◆会報第88号より-02 馬場遺跡

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《講演会》
馬場遺跡の発掘調査を終えて
-善法寺家邸宅跡地-


2018年10月 
八幡市文化センター第3会議室にて

        小森 俊寛 (京都平安文化財 顧問)
 
  10月13日(土)午後1時半より、八幡市文化センター第3会議室にて表題の講演が行われました。概要を報告します。
 講師の小森俊寛氏は、(財)京都市埋蔵文化財研究所にて長年京都市内の埋蔵文化財の発掘調査と研究に携わってこられました。そして、平成14年頃から八幡市における埋蔵物の発掘調査に関与し、同22年から5年間は八幡市教育委員会文化財保護課に在籍、馬場遺跡第1次~第6次の調査をされ、平成29年度に再びの要請を受け第9次調査及び発掘調査報告書の取り纏めをされました。
 本報告は当日の配布資料及び講演の内容を取りまとめ、講師の小森俊寛氏の同意のもとに掲載するものです。なお当日の参加者は44名でした。

1、馬場遺跡について

 馬場遺跡は、石清水八幡宮長官(社務)家のひとつ、f0300125_10393148.jpg善法寺家の邸宅がったことで知られている。
 遺跡は男山東麓沿いに南北方向に広がる石清水八幡宮寺の門前町〔現八幡市の市街地中心地域と重なる〕にあってその南半の北部に位置する平安時代から江戸時代(近代初め)の集落跡(門前町跡)とされる位置にある。地名をとり、「馬場遺跡」としているが、本来的には石清水八幡宮寺の4祠官家の一つである善法寺家推定台地と同家の氏寺でもある、その北東に現存する善法律寺を主体とし、その周辺に点在した同家関連宅地帯を一部含んだ遺跡である。
 小台地の高みに明治時代に菊大路家と名を変えた邸宅が残っていたことは、今も地域住民の記憶に残っており、4祠官家跡のなかで唯一良好な遺存状態にあると考えられた。このため、馬場遺跡とする前段の平成21年頃からすでに遺跡調査を意識した取り組みを始めていた。石清水八幡宮寺の国史跡化を目指すなかで、同宮寺の門前町遺跡調査の必要性に対する認識が各方面で高まってきた。そのような機運の中で、馬場遺跡遺跡として設定し、f0300125_10514278.jpg同遺跡内で邸宅推定地の確認調査を平成23年度(1次)から調査を開始し、国庫補助関連の発掘調査は一昨年度、平成28年度(第8次)に終了し、昨年度に報告書を作成するための整理作業を行い、年度末(今年3月)に報告書を作成した。    
 なお昨年度は、同遺跡内の宅地開発に関連した民間施主の協力を得た発掘調査(第9次)を実施したが、ここでもその成果の一部には触れるが、主な内容は後日に譲る。
 以下では、昨年度の報告書に掲載した調査に至る経過と最後に記した課題と調査成果をまとめた総括を合わせて資料として提示する。

2、善法寺家邸宅跡とは

 石清水八幡宮長官(社務)家のひとつ、善法寺家の16世紀前半以降の邸宅跡。f0300125_1101025.jpg長官は「検校」と称され、護国寺別当の上位の職として、鎌倉時代中葉以降常置となり宮寺の全権を掌握した。別当や検校は平安時代以来、宇佐八幡宮からの遷座を行った僧・行教律師の家系が勤めてきたが、鎌倉時代以降、田中(現在の宮司家の系譜)、善法寺両家が交替で社務につくこととなり、のちに両家から分かれて壇、新善法寺、東竹家等も起こり、家督相続でしばしば混乱も起きた。善法寺家は室町時代には将軍家の御師(祈祷師)を勤めた家柄で、善法寺通清の娘・紀良子は室町三代将軍・足利義満の母である。
 平安時代後期に娘を鳥羽天皇に嫁し、大きな権力をもった別当 垂井光清の子、成清が善法寺家の祖といわれる。『男山考古録』によると、光清の代より、科手(現木津川河川敷辺り)、家田、馬場(善法律寺東南)と邸宅を移すが、永正年間(1504~1521)頃から現在の地に居住したと推測されており、明治時代までこの場所で存続していた。
 その邸宅の場所は江戸時代中期の八幡山上山下惣絵図や石清水八幡宮全図にも描かれており、旧公図等の資料からも推測可能である。社務家の邸宅跡は、ほかに田中家、新善法寺家が知られるが、近年の宅地開発から免れている邸宅跡として唯一のものであった。
 北約100mにある善法律寺は、成清の子・宮清が13世紀中頃に私宅を僧坊として一山を開いた。

