。粘土床には方形の穴があり、木槨を置いた杭の痕跡ではないかと推定されています。古墳の築造時期は、5世紀の中頃~後半。(注8)

E、東二子塚古墳(美濃山幸水)
 西二子塚古墳の東約150mに所在。竹林の土入れ・土取り等で大規模に削平。全壊でしたが、住宅開発時に史蹟公園として残すことが決定し、現在公園内に東二子塚古墳の石碑(三宅碑)が建っています。1980年と1990年に調査が行われ、直径約12~13mの円墳と判明。二子塚の名が示す通り、東西に並ぶ同規模の古墳があったわけです。葺石を敷き、埴輪列があり、埋葬施設には礫床も敷かれていました。円筒埴輪、仿製獣形鏡1面、鉄族、直刀3、須恵器3、朱(埋葬施設に用いられたと思われる)が出土。築造時期は古墳時代中期と推定。(注9)

F、西ノ口古墳(八幡市美濃山字西ノ口)
 後藤守一『漢式鏡』(雄山閣, 1926)には、「(この古墳については)明らかでない」、“(報告書による所在地は違うが)おそらく東二子塚古墳、西二子塚古墳と同一地点であろうと思う”と述べています。『八幡市誌』や『八幡遺跡地図』(2005)には記述がありません。『東京国立博物館図版目録古墳遺物篇(近畿1)』(1988)には「西ノ口出土品」として5ページにわたり写真と解説が載っています。獣形鏡(完形11.3cm)、◆会報第86号より-05 古墳と鏡⑩_f0300125_9392162.jpg鉄斧5、鉄剣、鉄槍、直刀、銅・鉄鏃、杏葉(ぎょうよう)(鉄地銀張)・辻金具、紡錘車、土塊(ベンガラか)が出土とあり、築造年代は古墳時代中期(『国立歴史民俗博物館研究報告第56号』,1994)。現在、東二子塚古墳出土の鏡は現物がないので、この古墳出土とされる鏡がその鏡ではないかと推定されています。杏葉・辻金具等の馬具類が出土しているなど興味をひきますが、1916(大正5)年の発掘で古く、他は不明。

G、美濃山遺跡内・近辺の古墳
 2017(平成29)~2018(平成30)年新名神高速道路整備事業に伴い、美濃山出島の美濃山遺跡(第7次)の発掘調査で、弥生時代・古墳時代・奈良時代の遺構が確認され、古墳時代の遺構からは竪穴建物4基と方墳状遺構が検出されました。竪穴建物の中には西辺にカマドが造られているものや移動式のカマドが出土したものもあります。調査地の南東で方墳状遺構が検出されており、京都府埋蔵文化財調査研究センターの「美濃山遺跡(第7次)現地説明会資料」(2018年1月21日付け)には「幅1~3mの溝が方形に巡っており、形状から一辺約9mの方墳と考えられます。溝の上層では土師器や土馬などの奈良時代の遺物が多量に出土したことから、奈良時代にマウンドが削られて溝が埋められたと考えられます。」とあります。
 以上のほか、美濃山地域やその付近には文献あるいは石碑に名が記録されているものの所在不明の古墳として三ツ塚古墳(注11)・洞ヶ峠古墳(注12)・内里古墳(注13)など、古墳の所在地は特定できるものの全壊・半壊して内部構造や副葬品は不明のものとして小塚古墳(注14)、内里池南古墳(注15)などがあります。

H、口仲谷古墳群(くちなかたにこふんぐん、11基)(京田辺市松井宮田)
 この古墳群の所在は美濃山御毛通りと大谷川をはさんで向かい側の丘陵上(京田辺市)です。
 1992(平成4)年、京田辺市松井宮田で第二京阪道路建設に関係した発掘調査が行われ、9基の古墳が見つかりました。元々この松井宮田・口仲谷には東から西に延びる丘陵上に列をなして存在する4基の古墳が知られていましたので、13基の古墳群となるはずでしたが、2011(平成23)~2012(平成24)年、NPO法人文化財センターが古墳調査を行った結果、「13基のうち1基は自然地形、2基で1基と推定される古墳で、合計11基」と報告されています。何れも直径6~13mの円墳。重機による竹林の土入れ・土取りなどで削平。5号墳・10号墳が木棺直葬、2号墳が木棺直葬で2基以上の埋葬施設ということが判明しています。副葬品などは出土せず、古墳の築造年代は6世紀~7世紀と推定されています(注10)。場所的に女谷・荒坂横穴群、美濃山横穴群、狐谷横穴群、松井横穴群、堀切横穴群に近く、築造もほぼ同時期で10基以上の群をなす勢力の古墳で横穴との関連の可能性が考えられています。

