◆会報第87号より-05 天正の地震

天正の大地震
―“お亀の方(相応院)の妹は山下氏勝の妻だった”―

 倉田 美博 (会員) 

 今年(2018)の晩春から初夏にかけては異常な天候が続いた。空梅雨でいつ雨が降るのかと空を見上げる毎日。すると、6月18日朝襲った震度6の大地震。有馬-高槻活断層が動いたとのこと。続いての長日にわたり降り続いた豪雨、桂川ももう少しで決壊。岡山や広島、愛媛では洪水や土砂崩れなどの大きな被害をもたらした。雨が止めば連日38℃越えの厳しい暑さ。連日熱中症で、救急車も大忙し。さらに止めは異常な進路で来襲した台風12号。八幡の街の屋根にはブルーシートで覆われている家屋もたくさん見受けられる。
 これ以上異常が続き、日本が沈没しなければよいがとただ祈るだけ。

天正の大地震と山下氏勝

  文禄5年(1596)に発生し、豊臣秀吉(1537~98)が隠居用として築城し完成したばかりの伏見城天守を倒壊させた「慶長伏見地震」も有馬―高槻活断層だそうだ。
 秀吉がこよなく愛した有馬温泉もこの有馬―高槻活断層上にある。
 ここまで来ればワイドショー的なキャラ(失礼)の持ち主、豊臣秀吉。何か、今まであまり表に出て来ない話題があるのではと少し歴史書をひも解いてみた。
 「慶長伏見地震」より少し前に天正13年(1586)11月29日午後10時過ぎ(亥下刻)中部地方から近畿地方にかけて大地震が発生した。
 その時、秀吉は琵琶湖畔の坂本城に居た。秀吉は恐れおののき、「わしはなまずは大嫌いじゃ」と、叫びながら、馬を乗り継いで大坂へ駆け戻ったという。
 なに、秀吉が坂本城で大地震に会う。・・・ひょっとすれば・・・怨念が!・・・
 そうではなかったようだ。震源は琵琶湖周辺ではなく飛騨の国白川郷近くだったが、畿内にも大きな被害をもたらしたようで、長浜城なども大きな被害を受けており、想像を絶するような大規模な地震だったとのこと。
白川郷には信州松代の戦国大名、内ヶ嶋氏理が帰雲城(かえりくもじょう)を築いていた。上杉景勝が越中へ攻め入ったために内ヶ嶋氏理は度々、盟友佐々成政の援軍として越中へ出兵している。

 その後秀吉から所領を安堵された事を祝うために氏理は祝宴を開こうとし、内ヶ島一族や能楽師を帰雲城に呼び寄せて、準備の真っ最中。ところが宴を翌日に控えた天正13年(1585年)11月29日、白川郷一帯を大地震、いわゆる天正地震に襲われた。背後にそびえる帰雲山は山全体崩壊し、土石流は直下にあった帰雲城をはじめその城下町を飲み込んだ。内ヶ島一族や町の人々は逃げるすべもなく、全員が生き埋めとなり死に絶えた。f0300125_1826541.jpg
 この時、城下町には300軒の家があったと言われるが、すべてが埋没した。土石流は横を流れる庄川を塞き止め、洪水も発生した。今でもその痕跡は残っているとのこと。(写真参照)現在は帰雲城の推定地には、帰雲城趾の碑が建っている。
 この地震によって大名としての内ヶ島氏は一夜にして滅亡してしまった。たまたま、帰雲城に居なかった、家臣で一族、支城、萩町城主の山下氏勝は生き残った。
 先年、私は観光で白川郷を訪ねている。天正の大地震のことなど、全く知らず、少し足を延ばせば萩町城跡へ行けたにもかかわらず、あの世界遺産の合掌造りだけを見学して、雪深い山里の生活を垣間見ただけだった。もし、知っていたとしても今回の大阪北部地震に遭遇していなければおそらく関心を示さなかったのではないだろうか。

