◆会報第87号より-03 古墳と鏡⑪

シリーズ 「八幡の古墳と鏡」・・・⑪


八幡の古墳と鏡(11)

―伝えていきたい八幡の奥深い古墳時代(その1)―

濵田 博道 (会員)

はじめに

 これまで10回にわたって、「八幡の古墳と鏡」について書いてきました。
その中で八幡には、
30基近くの古墳(横穴墓を含めると130基を超える)
古墳から中国鏡・倭鏡を合わせて30数枚出土
古墳時代前期には木津川左岸最大の前方後円墳(西車塚古墳、墳長約120m)
九州との深いつながりが推定される阿蘇溶結凝灰岩製石棺の古墳(八幡茶臼山古墳)
朝鮮半島製と推測され、全国でも2例しかない渦巻装飾付鉄剣(ヒル塚古墳)
朝鮮半島南部勢力関連の甲冑、紐(ひも)をかけた痕跡の鉄鋌(てつてい)(精錬された鉄塊)束の出土東車塚古墳・美濃山王塚古墳か?)
6世紀後半~7世紀前半に京都府下最大級の規模で横穴墓の築造
など述べてきました。
 今回は連載を終えるにつき、追加・補足、訂正事項について触れたいと思います。

1、内里古墳出土の三角縁神獣鏡について

 内里古墳から出土したとされる三角縁神獣鏡について内里在住の小橋嘉宏さんから情報をいただきました。その内容は奈良大学文化財学科の魚島純一教授からのものです。
魚島教授が徳島県立博物館におられたとき、所蔵者の耕三寺博物館からこの三角縁神獣鏡を借用してX線透過撮影および蛍光X線分析をされ、わかったことは鏡はどの段階かは不明だが修理が加えられていること。
修理後、『梅仙居蔵日本出土漢式鏡圖集』(1923)に梅原末治氏が実見した文章を書いていることから鏡の発見後、たいして時間をおかずに修理がされたと考えられること。
型取り作成したレプリカ(複製品)が、現在も徳島県立博物館に所蔵されていることです。

2、西車塚古墳出土の三角縁神獣鏡について

 「八幡の古墳と鏡(4)」で、“西車塚古墳出土の三角縁神獣鏡と同じ型・文様の鏡([同型鏡])が全国の古墳から9枚出土している。三角縁神獣鏡の中で最高の枚数である”と述べましたが、この同型鏡はさらに増えて10枚になることがわかりました。
 奈良県葛城地方には4世紀後半から5世紀後半までの古墳群(馬見古墳群)があり、その中には200mを超すものも数基あります。八幡の古墳とほぼ同時期に築造が開始されていますが、築造期間が長い古墳群です。その中で御所市にある室宮山古墳(室大墓)は最大の大型前方後円墳(全長238m、西車塚古墳の2倍, 5世紀初め)です。ここから西車塚古墳出土鏡と同型の鏡片が出土しています。関西大学の網干善教氏は「室大墓(宮山古墳)の後円部の副葬品の中に、三角縁神獣鏡の唐草文帯の二神二獣鏡の破片が出土」「この鏡が日本で作られた鏡なのか、中国で作った鏡なのかということは、私が学生のころから議論がありました」(注1)と述べ、大塚初重『古墳辞典』(東京堂出版)でも“室宮山古墳出土の鏡片と、西車塚古墳、奈良県佐味田宝塚古墳・兵庫県ヘボソ塚古墳出土鏡に類似するものが含まれている”と解説されています。同じ文様の鏡がなぜ多く作られ、広範囲の古墳から出土するのか。葛城地方最大の古墳の被葬者、西車塚古墳の被葬者、この同型鏡をもつ他の古墳の被葬者との関係、またヤマト王権との関係は?三角縁神獣鏡はヤマト王権から各地域の有力首長に配布され、同型鏡[同笵鏡]の分布が初期ヤマト王権と地方との政治的関係を考える上で有力な手掛かりになるといわれており、今後の研究が期待されます。

3、石不動古墳出土の「ヤリガンナ」について

 「八幡の古墳と鏡(5)」で、石不動古墳出土の遺物として鏡、石釧、管玉、直刀、刀子、短甲などと共に「鉇(しゃ)」があり、「鉇〔農耕具か?矛(ほこ)か?〕」と書きましたが、読み方は「ヤリガンナ」で、「木工具」だとわかりました。お詫びして訂正します。
わかったのは、大阪府立近つ飛鳥博物館(太子町)で紫金山(しきんざん)古墳(茨木市)出土の「鉇」の実物を展示しており、説明版に「鉇、ヤリガンナ」とフリガナをしていたからです。平凡社『世界大百科事典』でも「やりがんな[鐁//鉇]」と確認できました。
 現在は平らな『カンナ』(台鉋、ダイガンナ)で木を削っていますが、台鉋が登場したのは室町時代以降のことで、それ以前は三角形の槍のような『カンナ』(『ヤリガンナ』)で、木を削り平らにしていました。ですから室町時代以前の『カンナ』といえば『ヤリガンナ』を意味します。万葉集にも鉇についての和歌があります。(注2)f0300125_18181227.jpg
 「ヤリガンナ」の歴史は古く、弥生時代の遺跡-有名な吉野ケ里遺跡(佐賀県)からも出土していて、学習展示室に展示されていました(注3)。近辺の枚方市でも3世紀中葉(弥生時代の終末頃)の中宮ドンバ1号墓(枚方市宮之阪2丁目、方形周溝墓(注4)系の墳丘墓)から鉄剣や鉄鏃と共に鉇が出土しています(注5)。八幡では石不動古墳以外に美濃山王塚古墳から(推定)5本出土しています。神戸市中央区の竹中大工道具館には古代の鉇の復元品と共に、平らにしている様子を示す中世の絵も展示されています。鉇は歴史的に、あるいは用途の上から10種類ほどに分類され、古代・中世において木を加工する道具として貴重でした(注6)。

