◆会報第87号より-04 猪鼻坂

他國の「猪鼻坂」はどこに

野間口 秀國(会員)


歌集『猪鼻坂』に気づかされて

 2013年の1月から同好のメンバーが集い「男山考古録(巻第十一)を読む会」が隔月で催され、私もこの会に参加しておりました。本の正式な名称は『石清水八幡宮叢書一 男山考古録 巻第十一』(*1)であり、読む会にてその「巻第九」を読むことはありませんでしたが、そこには私にとってとても気になることが書かれてあったことを今でも良く覚えています。それは「猪鼻坂(いのはなざか)」と題する名前の項で、以下にその一部分を引用したいと思います。
 f0300125_11391573.jpg引用始め= 二鳥居より上神幸橋を渡す谷迄の少北より西に登る坂路をいふ、古道なりと、他國にても同名あり、皆坂路にて高き處より下りて少しく末の所にて高く登る、其形猪の鼻に似たる故に斯名付く公事根源云、…以下省略 =引用終わり。引用したこの文章中に「…他國にも同名あり…」とあり、これを読んだ時「猪鼻坂と呼ばれる坂のある他國とはどこだろう」と漠然とした疑問を持ちました。しかし、その疑問を解くこともなくそのままになっておりました。新しく覚えることより、忘れることが多くなった現在、当時の漠然とした疑問がふとした出来事をきっかけに鮮明に甦ってきて、この機会にと思い調べてみました。
 「男山考古録を読む会」は現在では開催されておりませんが、ほとんど忘れていた「他國とはどこだろう」との疑問を解くきっかけとなる機会がこの夏に突然訪れました。梅雨時のある日、仲間と短歌創作について学ぶクラスでのこと、担当の先生の机に四五冊の歌集が置かれていました。クラスの終わる頃、先生が「良かったら好きな一冊を持ち帰って読んでください。次回に返却すれば良いですから。」と話され、全ての本が誰かの手に渡りました。私はその時には借りることが出来ませんでしたが、その中の一冊の題名に興味を持ったのです。歌集の題名は『猪鼻坂(いのはなざか)』(*2)で、465首を収めた著者の第3歌集です。次回のクラスで私が借りたのは言うまでもなく、帰宅後にすぐに読み始めました。後記を読むと、「猪鼻坂」という地名は著者の産土の地であることが書かれてあり、更に、幼い頃、この辺りに住む友に連れられて、崖から湧き水の滴っていた「カチ坂」と呼ばれる地を歩いたことがあると続いていました。「猪鼻坂」の「猪」とは「井」であり、「水」のこと、すなわち浜名湖の湖水のことであろう。「鼻」は「端」、その先端ということであろう。断定を避けつつも、友と登った50mほどの坂が「徒歩(かち)坂」、「猪鼻坂」であったに違いない。 

『更級日記』に見える「いのはな」の地名

 著者による文面の最後は、「猪鼻坂」で “あったに違いない” と書かれてあり、決して「ここが猪鼻坂である」といった断定する書かれ方になっていなかったのが更に私の興味を引くことになりました。改めて後記を読み返すと、書き出しに“『更級日記』の冒頭近く、…”とありました。いうまでもなく翌日には図書館に足を運んで『更級日記』(*3)を読みました。ご承知のことと思いますが、『更級日記』は1020年(寛仁4)9月、父、菅原孝標(たかすえ)が上総国(千葉県中部)の国司の任を解かれて、都への旅立ちからを日記に記した孝標の女(むすめ)の手になる日本の古典です。上総国を出て京へと向かい、やがて遠江国(静岡県西部)浜名湖に到着します。少しだけ『更級日記』から引用しますと;=天竜川を渡り、浜名の橋まで来た。以前、父とともに上総へむかったときは、たしかに渡った橋が、その後、洪水にでも流されたのか、いまはあとかたもない。しかたがないので船で渡る。外海のほうは、荒模様で高い波があがっている。入江の洲は洗い流されて、何もない。松林のしげるなかまで寄せては返す白波が、くだけ散る玉のようだ。古歌にいうように、松の根かたを波が越えるように見えるという、めずらしい景色である。いのはなというさびしい坂をのぼり、三河国の高師の浜に行きつく。=引用終わり 読み終えてから、男山考古録に「…他國にも同名あり…」とあった「猪鼻坂」は、ここに書かれた浜名湖近くにあるのだろうことが解りました。かつて浜名湖は琵琶湖の「近淡海(ちかつあふみ)」に対して「遠淡海(とおつあふみ)」と呼ばれ、「遠江(とうとうみ)」の国名のもととなったようです。南側を遠州灘に面した浜名湖の西部に位置する現在の湖西市には、江戸時代、東に京都から数えて東海道第31番目の宿場(*4)である新居宿が、そして西に白須賀宿と、二つの宿場がありました。『更級日記』に記されたことからも、この地は古くから東西を結ぶ交通の要衝であっただろうことも理解できます。

