◆会報第88号より-03 古墳と鏡⑫

シリーズ 「八幡の古墳と鏡」・・・⑫


八幡の古墳と鏡(12)

―伝えていきたい八幡の奥深い古墳時代(その2)―

濵田 博道 (会員)

6、横穴墓について

①被葬者像をめぐって
 「八幡の古墳と鏡(9)」で、近年発掘が進んだ八幡(近辺も含む)の横穴墓の数や、その被葬者像の説についてふれましたが、追加したいと思います。
 その一つは、横穴墓の荒坂5号墳から副葬品として継体大王の妃・尾張の目子媛(めのこひめ)に関わる東海系円筒埴輪(尾張型埴輪)が出土(それ以外にも京田辺市・堀切古墳群、八幡市・新田遺跡からも出土)していることから、横穴墓の被葬者の中に継体大王を支援した南山城勢力(その後裔)の可能性を指摘する説です。横穴墓が造られ始める50年ほど前の6世紀前半、近江・越前・美濃・尾張の勢力を基盤とし、河内の馬飼首荒籠(うまかいのおびとあらこ)(荒籠は人名)にいざなわれて継体大王が擁立されますが、その支援勢力として木津川・桂川・宇治川・淀川水系の勢力が考えられています。継体大王の宮が樟葉宮・筒城宮・乙訓宮へと遷り(『日本書紀』)、河内・山城地域に宮をおいていること、9人(あるいは7人)の妃の中にこの地域の出身の女性がいること、陵墓が三島・摂津の地域にあることなどがその根拠です。八幡・京田辺地域の横穴墓推定数は600~700基と京都府下最大級。従来の隼人の墓説では説明しきれないほど多く、また隼人の墓であることを証明する墓の構造や遺品の決定打が見当たりません。南山城の広い範囲の勢力が継体大王支援にまわり、継体大王没後もかなりの勢力を保っており、王権からその墓域として八幡・京田辺の地域を指定され、須恵器などの供給を受けたと考えればつじつまが合います。
 次に、二つ目の説として加藤雅士氏は「南山城の横穴墓群」(注10)で次のように述べています。“八幡市から京田辺市の横穴群の周辺には隼人や土師氏、渡来系の松井氏がおり、いずれの氏も中央との関わりが考えられ、これらの有力家長層の墓ではないかという説です。また横穴墓が集中する一帯は古山陰・古山陽道と河内への峠越えが交差する交通の要衝であることから中央政権が大規模な横穴群の造営に関わっていた可能性がある。それまで地域の有力者を通じて間接的な支配だったものが、中央政権の掌握が一般民衆まで直接的に及ぶようになり、古墳に埋葬されなかったこれらの有力家長層が古墳(横穴墓)に埋葬されるようになった。中央政権による南山城地域の掌握を伺うことができる。”(要約)(注11)というものです。
 以上を含め横穴墓の被葬者像として①地域の有力家長層②広範な近隣の有力農民層③隼人④継体大王支援勢力(後裔)⑤これらの人たちの複合墓などの説が挙げられるのではないでしょうか。いずれにしても大和政権直轄支配が考えられ、今後横穴墓の被葬者像説がどう展開・収束していくのか、注視していきたいと思います。

②埼玉県の横穴墓群「吉見百穴」を見学して
 横穴(墓)の知識を広げようと、埼玉県比企郡吉見町に所在する国指定史跡の吉見百穴(よしみひゃくあな)横穴墓群(現在総数219基)を訪ねました。f0300125_12312269.jpgここは元々横穴墓が230基以上ありましたが、戦時中、この岩山に地下軍事工場が建設され、10数基の横穴墓が壊されてしまいました。吉見町では横穴墓を「おうけつぼ」といわず、「よこあなぼ」といっています(吉見町教育委員会「古墳の里 吉見町の文化財」)。案内の横幕には「横穴古墳群(よこあなこふんぐん)」と書かれています。この横穴墓群と八幡の横穴墓群との違いとして気づくことは、その作り方として凝灰岩質砂岩という掘削に適した岩盤に、あたかもマンションのように築かれていることです。大分県の「滝尾百穴横穴古墳群」(6世紀後半~7世紀)もマンション状に造られており、崩れやすい質の土・岩かどうかによってマンション状、あるいは八幡のように一列状に横穴墓が造られているようです。他に、南九州に隼人の墓制として地下式の横穴墓もあります。第二の相違点として横穴墓の壁際に棺台(ひつぎだい)と呼ばれる10~20cm程の段が作られており、ここに死者を安置する構造をしています。八幡の横穴墓には棺台は見当たらないです。第三に八幡の横穴墓は羨道(せんどう)入り口を土・小石で蓋をしていますが、吉見町の横穴墓では立石の「緑泥片岩(りょくでいへんがん)」の蓋です。岩と土の違いはありますが蓋をしている点は同じです。第四に、築造時期は古墳時代後期(6世紀末~7世紀末)で、八幡の横穴墓より新しく(遅れて)始まり、その終わりも数十年新しいです。九州から築造が始まった横穴墓の築造が次第に東方に広がっていったので、近畿より新しくなっているとのことです。複数の死者を葬る追葬の方式は古墳時代の石室構造(横穴式石室)や八幡の横穴墓と同じですが、違うのは追葬が古墳時代で終わり、奈良・平安初期には再利用されていないことです。
 吉見町の横穴墓は1887(明治20)年に発掘調査が行われていて、須恵器[平瓶、短・長頸壺(たん・ちょうけいつぼ)、高杯、はそう、堤瓶(さげべ)]、耳環(じかん)、鉄鏃(てつぞく)などが出土しています。これらの副葬品は八幡の横穴墓と大差ありません。他に直刀、玉類(勾玉・管玉)、金銅金具なども出土しています。須恵器は畿内で造られたものだと思われますが、その流通経路などは不明です。被葬者について吉見町埋蔵文化財センターで尋ねると、横穴墓が多数なので被葬者は地域の王ではないが、須恵器・耳環・玉類など貴重なものを副葬している点などから庶民ではなく、王に仕える高官であったと考えられる、子供用としか考えられない小さな棺台もあり、有力者の家族墓である可能性も残している、また周辺ではこの地域に限って横穴墓が存在するとのことでした。
 吉見町役場発行の『吉見の百穴』(2006)によると、“横穴墓を穿った工具として天井や側壁に残る跡から側壁は手斧(ちょうな)、「側壁と床に接した部分は、細くとがったヤリガンナでしょうか”と記されています。手斧、ヤリガンナは木工具と理解していたのですが、この記述から岩を削るのにも使用されていたようです。