4、内里地区の失われた古墳(内里八丁遺跡内)

 1993(平成7)~1995(平成9)年の第二京阪道路建設予定地にかかる内里八丁遺跡(内里日向堂(ひゅうがどう)と上奈良長池にまたがる地点[G地点、右図参照])の調査で古墳が検出されました(注16)。周濠を円形に検出。直径20.5mの円墳と推定されました。埋葬主体部は削平。石室を構成する石材も皆無で、木棺直葬と推定。周濠やその近辺の遺構から須恵器(蓋杯)や土師器が集中して出土。近辺の遺構はこの古墳に伴う祭祀的性格が強いとされています。古墳の築造は近接遺構から出土した須恵器の分析により5世紀後半~6世紀前葉と推定。
 ◆会報第86号より-05 古墳と鏡⑩_f0300125_9522922.jpg『京都府遺跡調査報告書第30冊 内里八丁遺跡Ⅱ』(京都府埋蔵文化財調査研究センター,2001)では「(内里八丁遺跡G地区には)6世紀前半頃の円墳の残骸が確認されており、本来は、遺跡の立地する微高地の縁辺にいくつかの古墳が築造されたものの、後世に削平を受けてしまっている可能性もある。」と述べています。検出古墳は1基ですが、さらなる古墳検出の可能性が示唆されています。◆会報第86号より-05 古墳と鏡⑩_f0300125_9554371.jpg また、すぐ南の内里八丁遺跡のD地区、E地区からは古墳時代中・後期の住居跡が総計26棟検出されており、「掘立柱建物や規模の大きな住居跡など、有力者の痕跡を示すものは認められないので、比較的均質な居住者によって営まれた集落」と報告されています(前掲書)。
 内里八丁遺跡について「文献資料にみえる遺跡地一帯の動向」として概略次のように記述されています(前述報告書第30冊、要約)。
 “古墳時代集落(中期末~後期)の時期に、内里八丁遺跡周辺における歴史的な動向が日本書紀などに散見される。まず、『日本書紀』雄略17(494)年条にみる「内里の地に贄土師部(にえはじべ)を住まわせた」という記事があり、贄土師部とは、天皇家の食膳を司る役目を担っていたから、食物(野菜類)の栽培・供給といった面を考えると、木津川沿岸の微高地(自然堤防)上を利用した畑作、一帯での畑地としての土地開発が古くまで遡る可能性がある。それが朝廷直属の野菜類の栽培であることは、その後の「奈良園」へと結びつき、その成立に大きな影響を与えたとも考えられる。
 また『日本書紀』欽明26(565)年条に「高麗人を奈羅(現在は奈良と表記)の地に住まわせた」記事があるが、この時期の渡来系氏族の各地への移住に関しては、彼らが保有した高度な土木技術を背景とし、各地の開発を担わせたものと理解される場合が多く、この場合、この地域一帯に広がる木津川縁辺の自然堤防上の開発が想定される。
 この他、久世郡における仁徳紀・推古紀の栗隅(栗前)溝の記事がある。木津川東岸一帯だけでなく、木津川に面した低地部分の耕地開発を目的として、その用水確保(場合によっては排水を目的)のため栗隅(栗前)溝が開発されたと考えられるが、推古紀に相当する7世紀初頭~前半の開発は、屯倉の設置などとからめ、当地がかつて久世郡内に属していたことを考慮すると、まったく無縁の事象とも思えない。欽明紀の渡来人の移住・仁徳紀・推古紀にみる栗隅(栗前)溝の開堀などから、木津川沿岸のなかでも旧巨椋池南側一帯地域の耕作地拡大を目的とした土地開発が考えられる”。渡来人と内里八丁遺跡およびその付近の自然堤防上の遺跡(上奈良・下奈良遺跡・奥戸津遺跡・木津川河床遺跡等)・古墳と興味をひきます。