4、美濃山王塚古墳出土の「ヨロイ」について

 「八幡の古墳と鏡(6)」で、美濃山王塚古墳から甲冑(かっちゅう)として「衝角付冑(しょうかくつきかぶと)、〔三角板革綴(かわとじ)〕短甲、頸鎧(くびよろい)、肩鎧(かたよろい)、草摺(くさずり)」が出土していると述べました。「頸鎧(くびよろい)」とルビを振っていましたが、「あかべよろい」が正しい名前であることがわかりましたので、お詫びし訂正します。
 「頸鎧・肩鎧」はそれぞれ頸(首)廻り、肩を覆う小具足(ぐそく)(鎧)ですが、2つは併合し垂下して使用されます(注7)。宇治市歴史資料館で宇治二子山古墳の企画展があったとき出土遺物として「頸鎧(あかべよろい)」の実物が展示されていて、そのとき学芸員の方から「頸鎧は鎧用語で昔から使われている言葉である。『頸』という字に『あかべ』との読み方はないので当て字だと思われる」と教わりました。「頸鎧」の名は『日本書紀』『東大寺献物帳』『延喜式』にみえます(注8)。しかし、なぜ「あかべよろい」というのか、「あかべ」の意味など、まだわからないままです。

5、ヒル塚古墳の『ヒル』とは何かについて

 八幡の古墳と鏡(7)「ヒル塚古墳の名前の謎」で『ヒル』の意味について、“長濵尚次『男山考古録』巻14に「昔、日孁命(ひるめのみこと)神社があった」という長老の話があり、「ヒル塚」の名の由来を疑問形で記述している”旨を書きました。そのとき「日孁(ひるめ)」の意味や「日孁命」についてよくわかりませんでしたが、その後「日孁」の意味を考えるヒントになる本を読みました。原田大六氏(注9)の『実在した神話』(学生社,1972)です。『日本書紀』神代紀(上)に天照大神(あまてらすおおみかみ)の話があり、別名を大日孁貴(おおひるめのむち)といいます。原田氏は「『日孁(ひるめ)』とは『太陽の妻』ということ」、「ヒルメもヒメ(日女)も同じ意味で、大日孁貴(おおひるめのむち)はヒルメのうちでも最高位の太陽を夫とした女」として「日本神話のヒロインとして迎えられる」と述べています。広辞苑(第六版,2009)では、「【大日孁貴(おおひるめのむち)】(『ひるめ』は『日の女』、『孁』は巫女(みこ)。太陽神の巫女から太陽の女神そのものとなる。『むち』は尊称。)天照大神の別名。」とあります。原田氏はまた、天照大神は“①神としての太陽(日神)②太陽を祭る者(日の司祭者)③女神(大日孁貴)④御神体を八咫鏡(やたのかがみ)とする(日象鏡)⑤天皇家の祖先神(皇祖神)の5特質が備わっている”と述べています。以上のことから“日孁(ヒルメ)とは日女(ヒメ)、巫女(ミコ)を意味する”と推察します。
 日孁命神社があったとすれば、それはその方(巫女あるいは太陽神)を祀る神社ではないか、と想像が広がります。しかし、日孁命神社については江戸時代末期に長老が「昔、あった」といっているので、あったとしても江戸時代中期までのこと、本当にあったかどうかは現在確かめるすべがありません。“ヒルメ→太陽神を祀る巫女→太陽→ヒル、そして太陽と一対のものとして”月→「月夜田」→月読”と思いをはせたくもなります。(月読尊は天照大神の弟)。しかし、ヒルメの意味以外については不明と言わざるを得ず、ヒル塚古墳の名は謎のままです。
〔次号(その2)へ続く〕空白
                     
(注1)御所市教育委員会著『古代葛城とヤマト政権』(学生社),
(注2)「真鉇(まかな)もち弓削(ゆげ)の川原の埋木のあらわるましじきことにあらなくに」(万葉集巻7,1385)
「真鉇(まかな)もち」は弓削の枕詞で(鉇を持って弓を削っていたことから枕詞になったと思われます)、「鉇」は『加奈』『加牟奈』と読まれていました。
吉川金治『ものと人間の文化史 斧・鑿・鉋』
      法政大学出版局,1984 P197
(注3)吉野ケ里学習展示館では「ヤリガンナ」の漢字は「刨子」となっていました。
(注4)弥生時代~古墳時代初期に見られる墓。墓域を幅1m前後の溝で方形に区画し、低い墳丘を持つ。一辺15m程度で、集団墓地を構成するものが多い。
(注5)『新版 郷土枚方の歴史』,枚方市,2014
(注6)志村史夫『古代日本の超技術』,講談社,2012
斎藤忠『古代考古学用語辞典』,学生社,1998
(注7)『原色 日本の美術』,講談社,1979
(注8)監修東京国立博物館等 尾崎元春『日本の美術 NO24 甲冑』,至文堂,1968
(注9)1917年、福岡県糸島生まれ。九州大学名誉教授中山平次郎氏に師事。日本考古学・古代史研究者。糸島市立歴史博物館長に就任予定であったが、直前に病死。



<<< 連載を抜けてTOPへ        この連載記事の続きは⇒⇒

by y-rekitan | 2018-09-28 10:00 | Comments(0)
<< ◆会報第87号より-02 印章 ◆会報第87号より-04 猪鼻坂 >>