◆会報第87号より-02 印章

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《講演会》
石清水八幡宮の印章

2018年8月 
八幡市文化センター第3会議室にて

鍛代 敏雄(東北福祉大学教育学部教授) 
       (石清水八幡宮研究所主任研究員) 
 
 今夏は、猛暑で、地震で、大雨で、台風21号の暴風と、大変な夏になりました。会員皆様宅・ご家族様は大丈夫でございましたか。
 そんな平成30年8月25日(土)午後2時より、八幡市文化ホールで「石清水八幡宮の印章」と題して、講演と交流の集いが開催されました。講師の鍛代敏雄教授は、石清水八幡宮研究所主任研究員として毎夏八幡にお越しになり、その都度講演をご依頼しております。今回もまた、新しい演題でお話を聞くことが出来ました。
 石清水文書の印章、石清水八幡宮寺の印章、祠官・別当家の印章と、種々のお話、特に「国宝宋版史記の蔵書印」について、その内容には圧倒される思いでした。鍛代先生ご自身によるご報告は以下の通りです。なお、当日の参加者は、39名でした。

はじめに

 約1万点におよぶ石清水八幡宮所蔵文書のなかには、多くの印章が捺された文書が残されています。その印影(印鑑)のすべてを網羅してお話しする用意はありませんが、近年の石清水八幡宮研究所の成果の一端をご紹介したいと思います。
 とくに国宝「宋版史記」(国立歴史民俗博物館所蔵)が、鎌倉時代の別当耀清の所蔵本であった点が明らかになりましたので、あとで詳しく述べたいと考えます。

Ⅰ 日本印章史の概説 

 はじめに、日本の印章史を概観しておきます。皆様ご存知の有名な金印「漢委奴国王」は、中元2年(57)、後漢の光武帝が印綬を倭奴国王に授与したもので、陰刻を封泥に用いられたと想像されます。文献では、『日本書紀』持統天皇6年(692)に「木印」(きのおしで)と見えますので、はじめは大王の手印であったものが、天皇を称するようになって「木印」を用いるようになったのでしょう。f0300125_21243733.jpg
 大宝令・公式令の官印(銅印)としては、周知の内印、すなわち「天皇御璽」(9㎝弱)と外印「太政官印」(7㎝強)が明記されています。その外に、国印や郡印、寺院の印もよく知られています。
 私印としては、摂関家の氏長者印や個人印、中世の公家では久我家の「宇宙」印の存在は有名です。もちろん、禅僧を中心に、画僧の落款を含めて、私印はありますが、平安時代の公家様文書から、印章による行政文書から花押による文書への転換がおこりました。まさに花押の時代に入ったということができます。
 ところが、戦国大名は突如として、印判を据えた文書を発給しはじめました。今川氏がその先駆ですが、戦国大名の国主・国家観を背景に、国印としての家印と、家督の国主印が生み出され、官僚機構を整備した行政文書が出されました。そのことは、信長・秀吉・家康の天下人へと引き継がれ、徳川将軍家の領知朱印状はもっとも効力を発揮した印判として公儀の権威を象徴しました。

Ⅱ 石清水文書の印章

 そこで、石清水文書の中の印影を眺めてみましょう。
 石清水文書の最古は、正暦3年(992)9月20日付けの大宰府符ですが、そこには官印「大宰之印」の朱印が捺されています(『大日本古文書 石清水文書』〈以下、『石』と略す〉2-479号)。また、延久4年(1072)9月5日付太政官牒(『石』1-122号)には、全紙の紙継目表ごと、計36顆の太政官印の朱印が捺されています。大江匡房(「朝臣」の自署がある)ら記録所(寄人)による荘園整理にかかわる貴重な史料です。高等学校の教科書にも載っているとおり、石清水八幡宮寺の護国寺領34か所のうち13か所が収公されました。
 時代はあたらしくなりますが、織田信長の「天下布武」の楕円形朱印〈『続石清水八幡宮史料叢書』3口絵〉と馬蹄形朱印と黒印(『同』2 3口絵)や、豊臣秀吉のいわゆる糸印(『同』2・3)、そして徳川家康の「忠恕」「家康」(『同』2・3)の朱印状、さらには徳川歴代将軍の朱印状がのこされています。
 なお石清水八幡宮には、松花堂昭乗の落款・印章が11顆所蔵されています。石印1、青磁1、あとは木印で、「昭乗」の法名印、「松花堂」「宝」「猩猩翁」の印文がわかります。