他國にも「猪鼻坂」は実在するのか

 さて、『更級日記』は、1020年(寛仁4)9月3日、孝標の女が13歳の時、父の赴任先を出発した日より、1059年(康平2)夫 橘俊通との死別の頃までを書いた平安時代中頃に発表された回想録です。一方の『石清水八幡宮叢書一 男山考古録』は江戸時代の後期、石清水八幡宮の宮大工の子として生まれた長濵尚次(ながはまひさつぐ)によって、1848年(嘉永4)によって著された八幡の地誌です。時代を超えて書かれたた回想録と地誌を考えると、尚次が、あえて「猪鼻坂」の項に「…他國にも同名あり…」と書いたのは『更級日記』に書かれた「猪鼻坂」のことを思って書いた、と、私にはそう思えてならないのです。そこで前述の歌集『猪鼻坂』の後記と、『更級日記』の富士川の項を改めて読み直して、現在でも「猪鼻坂(いのはな というさびしい坂)」が存在するのかを知りたくなって調べてみました。f0300125_1147163.jpg手許にある道路地図(*5)を見ると、東進する東名高速道路が三ケ日インターチェンジ近くで新東名高速と別れるあたりから浜名湖にさしかかりますが、この湖の北西部に浜名湖の本体部分と繋がった「猪鼻湖」と呼ばれる湖があります。しかしながら、前述の『更級日記』に記載された「旅の地図」には、浜名湖の南端部分に“いのはな”とのみ平仮名表記にて書かれてあり、その地図からだけではそれが坂であることは判断できませんでした。そこで、更に新居(あらい)町(現在では湖西市新居町)史を始めとする、湖西地域や新居の歴史などについて書かれた複数の資料(*6)~(*9)にも目を通しました。『湖西風土記』では古代交通路の地図とともに「猪鼻駅」に関する835年(承和2)、および843年(承和10)年の史料が紹介されてあり、浜名湖南端に位置するこの猪鼻駅は水害を避けるためにすたれて、中世の初めに橋本宿がこれに代わったとの説や、湖北にあったとの説も併せて紹介されています。また「猪鼻坂」については『更級日記』に書かれたことも紹介されてあります。更に、『新居ものがたり』では「東海道と猪鼻駅(いのはなのうまや)」の項で、猪鼻駅の所在地には三つの説があること、そして猪鼻駅は『更級日記』の記載内容では新居町浜名の東南にあたること、奈良時代の窯業の歴史より湖西市の中央部に置かれていたと推定されることなどが紹介されてあります。『静岡県の地名 日本歴史地名大系22』(*10)も確認しましたが、「猪鼻坂」は前述の新居宿(新居町)と白須賀宿(白須加町)にかけてのあたりと書かれてありますが、項目としての「猪鼻坂」の地名は見当たりませんでした(なおこの地名大系には、“静岡県史では別の場所であることも記され…”とあります)。

「いのはなの坂」はあったと思いたい

 他の観光案内資料にも目を通しましたが、「猪鼻坂」の場所が明確に記されたものにはついに出会うことはできませんでした。いろいろな資料や地図などに目を通して、改めて資料をお送りいただいた湖西市のご担当者のメモをよくよく読んでみましたら、“複数の説がある事、場所が明らかになっていない事、湖西(こさい)市発行の資料で直接「猪鼻坂」に関する資料は存在しない事、また白須賀(最西端の宿場)から新居町(東隣の宿場)のあたりであったと推測されている事”などが書かれてあり、現在の様子や「猪鼻坂」の扱いについても良く理解できました。きっかけとなった、歌集の著者が「友と登った坂がそうであったに違いない」と書いておられることを思い起こし、今では公式に地名としては残されていないようですが、確かに「いのはなの坂」はあったのだろうと思います。長濱尚次はきっと『更級日記』を読んでおり、「…他國にも同名あり…」と書いたのであろう、と、私はそう理解しています。 最後に、この度、静岡県湖西市観光協会の皆様よりいただきましたご親切に対し紙面をお借りしてありがたく感謝申し上げます。  (2018.08.31)

参考文献等;
(*1)『石清水八幡宮叢書一 男山考古録 巻第九』 石清水八幡宮刊
(*2)『猪鼻坂』 柴田典昭著 砂子屋書房刊
(*3)『21世紀に読む日本の古典 4 土佐日記・更級日記』 森山京著 ポプラ社刊
(*4)『新居宿 まち歩きマップ』 NPO法人新居まちネット刊
(*5) 『関東・甲信越・静岡・福島道路地図』 昭文社刊
(*6)『新居町史』 第一巻 通史編
(*7)『地名が語る新居』 新居町教育委員会
(*8)『新居ものがたり 歴史100選』 新居町教育委員会
(*9)『湖西風土記文庫 – 行き交う - 』 静岡県湖西市 
(*10)『静岡県の地名 日本歴史地名大系22』 平凡社刊

 
 
by y-rekitan | 2018-09-28 09:00 | Comments(0)
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