③韓国での横穴墓の発見
 最近、韓国公州市(古代百済・2番目の王都)付近のいくつかの遺跡で横穴墓群が発見されています(計36基)。築造時期は5世紀末~6世紀前葉とされていて、八幡市で発掘されている横穴墓のルーツはどこにあるのかと気になります。最も横穴墓の多い公州市丹芝里(たんじり)の調査で韓国・慶北大学の朴天秀(パクチョンス)教授は「三国(高句麗・新羅・百済)時代における墓制の中でその(=横穴墓群の)系譜がたどれないこと、九州の周防灘沿岸と遠賀川流域の横穴墓と類似し、また須恵器あるいはそれの模倣土器が副葬されていることから北部九州地域の倭人と考えられる」と述べています(注12)。475年、高句麗に王が殺され危機に陥った百済に対し、日本にいた王子・東城王の帰国を筑紫国軍士500名に護衛させ随行させた旨の記事(『日本書紀』雄略23(479)年)もあり注目されます。
 最近の調査では日本の横穴墓の始まりは5世紀の前葉まで遡るとされている【鹿児島県鹿屋(かのや)市岡崎18号墳】ことなどから、横穴墓のルーツは日本の九州にあるといえそうです。

おわりに

 近年、古墳に対する関心は全国的にみて、高くなってきていると感じています。例えば、2017年、「宗像・沖ノ島と関連遺産群」(福岡県)が世界文化遺産に登録され、その中に「新原(しんばる)・奴山(ぬやま)古墳群(6世紀)」が含まれています。また2010年、「百舌鳥・古市古墳群」(大阪府)が「世界遺産暫定一覧表」に記載されました。京都府内では、2016年向日市・長岡京市・大山崎町所在の11基の古墳が乙訓古墳群として、国指定史跡になりました。国指定史跡とは「貝塚、集落跡、城跡、古墳などのうち歴史、学術上価値の高いものを指し、国によって指定されたもの」です。保存され、地域の中に息づき、住民の憩いとなる場としての史跡が目指されています。
 最近保存されることが決まった古墳もあります。f0300125_924236.jpg静岡県沼津市の高尾山古墳(前方後方墳,62m,230年頃築造)がその例の一つです。(弥生時代の墳墓ですが、現地の呼び方に従い古墳と呼びます)。2005年から市の教育委員会が調査を続けてきましたが、古墳を削って道路を建設する計画が浮上しました。この古墳から後漢時代の獣帯鏡・勾玉・槍(やり)(2点)・鉄鏃(32点)、それに今回話題の「鉇(やりがんな)」も出土しています。2008年の調査でこの古墳が東日本最古・最大級であることが明らかになり、市民からも「1800年も前に造られ、祖先が守ってきた古墳を、今、道路を作るからというので壊していいのか」と保存運動が起こりました。その後、古墳の重要性が認められ、計画を変更。残しながら道路を建設することになりました。沼津市教育委員会・沼津市文化財センターが発行した『スルガの王ここに眠る 高尾山古墳』(2017)には「沼津には、こんなすごい古墳が眠っていたんだね。高尾山古墳の大切さをしっかり学び、沼津だけでなく日本の貴重な遺産としてこの先もずっと大切に守っていきたいね。」と書かれ、現在、市も市民も古墳を保存することで一致し、その方向で進んでいます。

 八幡にも古墳時代の先人の確かな営みがあり、九州地域や朝鮮半島を含めた他地域との交流がありました。次代に伝えたい奥深い歴史・文化をもっています。これからもその歴史や文化について学んでいきたいです。(完)

(注10)加藤雅士「南山城地域の横穴墓群」『京都府の横穴墓-横穴墓に葬られた人々』,京都府教育委員会・京都府埋蔵文化財調査研究センター,2018
(注11)『内里八丁遺跡Ⅱ』,京都府埋蔵文化財調査研究センター,2018及び(注10)によると、




隼人-九州南部の人々が連れてこられ、朝廷の儀式・警護などに関わっていた集団(の末裔)。主に大住に居住。
土師氏-土器、埴輪づくり、天皇家の食膳を司る役目、葬送儀礼に関連する集団。内里に居住。
松井氏-渡来系の集団。
(注12)朴天秀『伽耶と倭』,講談社,2008


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by y-rekitan | 2018-11-30 10:00 | Comments(0)
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