Ⅲ 石清水八幡宮寺の印章

 ついで、石清水八幡宮が発給した文書に捺された印章を確認しておきましょう。
 第1に、護国寺の「八幡寺印」です。たとえば、保安元年(1120)6月25日付けの宮寺符(『石』2-606)や保延元年(1135)10月10日付けの宮寺符(『石』2-609)、また建久3年(1192)3月日付けの検校善法寺(高野検校)成清譲状(『石』1-173号、道清の室紀氏に房領6箇所を譲る〈杉1-12〉)に朱印が確かめられます。
 その2は、方形の御正印(糸印)の朱印です。御正印預禰宜が管理し、祭祀には神前に奉じられました。文書としては、神人補任状や放生会などの祭儀の差符に据えられました。
 その3は、如意宝珠の印章そのものが所蔵されています。印文「八」+「卍」の朱印が、版木で刷られた「八幡宮牛玉宝印」に捺されました。
 その外には、八幡宮の蔵書印があります。江戸時代に奉納された典籍類に捺された「鳩嶺文庫」朱印、巻子本の外題符合の貼り紙に捺された近代の「田中門蹟文庫」朱印、明治・大正期の「男山八幡宮文庫之印」、「石清水文庫御書之印」、田中家分家の「東竹文庫」印が確認されます。

Ⅳ 祠官・別当家の印章

 ところで、別当家は家伝文書の修理をおこなっています。
 あとで触れるとおり、鎌倉期の宗清をはじめとして、中世から近世にかけての修理を実施した田中家の別当が、紙継目などに朱印を据えました。
 戦国期の田中奏清は、文明7年(1475)に巻子装された「八幡宮寺告文部類第」(『石』1-101頁)奥書に花押と、貼り紙の紙継に円形朱印「奏清」があります。奏清は、鎌倉期に道清・宗清によって編まれた「宮寺縁事抄」などを、文明年間以降に、裏打・修補をおこなっています。
 江戸期の田中敬清は、主に寛永年間(1624~40入滅)に裏打・修補を実施し、紙継目裏や奥書などに二重郭方形の「敬」朱印を据えました。
 おなじく17世紀、田中召清(善法寺幸清の子、敬清の養子)は、寛文年中(1661~1673)に裏打・修理をおこないました。署名と二重郭方形「召清」朱印があります。
 幕末維新期の田中昇清は、「異朝明堂指図記」(『石』4-1462号)の表紙・本紙継目裏に捺された敬清朱印にあわせて、紙継目裏ごとに「昇清」二重郭円形朱印を据えています。ちなみに昇清は、文久元年(1861)に検校職、同3年には孝明天皇の行幸をむかえ、慶応4年(1868) 還俗して「有年」と改名、社務1年、明治4年(1871)に社務に再任されています。
 では、鎌倉時代にさかのぼってみましょう。
先ほど触れた田中宗清です。第31代別当道清の実子で、第34代別当に就いています。文暦2年(1235)7月、幸清の入滅に際し、摂政九条道家が宗清を社務職に任命し、ようやく別当に就任しました。また田中道清以降、田中家が「筥﨑検校」(筥﨑別宮の検校職)になっています。なお、藤原定家との交流は知られています。宗清が麝香と鸚鵡を贈与した記事が、定家の日記『明月記』嘉禄2年〈1226〉2月7日条に見えます。
 宗清に関しては、二重郭菱形・印文「宗」朱印が、建保2年(1214)2月2日付けの「宮寺縁事抄末二」(『石』5-686頁)に紙継目裏と花押に重ねて朱印が捺されています。このようないわば〈花押重ね朱印〉は、祠官家朱印の初見となります。なお円形の糸黒印があわせて捺されていますが、未詳です。
 別当の順序では、宗清より先ですが、善法寺(竹)幸清もまた、印章を使っています。第32代別当・善法寺祐清(師主・仁和寺覚快〈鳥羽院第7皇子〉)の実弟で、第33代別当に就任した幸清(祐清実弟、師主・守覚親王〈後白河第2皇子〉)は、宗清の朱印の直後から、同じように菱形の「幸」朱印を、建保7年(1219)閏2月25日付けの「諸縁起」(『石清水八幡宮史料叢書』2-44頁)に、別当法印大僧都幸清撰、執筆僧隆宴の奥書とともに、閏2月にかけて朱印が捺されています。ちなみに、祐清・幸清の兄弟も、修史事業をおこなっていました。なお、幸清は、香椎宮検校職を兼務していました。

