これまで10回にわたって、「八幡の古墳と鏡」について書いてきました。 その中で八幡には、
今回は連載を終えるにつき、追加・補足、訂正事項について触れたいと思います。 内里古墳から出土したとされる三角縁神獣鏡について内里在住の小橋嘉宏さんから情報をいただきました。その内容は奈良大学文化財学科の魚島純一教授からのものです。
「八幡の古墳と鏡(4)」で、“西車塚古墳出土の三角縁神獣鏡と同じ型・文様の鏡([同型鏡])が全国の古墳から9枚出土している。三角縁神獣鏡の中で最高の枚数である”と述べましたが、この同型鏡はさらに増えて10枚になることがわかりました。 奈良県葛城地方には4世紀後半から5世紀後半までの古墳群(馬見古墳群)があり、その中には200mを超すものも数基あります。八幡の古墳とほぼ同時期に築造が開始されていますが、築造期間が長い古墳群です。その中で御所市にある室宮山古墳(室大墓)は最大の大型前方後円墳(全長238m、西車塚古墳の2倍, 5世紀初め)です。ここから西車塚古墳出土鏡と同型の鏡片が出土しています。関西大学の網干善教氏は「室大墓(宮山古墳)の後円部の副葬品の中に、三角縁神獣鏡の唐草文帯の二神二獣鏡の破片が出土」「この鏡が日本で作られた鏡なのか、中国で作った鏡なのかということは、私が学生のころから議論がありました」(注1)と述べ、大塚初重『古墳辞典』(東京堂出版)でも“室宮山古墳出土の鏡片と、西車塚古墳、奈良県佐味田宝塚古墳・兵庫県ヘボソ塚古墳出土鏡に類似するものが含まれている”と解説されています。同じ文様の鏡がなぜ多く作られ、広範囲の古墳から出土するのか。葛城地方最大の古墳の被葬者、西車塚古墳の被葬者、この同型鏡をもつ他の古墳の被葬者との関係、またヤマト王権との関係は?三角縁神獣鏡はヤマト王権から各地域の有力首長に配布され、同型鏡[同笵鏡]の分布が初期ヤマト王権と地方との政治的関係を考える上で有力な手掛かりになるといわれており、今後の研究が期待されます。 「八幡の古墳と鏡(5)」で、石不動古墳出土の遺物として鏡、石釧、管玉、直刀、刀子、短甲などと共に「鉇(しゃ)」があり、「鉇〔農耕具か?矛(ほこ)か?〕」と書きましたが、読み方は「ヤリガンナ」で、「木工具」だとわかりました。お詫びして訂正します。 わかったのは、大阪府立近つ飛鳥博物館(太子町)で紫金山(しきんざん)古墳(茨木市)出土の「鉇」の実物を展示しており、説明版に「鉇、ヤリガンナ」とフリガナをしていたからです。平凡社『世界大百科事典』でも「やりがんな[鐁//鉇]」と確認できました。 現在は平らな『カンナ』(台鉋、ダイガンナ)で木を削っていますが、台鉋が登場したのは室町時代以降のことで、それ以前は三角形の槍のような『カンナ』(『ヤリガンナ』)で、木を削り平らにしていました。ですから室町時代以前の『カンナ』といえば『ヤリガンナ』を意味します。万葉集にも鉇についての和歌があります。(注2) 「ヤリガンナ」の歴史は古く、弥生時代の遺跡-有名な吉野ケ里遺跡(佐賀県)からも出土していて、学習展示室に展示されていました(注3)。近辺の枚方市でも3世紀中葉(弥生時代の終末頃)の中宮ドンバ1号墓(枚方市宮之阪2丁目、方形周溝墓(注4)系の墳丘墓)から鉄剣や鉄鏃と共に鉇が出土しています(注5)。八幡では石不動古墳以外に美濃山王塚古墳から(推定)5本出土しています。神戸市中央区の竹中大工道具館には古代の鉇の復元品と共に、平らにしている様子を示す中世の絵も展示されています。鉇は歴史的に、あるいは用途の上から10種類ほどに分類され、古代・中世において木を加工する道具として貴重でした(注6)。 「八幡の古墳と鏡(6)」で、美濃山王塚古墳から甲冑(かっちゅう)として「衝角付冑(しょうかくつきかぶと)、〔三角板革綴(かわとじ)〕短甲、頸鎧(くびよろい)、肩鎧(かたよろい)、草摺(くさずり)」が出土していると述べました。「頸鎧(くびよろい)」とルビを振っていましたが、「あかべよろい」が正しい名前であることがわかりましたので、お詫びし訂正します。 「頸鎧・肩鎧」はそれぞれ頸(首)廻り、肩を覆う小具足(ぐそく)(鎧)ですが、2つは併合し垂下して使用されます(注7)。宇治市歴史資料館で宇治二子山古墳の企画展があったとき出土遺物として「頸鎧(あかべよろい)」の実物が展示されていて、そのとき学芸員の方から「頸鎧は鎧用語で昔から使われている言葉である。『頸』という字に『あかべ』との読み方はないので当て字だと思われる」と教わりました。「頸鎧」の名は『日本書紀』『東大寺献物帳』『延喜式』にみえます(注8)。しかし、なぜ「あかべよろい」というのか、「あかべ」の意味など、まだわからないままです。 八幡の古墳と鏡(7)「ヒル塚古墳の名前の謎」で『ヒル』の意味について、“長濵尚次『男山考古録』巻14に「昔、日孁命(ひるめのみこと)神社があった」という長老の話があり、「ヒル塚」の名の由来を疑問形で記述している”旨を書きました。そのとき「日孁(ひるめ)」の意味や「日孁命」についてよくわかりませんでしたが、その後「日孁」の意味を考えるヒントになる本を読みました。原田大六氏(注9)の『実在した神話』(学生社,1972)です。『日本書紀』神代紀(上)に天照大神(あまてらすおおみかみ)の話があり、別名を大日孁貴(おおひるめのむち)といいます。原田氏は「『日孁(ひるめ)』とは『太陽の妻』ということ」、「ヒルメもヒメ(日女)も同じ意味で、大日孁貴(おおひるめのむち)はヒルメのうちでも最高位の太陽を夫とした女」として「日本神話のヒロインとして迎えられる」と述べています。広辞苑(第六版,2009)では、「【大日孁貴(おおひるめのむち)】(『ひるめ』は『日の女』、『孁』は巫女(みこ)。太陽神の巫女から太陽の女神そのものとなる。『むち』は尊称。)天照大神の別名。」とあります。原田氏はまた、天照大神は“①神としての太陽(日神)②太陽を祭る者(日の司祭者)③女神(大日孁貴)④御神体を八咫鏡(やたのかがみ)とする(日象鏡)⑤天皇家の祖先神(皇祖神)の5特質が備わっている”と述べています。以上のことから“日孁(ヒルメ)とは日女(ヒメ)、巫女(ミコ)を意味する”と推察します。 日孁命神社があったとすれば、それはその方(巫女あるいは太陽神)を祀る神社ではないか、と想像が広がります。しかし、日孁命神社については江戸時代末期に長老が「昔、あった」といっているので、あったとしても江戸時代中期までのこと、本当にあったかどうかは現在確かめるすべがありません。“ヒルメ→太陽神を祀る巫女→太陽→ヒル、そして太陽と一対のものとして”月→「月夜田」→月読”と思いをはせたくもなります。(月読尊は天照大神の弟)。しかし、ヒルメの意味以外については不明と言わざるを得ず、ヒル塚古墳の名は謎のままです。 〔次号(その2)へ続く〕空白
by y-rekitan
| 2018-09-28 10:00
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