3.善法寺家邸宅跡地の発掘調査概要

(1)屋敷地の範囲
 今回の調査で、屋敷地の範囲はほぼ明らかになった。南限がほぼ判り、門跡を含む東限も明確に判ってきた。門跡は、f0300125_1161087.jpg現道路と重なる南北のほぼ中央付近で東限から東に張り出しており石垣に寄って支えられている状況である。東から登り門へ入る石の階段も想定される。門跡北側の門に近い部分に堆積岩(男山産出)石垣が残り、その北部は花崗岩(八幡では産出しない)主体の石垣に改変されている。
 四方の屋敷地境界がほぼ明らかになり、屋敷の大きさはほぼ判明した。東西幅が約60m、南北幅が68m程となる。中世段階では南側が谷地であり、屋敷地は約3,000㎡程であった。南に拡大した近世段階では、約4,000㎡(1,200坪)程となる。

(2)屋敷地内の建物等の配置
 調査中に母屋を想定していた付近に設けた第7次、第8次調査地では、大規模な錯乱により多くの遺構や整地層等が削平されていた。従って、中世末期から近世にかけての屋敷地や建物の痕跡が確認できていない。f0300125_11145189.jpg但し、屋敷地の東北部や北西部の第4次調査では、礎石の抜き取り穴や掘立柱建物の柱穴かと見られる痕跡が確認できたので、第7次、第8次調査区以外の第2次~第4次調査区及びそれら以外の未調査地については、善法寺家邸宅に係る全時期の遺構が遺存している可能性が高いと考えている。
 屋敷地南西部の第4次調査では、園池の一部と理解される近世以降の池状の遺構を確認している。よって近世の屋敷地配置については、屋敷地南西半には池があり、北半に主屋、その西側にはその離れ等の建物跡が展開したものと考えられる。

(3)出土遺物
 第4次調査(平成26年)の石垣の裾には、門に使用されていたと見られる瓦や、屋敷地内で使用されていた陶磁器類等を含む土が被っていた。陶磁器のなかには、中世~近世の天目茶碗や高麗茶碗とも見てよい高級な茶陶類が含まれていた。屋敷が栄えていた室町時代から桃山、江戸時代には屋敷内で茶の湯を含む喫茶が日常的に行われていたことを示している。
 また、16弁の菊文鬼瓦等もその付近から出土している。これと同様の菊文鬼瓦は北東隣地の現善法律寺の東正門の下り棟の先に飾られている。菊文鬼瓦は、同文を許可された足利家との関連の深さを窺わせる重要な物的資料である。この鬼瓦を製作した工房は、八幡志水の瓦屋であることも銘文から判明している。
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 これらの石垣や瓦屋根であったと見られる立派な門跡からは、善法寺家の江戸時代の邸宅が、小城郭あるいは寺院に比する格の高い大邸宅であったと見て良いだろう。
 また、一昨年度までの8次にわたる調査においては、土師器・須恵器を中心にした土器・陶磁器類や、各種の瓦類などの焼もの賓料が多数出土している。他に、鉄釘などの金屈製品、銅銭、石製品、土人形、土管等の土製品も少是ではあるが出土がみられた。最的にはコンテナ(整理箱)にして合計60箱程で、立当たり0.07箱が出土している。

4.門前町遺跡の保護について

 今まで残っていた遺跡を次の世代まで残さなくても良いのか、残すためには余程八幡の歴史を勉強して、その価値を評価する必要がある。今回のような行政発掘は、殆どが記録保存である(遺跡を潰すことと同じ)。このことは土地を持っている人の問題ではなく、八幡市全体の問題として捉えてほしい。保存方法は多様であり、遺跡を皆無に帰さないためにも、現在の開発には勝れて柔軟な学術的、行政的な対応が必要であるだろう。
 八幡は八幡宮の門前町であり、もっと以前から景観を保存していたら、宇治に負けない門前町として八幡宮と共にアピールできたと思う。
 京の表鬼門の比叡山は世界遺産に登録されている。裏鬼門の八幡も八幡宮を中心とした門前町として、京都文化を形成した(京都文化=日本文化)神仏習合の大きな存在であったので同様に世界遺産になれるはずである。
 これからは住民意識として、行政が「世界遺産を目指す」と宣言することを願っている。

『一口感想』より

小森先生、八幡の歴史を探究する会の皆様、ありがとうございました。大変勉強になりました。 (M.Y.)
善法寺家の遺跡が残せなくても、発掘されたら歴史が解明されるべき。遺跡がなくなったので、その機会が永遠に失われてしまった。我々が語り継げるよう善法寺家の探究を進めたい。 (D.M.)
大変楽しいお話をありがとうございました。小森さんのメッセージをひとつは受けとめられたと思います。八幡市民として足元の歴史を深く学び将来の町づくりへ展望をつかむことだと。 (F.N.)
遺跡の発掘調査は破壊であると聞き、なるほどと思う。文献上だけで残すほかないのは残念で、後世に残せば新技術によりさらに発見が出るのではないかと思われる。 (T.Y.)


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by y-rekitan | 2018-11-30 11:00 | Comments(0)
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