山下氏勝は「お亀の方」の妹を娶った

 山下氏勝は清州の城を名古屋に移すことを首唱したこと以外は歴史上ほとんど伝えられていない武将だ。
 清州越しと言われ、慶長12年(1607)義直の尾張藩入封の際、軍備上のことなどから居城を清須より名古屋の方が何かと有利だと家康に移すように進言し、認められたことを言う。
なぜ、山深い飛騨の小領主内ヶ島氏の家老であった山下氏勝が徳川家康の近衆となったのだろうか。
氏勝の系譜から見れば主家内の島氏滅亡後、初めは豊臣氏に属していたものと見られる。天正18年(1518)小田原陣のころは先手を勤め、文禄の朝鮮征伐には名護屋に従い行ったことが伝えられている。
 家康に付き従うようになったのは詳しくわからないが恐らく関ヶ原の合戦前後と考えられ、その後、近江蒲生の地を拝領すると共にやがて義直の近衆を命じられている。秀吉に属していたものをなぜ家康の近衆としたのだろうか。
 そこにお亀の方(相応院)の姿が浮かび上がってくる。氏勝は家康の側室で、義直の母、お亀の方の妹である志水加賀守宗清の娘を妻に娶り、長男、氏政をはじめ氏忠、氏紹、秀氏、時氏の五男三女をもうけた。相応院は正妻ではないので正確には言えないが、いわば家康と氏勝は義兄弟ともいえる。
 氏勝がいつ頃に相応院の妹を娶ったかは明確ではない。恐らく家康に付き従うようになった関ヶ原の合戦のころではないかと推測できる。
 詳細は明確なことが伝わっていないので確定できないが、諸侯が失策しても氏勝をとおして相応院よりお願いすれば家康を和らげることはできたとも言われている。

お亀の方(相応院)

 では、お亀の方(相応院)とはどのような人だったのだろうか。
 家康の晩年側室3人衆のひとりと言われ、京の近郊の石清水八幡宮の神職清水八右衛門の娘で、後家となり、里に帰っていたところを、秀吉が伏見に造営を始めた伏見城の与力として伏見に滞在していた家康に見初められた。f0300125_184267.jpg
彼女は、今までの家康の側室とは全く違う、まったりとしたみやびな京女。で、すっかり家康はのめり込んだと伝えられている。
 慶長5年(1600年)の関ケ原の戦が始まる前には、相応院を伏見から石清水八幡宮に避難させほどだった。慶長5年11月28日に幼名千代丸(御三家尾張藩初代藩主 徳川義直)を伏見徳川屋敷で出産している。
 家康は、女好きの後家殺しと一般的に揶揄されるが、若い女性を側室とするわけではなく、恐らく優秀な女性の能力と忠誠心を高い女性を身近に置き、家臣同様に扱い、その助言に真摯に耳を傾けていたと考えられる。
 現在でもマーケティングや商品開発には女性の意見を取り入れることが大切で、女性を存分に活用している企業が発展しているように思われる。
 家康はあの女性が軽視されている時代であっても、男が集めるものとは違った女性からの情報をうまく活用して天下を取ったのではないだろうかと思う。
 相応院はまた氏勝を色々な意味でブレーンとして、家康にいろいろと情報を提供していたのだろう。家康も中には無理難題もあっただろうが、家臣の持ち込む情報と異なった、新鮮な情報に耳を傾けていたのではないか。
 相応院が義直の妻女の件で、候補の3人の諸侯の息女を物色して氏勝に相談したところ、即座に浅野紀伊守幸長の娘、春姫(高源院)を推挙したとのこと。
 なぜなのか。豊臣の五奉行の筆頭奉行で、豊臣家とつながりが深い、浅野長政の孫娘にあたり、理由ははっきりわからないが、長政は石田三成とは意を異にしており、関ヶ原の合戦で、東軍に付き、幸長と共に参戦している。
 二人は豊臣の時代から五大老、五奉行としての面識もあり、親しい関係にあったようで、長政が隠居後は、徳川家康の話し相手、相談相手として囲碁や茶会をして過ごしたと言われている。

 大阪北部地震、有馬―高槻断層帯、有馬温泉、慶長伏見地震、伏見城倒壊と語句を並べてみるとまず頭に浮かぶのが、豊臣秀吉とのつながりを考えざるを得ない。
 今でも何かにつけても愛されている秀吉。何か、あまり人に知られていない話が隠れていないかと面白半分で、調べ始めた。
 ところが全く異なった話に行きついた。
 今回この話を書いていて感じたことは、戦国時代の武将たちの人間関係。今迄から言われている下克上だけではない。地理的な条件。運命とも思われる自然災害など、色々な要件によって、人生が左右される。自分が生き抜くためにいかに策を巡らせてもどうすることもできないことも多々あるのだ。
 今回は調査期間も短く、十分に調べ切れたとは思われず、間違いや勘違いなども多々あるかと。そのような点、何卒ご容赦いただき、ぜひご指摘、ご教授いただければと存じます。
2018-8-16空白

参考資料
 ・日本近世史説 花見 朔巳 他
 ・岐阜県白川村ホームページ
by y-rekitan | 2018-09-28 08:00 | Comments(0)
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