◆会報第88号より-04 お亀の方

お亀の方について

丹波 紀美子(会員)


「家康の側室お亀の方が2度結婚して2人の子供を持って3度目に家康の側室になった」という話をI氏から聞いて、びっくりして、そして調べることにした。
お亀さんに関する講演会資料や正法寺所蔵『志水家系』、正法寺の名宝展、私の住んでいる近辺裏話、ネットで探したお亀さんやその周辺に関する話を駆使しながら記してみようと思う。

 f0300125_14201875.jpgお亀さんの出生は天正4年(1576)(志水家系)と天正元年〈1573〉(徳川美術館参与・佐藤豊三・・尾張説)の二通りあるが、この度は正法寺所蔵「志水家系」の天正4年説とする。死亡は寛永19年〈1642〉9月16日 享年67歳。

☘ 亀女の父・志水宗清

 作家の津田三郎氏の『京の町に史実を追って』の一文ではお亀さんの父・志水宗清のことを家康から尋ねられた亀は、「父は石清水八幡宮の修験者です」と答えると、家康は「そのことは今後一切他言せず、直ちに父を還俗させ頭髪を伸ばすように」と厳命した。出典は『柳営婦女伝系』だろうか?
 正法寺を開創した高田忠国の子孫(後に志水と改姓)が何故石清水八幡宮の修験者なのだろうか?八幡宮の社家であり正法寺の大旦那であるはずだが・・・。
〇志水宗清は石清水八幡宮祠官家の東竹甲清(田中の分家系)の娘と結婚し亀女が生まれた。東竹甲清の孫が亀女ということである。
〇亀女の母は宇治の茶師・尾崎坊家の尾崎坊永教の姉・花月院で八幡志水家に嫁ぎ相応院を生んだ。尾崎坊家も後にお亀の方のお取り立てで尾州にも出入りするようになったと宇治市歴史資料館にある「尾崎坊家文書」に記されている。
 ※このように亀女の出生には、二つの説が存在していて亀女の出生も謎の様だ。

☘ 亀女の結婚

 亀女が最初に嫁いだのは竹腰定右衛門正時という。竹腰氏の出自は江州大原荘(現在の米原市辺り)を領し、大原氏と名のっていたが、後に尾張国中島郡竹腰村に移住し、竹越と名のった。その後、美濃にも進出し美濃の斎藤氏に仕えた。正信の3代前の重綱〈道鎮〉は斎藤道三に仕えたという。道三と息子の義龍との戦の時には義龍につき、その後、道三の孫の龍興は家臣の人望がなく離反者が相次ぐ。親戚の朝倉家へ逃れ、朝倉家滅亡の時に龍興も戦死し天正元年〈1573〉斎藤家は滅んだ。
 或いは竹腰家は金森氏(飛騨国高山城主)の一族、土岐源氏の一族ともいう。
 これも謎であり定かではない。 
 以後の竹腰家の足取りは分からないが、亀女の夫・竹腰正時は八幡宮に寓居していたともいわれている。
 竹腰正時と亀女の間に正信が天正19年〈1591〉1月21日に誕生した。亀女15歳の時であったという。
 後に尾張大納言徳川義直の御附家老・今尾3万石の城主である。父の正時は討ち死にとも切腹ともいわれている。f0300125_14324719.jpgまた正信がお腹にいる時に離別したとも、後に定右衛門が亡くなったので離縁したとも伝えられている。
 次の結婚は、石川光元・龍野城主(豊臣秀吉家来)の側室として光忠(文禄3年・・1594)を生む。しかし光元の正室(浅井井頼の娘)の嫉妬によりお亀の方は程なく実家へ帰された。

※浅井井頼・・・浅井長政の家臣の浅井井規の子とも長政の次男、三男とも、との説もあるが浅井氏庶家の出。
その後お亀の方は奥務めに入り、徳川家康に見初められ、家康の側室となる。文禄3年〈1594〉18歳の時であった。

☘ 逸話

 亀女が家康の側室になった時の逸話が地元には伝わっている。
亀女が正信を木陰で行水をさせていたところ、誰か人の近づく気配があったので、子どもを水の入ったタライごと抱えて運んで行ってしまった。
殿様行列の前を子どもが横切ろうとしたので、驚いた彼女は子どもを軽々と抱きかかえて連れ戻し,事なきを得た。
 この亀女の怪力を目の当たりにした家康は,元気な子どもを産んでくれるのは、こういう女性だと考えた。
 逸話はともかくとして、彼女は美人で、ふくよかで聡明な女性であったと伝わっている。