5、その他の地区の失われた古墳
 
御幸橋古墳(八幡市御幸橋の西)
 御幸橋古墳(所在地「御幸橋の西2本目の橋脚の下」)とあります(『八幡市の教育』)。この橋は現在の御幸橋でなく、1927(昭和2)年着工、平成年間に取り壊された数十m下流にあった橋です。「橋脚工事中に、工事障害物を取り除くため潜水夫を入れて水中作業中潜水夫が拾いあげたのが須恵器横瓶」(注17)で、石材、木棺破片(厚さ6cm、長さ180cm)が出土。築造年代は不明。内里八丁遺跡でも古墳が検出されていますので、自然堤防上に数基の古墳があった可能性があります。

 この他、『八幡市誌第一巻』に、「中ノ山遺跡(男山吉井・弓岡)付近から円筒埴輪片・土師器台が出土」「前述した古墳や遺跡の他に、破壊され、まったく消滅してしまったものも数多くあり・・・」との記述がありますので、現在判明している数以上の古墳がありました。
 古墳地図は会員の滝山氏の協力を得て作成しました。
           次回は、最終回「八幡の古墳と鏡・補足」です。

添付資料
◆会報第86号より-05 古墳と鏡⑩_f0300125_19112112.jpg

(注1)斎藤忠「埋没家屋」『日本考古学用語辞典』(学生社,1998)を参照して「埋没古墳」の意味を考えました。
(注2)会報84号「八幡の古墳と鏡(8)」参照
『八幡市埋蔵文化財発掘調査概報 第21集 女郎花遺跡第2次発掘調査概報』,八幡市教育委員会,1996
(注4)「西ノ口遺跡」『京都府遺跡調査概報 第81冊』,京都府埋蔵文化財調査研究センター,1998
(注5)「荒坂遺跡」『京都府遺跡調査概報 第56冊』,京都府埋蔵文化財調査研究センター,1994
(注6)「女谷・荒坂横穴群第13次」『京都府遺跡調査報告集 第157冊』,京都府埋蔵文化財調査研究センター,2014
(注7)「柿谷古墳・美濃山遺跡発掘調査報告」『京都府遺跡調査報告集 第146冊』,京都府埋蔵文化財調査研究センター,2011
(注8)「西二子塚古墳」『八幡市誌 第一巻』
(注9)「東二子塚古墳(第2次)」『八幡市埋蔵文化財発掘調査概報 第9集 』,八幡市教育委員会,1991
   「東二子塚古墳」『八幡市誌 第一巻』
(注10)「口仲谷古墳群」『京都府遺跡調査概報 第51冊』,京都府埋蔵文化財調査研究センター,1994
  京田辺市教育委員会「口仲谷古墳群 現地説明会資料」,2012.6.16
(注11)梅原末治「美濃山ノ古墳」(『京都府史蹟勝地調査会報告第二冊』, 京都府,1920)に「北部にはヒル塚、二子塚等あり、三ツ塚と称する一基は南方に存し」「今竹藪と化して墳形を存せず」、「土入れの際、鏡及び刀剣を発見」とあります。
(注12)八幡市ふるさと学習館石碑置き場にその石碑がありました。
(注13)梅原末治『梅仙居蔵日本出土漢式鏡圖集』,山川七左衛門,1923
(注14)『八幡市遺跡地図』,八幡市教育委員会,2005では「円墳か、墳丘削平、かつて石地蔵祠があり、地下深くから主体部出土したとの情報あり」と記述。
(注15)『八幡市遺跡地図』,八幡市教育委員会,2005
(注16)京都文化博物館『京都文化博物館研究報告第13集内里八丁遺跡』,1998
(注17)『鹽澤家藏瓦圖録』,伏見城研究会,2000




<<< 連載を抜けてTOPへ        この連載記事の続きは⇒⇒

by y-rekitan | 2018-07-28 08:00
<< ◆会報第86号より-04 八幡宮道 ◆会報第86号より-06 歴史... >>