Ⅴ 国宝「宋版史記」の蔵書印

 いよいよ、国宝「宋版史記」の蔵書印についてお話しする順序となりました。ずばりいえば、善法寺幸清の実子、善法寺(柳)耀清の朱印と黒印が捺されています。f0300125_2149952.jpg
 柳を称した善法寺耀清は、第33代別当幸清の実子で、仁治3年(1242)に37代別当、建長5年(1253)に社務検校に就任しています。さらに香椎宮(福岡市、祭神は神功皇后・仲哀天皇の「廟」)の検校を兼務していました。
 石清水八幡宮所蔵の「宮寺并極楽寺恒例仏神事惣次第」(『石』1 -157~190頁)に捺された印章は、単辺(線)長方形朱印で、偏が「卬」、旁が「水」の上字、下字は偏が「青」、旁が「光」の一字で、「靗」(てい)と見なされます。上の一字の読み方は不明です。意味も、想像するしかありませんが、水を仰ぐと考えれば、石清水八幡宮を尊崇し、八幡大菩薩(応神天皇)をまっすぐに正視することを意味しているのかも知れません。
 同史料では、①冒頭・勅節十箇度、②自筆の裏書(墨書注記)、③紙継目裏、④寛元2年(1244)11月日付耀清重注進状署名「別当法印権大僧都耀清」の「耀清」に重ねた朱印、以上、計28箇所の捺印が確かめられます。法量は、縦3.2㎝ 横1.8㎝です。
 この耀清の印章の印影が、国宝「宋版史記」(国立歴史民俗博物館蔵、宋の慶元年間(1195~1200)の印行、全冊完存の世界最古版本)の蔵書印と同じものであることを発見しました。50年前に国宝に指定されてから、現在まで、いつ、どのように輸入され、誰が所蔵していたか、不明でした。もちろん蔵書印の存在は知られていましたが、人物は特定されていませんでした。
 国立歴史民俗博物館における調査の結果、①単辺(線)長方形朱印・法量(縦3.2㎝ 横1.8㎝)
②単辺(線)長方形黒印・法量(縦3.2㎝ 横1.8㎝)、③方形朱印「靗」(1字印)法量(縦1.9㎝ 横1.4㎝)を確認しできました。ただし、印文は同じですが、①朱印と②黒印の陽刻は異なることがわかりました。耀清は2種の印章を所持し、なお、一字印の存在もわかりました。蔵書印であるとともに、石清水八幡宮所蔵本に鑑みると、花押の証判と同じような、印章による証印と考えられます。
 ともかくも、従来は不明とされてきた舶来、将来の時期が、少なくとも13世紀の半ば頃までは遡る点が明白となりました。
 中厳円月(1300~1375)、子瑜元瑾、心華元棣(1342~?)、仲方中正(1373~1451)らの禅僧の関与などが推測されてきました。西園寺実隆が史記の不審を訊いた学僧・月舟寿桂(1470~1533)の多数の書き込みは確実ですから、所持の事実は間違いありません。そして、従来指摘されてきた通り、南化玄興(1538~1604)から直江兼続にわたり、上杉藩主・興譲館所蔵にいたった点は、興譲館の蔵書印から明らかです。上杉隆憲氏所蔵の時期に国宝に指定され、その後、国立歴史民俗博物館に移管されました。
 そこで、石清水からの流出時期が問題となります。正直、未詳といわざるをえませんが、上記の学僧衆をながめると、「学問づら」と呼ばれた、京都の建仁寺あたりにはいった可能性は見逃せません。おそらく14世紀後半にあった、善法寺家の家督争い(「門跡相論」)にかかわって、流出したのではないかと想像しています。すなわち、善法寺了清と新善法寺永清とによる競望でしたが、「祠官家系図」の永清の項に、貞治年間(1362~1368)に「坊具重代物悉却之了」と記されています。これだけの記述で、詳細は不明ですけれども、善法寺家の重代宝物が流出するような状況がイメージされます。
 さらに今一つ、今回の調査で新たな史実が発掘されました。宋版史記と同じ蔵書黒印の存在が知られていた、宮内庁書陵部蔵「史記集解旧鈔巻子本」(范雎蔡澤列伝第十九・史記七十九)には、「宋版史記」の黒印と同様の印文2字・陽刻(法量:縦3.2㎝ 横1.8㎝)の印影が、紙継目表の2箇所に確認できました。耀清が写本を作成し、所蔵していたことは確実です。その外に、このような写本の巻子本は発見されていません。宋版史記の写本をすべて作成したとは思われませんので、内容を選別して写本を作成したか、または他の理由を想定する必要があります。まったく不明ですが、天部の界線上に捺された黒印個所の本文を通覧すると、「宗廟」の記載を見出しました。天下の宗廟と称揚された石清水八幡宮から推して、この記述にたいするこだわりがあったものかも知れません。