☘ 家康とお亀の方との子ども

 家康とお亀の方の間に文禄4年(1595〉3月13日、仙千代を出産(家康の八男)。家康の重臣平岩親吉には嗣子が無かったため家康は仙千代を平岩親吉の養嗣子として与えた。しかし仙千代は慶長5年〈1600〉2月7日に6歳で早世した。
 その後、生まれ変わりのように家康の九男・五郎太丸(徳川義直)が慶長5年〈1600〉11月28日に伏見区大亀谷の清涼院で生まれた。f0300125_14562885.jpg今でもこの辺りの町名を五郎太丸町という。辞典類には概ね義直は大坂城西の丸で生まれたと書かかれているが、家康は身重のお亀の方をわざわざ風雲厳しい大坂城に残して江戸へ帰国するのだろうか?石田三成は武将の奥方を人質に取ったと言われた大坂城である。細川忠興の妻ガラシャは人質になるのを拒み家に火を放って死んだ話も残されている。家康が関ケ原の戦いに勝って大坂城に入城したとしても大きなお腹のお亀の方を大阪城に連れてくるのか?考えにくいことである。

☘ 徳川義直の兄弟

 次に義直の兄たちの話に移ってみよう。
 竹腰正信は良く知られているが、石川光忠のことを私は全く知らなかった。
 石川光忠は文禄3年〈1594〉豊臣秀吉の家臣で播磨国龍野城主石川光元とお亀の方の間に生まれた。父の光元は慶長5年関ケ原の戦いで西軍に属し改易され領地を失ったが、藤堂高虎のとりなしにより助命された。翌年の慶長6年〈1601〉6月19日没。子供の光忠〈1694生まれ〉は母が家康の側室だった関係で慶長13年〈1608〉に召し出され、慶長15年〈1610〉美濃国と摂津国に合計13000石の知行を受ける。慶長17年〈1612〉家康の命で尾張藩主徳川義直の城代家老で御付家老になる。
 後に石川家は4代目の正章から石河(いしこ)に改姓している。系図を見ると竹腰家と石川家〈石河家〉は婚姻関係を何度か結んでいるのに対し兄の志水家では見当たらない。
 因みに竹腰家は今尾30000石の御付家老。石河家も美濃駒塚10000石の御付家老である
志水家は大高城10000石の城代家老である。
御付家老・・・徳川幕府初期、将軍家血筋が藩主になった際に将軍家より直接命を受け付属させた家老。将軍家から徳川御三家に遣わした御付家老は幕府と藩の双方から家禄を受けていた。
城代家老・・・城主の留守中代理として城を管理する。


☘ 近辺裏話
 
 私が住まいをしている近辺の一寸不思議な話を紹介してみよう。
 近所には7軒の〇〇家あり、毎月8日の夜には〇〇家の家長が集まって志水亀女の守り本尊とされている薬師如来像を中心に日光菩薩,月光菩薩その両端に12神将に燈明を上げてお祀りをしておられる。本尊の薬師如来像は松花堂美術館で平成23年10月19日から12月4日に開催された「昭乗と徳川家ゆかりの人々」の展覧会に相応院「お亀の方の念持仏」として出展されていた。
 f0300125_158944.jpg桃山時代末期、〇〇家の親族といわれる志水家の娘・亀女が家康の側室に上がるとき、守り本尊を地元の〇〇家に置き、祀ってほしいとの要望で〇〇の本家を中心に分家を合わせ計7家で祀っているという。江戸時代から延々と今日に至っている不思議な「一族」である。
 江戸時代、この7〇〇家は20町歩(200反)の土地を安堵されていたという。石高に換算すると正法寺が500石で40町歩ということだから20町歩は250石の石高を示している。        る。
 明治になり政府の通達で20町歩(200反)の田地を7軒に分割され各々が所有したそうである。しかし戦後の農地解放により、農業をしている〇〇家には田地が残り、非農家は没収された。〇〇家のある関係者は「ただ同然でとられてしまった」と嘆いていたと聞く。
 亀女は「この薬師如来像を私だと思って祀ってほしい」と頼んで家康の元に上がったという言い伝えを守り、〇〇家代々の人たちは、心のよりどころとして祀ってきたそうである。そんなこともあって〇〇家の人たち中には亀女の本当の出自は〇〇家ではないだろうか?と、家康に見初められ側室に上がるときに志水家の養女になったのではないだろうか?と疑問を持った人たちがいる。しかし確固たる証拠もなく憶測として口から口へと半信半疑で伝わってきたようだ。
 この話はある故人になられた〇〇家の人から聞いた話で、その話に大変興味を持ち、ず~っと前から〇〇家の他の人たちから聞き合わせ、時には8日の夜お邪魔して調べて温めてきたものである。
 お亀の方は出生も二通りあり、彼女の母の出自も二通りあり、謎が謎を呼ぶミスティリアスなお亀の方ではあるが、400年間ひっそりと守って来られた〇〇家に対して掲載することに抵抗をお持ちの方もいらっしゃる様でご迷惑をかけるとしたら心からお詫び申し上げます。

参考資料
正法寺所蔵「志水家系」
正法寺の名宝展 (於・松花堂美術館) 随感 お亀の方 あとがきにかえて 元松花堂美術館学芸員・関河礼子
石清水八幡宮祠官家資料
京都残照(一)
ウイキペディア・・名古屋市史。尾張藩諸家系譜

by y-rekitan | 2018-11-30 09:00 | Comments(0)
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