おわりに

 耀清はどうして「宋版史記」を所蔵することができたのでしょうか。本人が将来品を入手するルートを想定しておく必要があるでしょう。参考になる点は、先に触れた田中宗清が藤原定家に舶載の鸚鵡や麝香をプレゼントしたところにあります。宗清は博多の筥崎宮の検校職を兼ねていました。検校は石清水別宮の統括者でした。ひとしく、耀清は香椎宮の検校でした。筥崎宮や香椎宮の神人が日宋貿易に従事していたことは周知の事実です。そして、博多から瀬戸内、兵庫・尼崎から淀川を遡上し、淀にいたる内陸水路の要地には石清水神人が点在し、独自の物流ネットワークを展開していました。神人らの運送能力、荘園・別宮の石清水ネットワークをもって、舶載品の入手と所蔵の問題を推敲することは、わたしにとっては、まことに魅力的なテーマです。

 なお、本報告に関する詳細については、「鎌倉時代における石清水八幡宮寺祠官の印章」(『芹沢銈介美術工芸館年報』9号、2018年)を、ご参照ください。

『一口感想』より

石清水八幡宮の歴史の古さをあらためて確 認させていただきました。別当家の系図も初めて見るものでした。 (N)
あっという間の興味ある話ばかりでした。久我家の「宇宙」印は驚きでした。 曹洞宗を開山された道元禅師は私の所属している 「宇治観光ボランティア」の宇治にある「興聖寺」(本山)初回開山の禅師です。 久我家のこと、 宇宙印のこと、 また印章に係わる話をガイドに生かしていきます。  (S. G.)
いつも大変興味深いお話ありがとうございます。定家の「明月記」の話、面白かった です。34代宗清が廻ってくる筈の順番(別当)が廻ってこないのを相談し、それがそのまま日記となって残っている。いつの時代も同じですね。 (S. K.)
 

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by y-rekitan | 2018-09-28 11:00 | Comments(0)
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